聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、申命記34章1節〜9節です。
34:1 モーセはモアブの平野からネボ山、すなわちエリコの向かいにあるピスガの山頂に登った。主はモーセに、すべての土地が見渡せるようにされた。ギレアドからダンまで、
34:2 ナフタリの全土、エフライムとマナセの領土、西の海に至るユダの全土、
34:3 ネゲブおよびなつめやしの茂る町エリコの谷からツォアルまでである。
34:4 主はモーセに言われた。「これがあなたの子孫に与えるとわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓った土地である。わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない。」
34:5 主の僕モーセは、主の命令によってモアブの地で死んだ。
34:6 主は、モーセをベト・ペオルの近くのモアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない。
34:7 モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。
34:8 イスラエルの人々はモアブの平野で三十日の間、モーセを悼んで泣き、モーセのために喪に服して、その期間は終わった。
34:9 ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った。
「神の導きは終わらない」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日も最初に子どもメッセージからしたいと思いますが、
私たちは、これまで、モーセという人のお話を、続けて読んできました。
去年の11月からですから、4ヶ月ぐらい続けて読んできたことになります。
どんなお話があったか、覚えているでしょうか。
エジプトで苦しめられていた人たちを助けたお話とか、
水も、食べるものもないような荒れ野を旅するお話とか、
十戒っていう教えを、神様から受け取る話もありました。
そんなモーセのお話も、いよいよ今日で最終回になります。
最終回には、モーセが死んでいく様子が書かれています。
120歳だったそうです。すごい長生きですよね。
モーセが神様に選ばれて、イスラエルの人たちのリーダーになったのは、80歳の頃でした。
それから40年間、モーセは、イスラエルの人たちを先頭に立って導いてきました。
エジプトから脱出する時も、荒れ野を旅する時も、いつも人々は、モーセの後をついていきました。
モーセが死んだ時、イスラエルの人たちは、泣きました。
30日間も、嘆き悲しんだって書いています。
「モーセがいなくなったら、この先どうなるんだろう」って、心配になった人もいたと思います。
でも、大丈夫でした。
神様は、モーセに代わって、ヨシュアっていう新しいリーダーを、ちゃんと準備しておられました。
モーセの旅は終わります。
でも、イスラエルの人々の旅は、終わりません。
新しいリーダーであるヨシュアに導かれて、この後も、旅は続いていきます。
リーダーは、変わっていきます。
モーセの次はヨシュア。
ヨシュアの次は、士師って呼ばれる人たち。
そしてその後も、サムエルとか、サウルとか、神様は、その時々に、相応しい人をお遣わしになりました。
そうやって、神様は、イスラエルの人たちの歩みを、導いていかれたんです。
このことから、今日一緒に覚えたいのは、人は変わっていくけれど、神様の導きは変わらないっていうことです。
人は変わっていきます。
モーセ、ヨシュア、サムエル、サウル、時間が経てば、人は変わっていきます。
でも、神様は、変わらず共にいて、導いてくださる。
苦しい時には、助けてくださる。
迷った時には、こっちだよって、教えてくださる。
間違った時には、違うって、注意してくださる。
そうやって神様は、いつも変わらず共にいて、導いてこられました。
これは、今も変わりません。
大分教会も、できて76年目になりますが、これまで、いろんな人たちが支えてきました。
牧師でいうと、11人の人たちが、入れ替わりながら、この教会で働いてきました。
私も、その中の1人として、12年間、この教会で働かせていただきました。
今日で、その働きは終わります。
来月からは、12人目の牧師として、杉本拓哉牧師がこられます。
そうやって、人は変わっていきます。
でも、神様の導きは変わりません。
神様はこれからも、この大分教会を変わらずに、導いていかれます。
皆さんの中には、4月から、学校が変わったり、学年が変わったりする人もいると思います。
それによって、先生が変わったり、お友達が変わったりする人もいるでしょう。
でもどんなに人が変わっても、神様は決して変わりません。
神様は、いつまでも、みんなと一緒にいて、導いてくだる。
そのことを、ぜひ、覚えておいてほしいと思います。
人も環境も変わっていくけれど、神様は変わらず、私たちと共にいて、導いてくださる。
そのことを信じて、これからも、神様を見上げて歩んでいきましょう。
お祈りします。
・切ない終わり方
今日の箇所には、モーセの最期の様子が記されています。
読んでみますと、これがモーセの最期かと、そう思ってしまうほど、味気ないと言いますか、切ないと言いますか、そんな気持ちになります。
モーセは、神に従って、ここまで歩んできました。
エジプトで奴隷として虐げられていたイスラエルの民のもとへ遣わされ、
神の解放の御業のために用いられ、
そして、40年にわたる荒れ野の旅を、先頭に立って導いてきました。
その道のりは、困難の連続でした。
民の不平不満にさらされ、時に神と民との間に立たされ、引き裂かれるような想いも経験してきました。
それでもなお、モーセは神に従い続け、ここまで歩んできたのです。
そして、ようやく約束の地カナンを見渡せるところまでやってきました。
長い旅のゴールが、ついに見えてきた、その時です。
神は、モーセに言われました。
「あなたはこの地を見ることはできる。しかし、そこに入ることはできない。」
約束の地カナンを目前にしながら、モーセは、入っていくことができないと言われるわけです。
年齢のせいではありません。
彼はこの時、120歳でしたが、「目はかすまず、活力もうせてはいなかった」と記されています。
それなのに、カナンの地に入れなかったのは、神がそれを許さなかったからでした。
その理由として神様は、メリバの泉で、モーセが神に背いたということを言っています。
民数記20章に記されている話です。
どんな話かというと、モーセが、岩を叩いて水を出したという話です。
荒れ野の旅路で、飲み水が尽きた時、神様はモーセに、岩に向かって水を出せと命じなさいと言われました。
しかし、モーセは、命じるのではなく、杖で岩を2回打って、水を出しました。
これが、神の意に反するということで、モーセは、カナンの地に入ることを許されなかったと、聖書はそう語っています。
命じるか、叩くかの違いで、カナンの地に入っていけないなんて、ちょっと厳しすぎなんじゃないかと、私などはそう思うのですが、皆さんは、どう思われるでしょうか。
切ないのは、それだけじゃありません。
さらに今日の箇所を読みますと、モーセは、モアブの地でひとり死に、その墓を知る者もいないと記されています。
モーセほどの人物であれば、記念碑の一つや二つ、あってしかるべきだと思いますが、
葬られた場所すら誰も知らないなんて、ちょっと寂しいなと思います。
偉大な指導者であったモーセの人生が、このような形で幕を閉じるなんて、少し残念だなと思います。
モーセもさぞ、悔しい気持ちで、カナンの地を眺めていたことだろうと、そう思ってしまいます。
・祝福を持って見送ったモーセ
ところがですね、今日の箇所に至るモーセの姿を見てみますと、そこには、悔しさや悲しさ、神への不満や嘆きは、ほとんどみられません。
むしろモーセは、最後の最後まで神に従い、神の言葉を語っていったことが記されています。
今日の箇所の直前、33章の箇所では、イスラエル12部族のそれぞれの民のために、モーセが祝福の言葉を語る様子が記されています。
普通なら、カナンの地に入っていく人々を妬みたくなるような状況だと思いますが、
そうじゃなく、モーセは、祝福を持って、その人々を送り出していったのです。
・モーセが見つめていたもの
なんで、そんなことができたんでしょうか。
なぜ、モーセは、そのように見送ることができたのか。
それは、モーセが、カナンの地を望みながらも、なおその先にある神の目的を、見つめていたからではないでしょうか。
モーセにとって、カナンの地は確かに大きな目標でした。
しかし、それがすべてではなかった。
もっと大切なことがあったのです。
それは、イスラエルの民が、神の民として生きるようになることです。
神様によって救われた。
それで終わるのではなくて、救われたことに感謝の思いを持って、応えていく。
救われた民に相応しく、なお神の言葉に生かされていく。
それこそが、神の目的でした。
荒れ野の40年も、カナンの地に入ることも、そのための歩みの一部に過ぎません。
モーセは、そんな神の目的を、見つめていたのだと思います。
カナンの地よりも、もっと大事な、神の民になっていくという目的を、見つめていたんだと思います。
だからこそモーセは、神から託された役割に、徹することができたのではないでしょうか。
先日、全国壮年会連合主催の研修会に、オンラインで参加しました。
講師は、宣教研究所所長の朴思郁(パクサウク)先生でした。
「この時代にバプテストとして生きる」ということを主題に、先生は、安定を図る誘惑に抗い、新しく歩み出していこうと、話されました。
礼拝出席者の減少、高齢化、若い世代の定着の難しさ。
そんな状況の中で、教会は、どうしたら生き残れるかということばかりを考えていないか。
バプテストの先達は、むしろ、そういうところから飛び出していったんじゃないか。
聖書が指し示す、真のキリストの教会を建てあげていくという目的のために、安定を捨てて、立ち上がっていったんじゃなかったかと、そのように話してくださいました。
目指すべき目的地に、改めて気づかせていただいたと、そのように感じました。
目的地はどこなのか。
私たちは何のために、教会に集められているのか。
そのことを考えることは、とても大事なことだと思います。
モーセは、目指すべき目的地を、ちゃんと見つめていたのだと思います。
神の民になる。
命の源泉である神の言葉に聞き従っていく。
そうでなければ、たとえ、ヨルダン川を渡ったとしても、その地で生きていくことはできない。
これは、今日の招詞で読んでいただいたモーセの言葉にも、語られていることです。
だからこそモーセは、カナンの地に入ることに執着せずに、最後まで神の言葉を語り、祝福を持って、送り出すことができたのだと思います。
私たちも、そのモーセの視点に、学びたいと思います。
・神の導きは終わらない
今日の箇所で、モーセの旅は終わります。
しかし、イスラエルの民の歩みは終わりません。
ヨシュアが立てられ、新しい導きのもとで、神の民として生きていくための歩みは、この後も続いていきます。
一人にできることは、限られています。
どんなにモーセが偉大な指導者であったとしても、彼一人で、全てを成し遂げることはできません。
彼の後にはヨシュアが続き、さらにその後にも、多くの人々が用いられていきます。
一人ひとりにできることは、限られている。
一人ひとりの働きは、どこまでいっても「一部分」です。
しかし神は、その一人ひとりの働きをつなぎ合わせていかれます。
点を線にし、線を面へと広げ、ご自身の大きな御業を進めていかれます。
その御業に期待し、神の導きに従って、歩む者でありたいと思います。
一人ひとりの歩みは、いつか必ず終わりを迎えます。
でも、だからと言って、神の導きが終わることはありません。
神はなおも、その群れを、私たち一人一人を、導いていかれます。
・結
私自身も、今日で、この教会での働きを終えます。
12年間、この教会で働かせていただくことができました。
これはひとえに、教会に連なるお一人おひとりの祈りと支え、家族の支え、そして、それもひっくるめて、神の恵みによるものでした。
神学部を卒業したばかりの私を、牧師として立てることは、大きな決断であったと思います。
牧師として立ててからも、なかなか成長のない私を、忍耐強く、今日まで立て続けてくださいました。
振り返れば、一歩進んで二歩下がるみたいな、そんなことの繰り返しだったなと思います。
今日の説教に向けてもですね、最後ですから、なんか良いことを言わなきゃと思ってたんですけど、そう思えば思うほど、何を話せば良いかわからなくなって、なかなか準備が進みませんでした。
それで、昨日みつに、「父ちゃん明日、何話したらいいと思う?」って聞いたんです。
そしたら、「いつも通りでいいんじゃない」って、言われました。
その言葉に支えられて、今日も、ここに立つことができています。
思えばこの12年間、いつも、そんなふうにして、たくさんの人たちの祈りや励まし、神の言葉によって、立てられてきたなと、そう思わされています。
本当に感謝でした。
大分教会での私の働きは、今日で終わります。
しかし、大分教会の歩みは終わりません。
これからも続いていきます。
来月からは、杉本拓哉牧師が就任され、また新しい歩みが始まっていきます。
人は変わっていきます。
時代も変わっていきます。
しかし、神様は変わることなく、この教会を、私たち一人一人を、導き続けてくださいます。
私もまた、新しい地で、神の導きを信じて歩んでいきたいと思います。
場所は違っても、見上げる神は同じです。
これからも、共に神を見上げながら、それぞれに託された使命を、果たしていきたいと思います。
人は変わっていきます。
しかし、神の導きは変わることがありません。
そのことを信じて、これからも共に神様に従ってまいりましょう。
お祈りいたします。







