2026年3月8日主日礼拝「あなたが共におられないなら」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、出エジプト記33章12節〜17節です。

33:12 モーセは主に言った。「あなたはわたしに、『この民を率いて上れ』と言われました。しかし、わたしと共に遣わされる者をお示しになりません。あなたは、また、『わたしはあなたを名指しで選んだ。わたしはあなたに好意を示す』と言われました。

33:13 お願いです。もしあなたがわたしに御好意を示してくださるのでしたら、どうか今、あなたの道をお示しください。そうすれば、わたしはどのようにして、あなたがわたしに御好意を示してくださるか知りうるでしょう。どうか、この国民があなたの民であることも目にお留めください。」

33:14 主が、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言われると、

33:15 モーセは主に言った。「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください。

33:16 一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう。」

33:17 主はモーセに言われた。「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。わたしはあなたに好意を示し、あなたを名指しで選んだからである。」

「あなたが共におられないなら」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

おはようございます。

今日も最初に子どもメッセージからしたいと思いますが、

今日は、教会にとって一番大切なものって何か、考えてみたいと思います。

教会に欠かせないもの。

これがなかったら教会じゃないっていうもの。

なんだと思いますか。

たとえば、聖書だって思う人、いるかもしれません。

確かに、教会といえば聖書ですよね。

うちの教会にも、たくさん聖書があります。

礼拝でも、教会学校でも聖書を読みます。

聖書がないと教会じゃない、確かにそうかもしれません。

他には、十字架だって思った人もいるかもしれません。

確かに、建物に十字架がついていたら、「あ、教会だ」って思います。

私たちの教会にも、たくさん十字架があります。

講談の後ろにも十字架がありますし、入り口の扉にも十字架があります。

十字架がないと教会じゃない、それもそうかもしれません。

教会といえば、牧師がいるところって、思っている人もいるようです。

この前、この地域の人と話していた時に、「実は3月で大分教会を離れることになりまして」って言ったら、その人、「え、じゃあ、この教会なくなっちゃうんですか?」って言われました。

「いやいや、私がいなくなっても、教会はやってますよ」って言いましてけれども、

牧師がいないと教会じゃないって、そう思っている人もいるようです。

他にも、讃美歌がないと教会じゃないって思う人もいるかもしれませんし、礼拝をやっていないと教会じゃないって、そう思う人もいるかもしれません。

確かにどれも、大事なものです。

聖書も、十字架も、讃美歌も、大事だと思います。

そんな中で、私たちの教会の先輩、バプテスト教会を始めた人たちが、一番大事にしたもの。

教会をつくっていく時に、これがないとダメだって思ったものはなんだったかというと、

それは、聖書でも、十字架でも、牧師でもありませんでした。

じゃあ、なんだったかというと、それは、イエス様がいることでした。

イエス様がいないと教会じゃない。

イエス様を抜きにして、教会をたてることはできないって考えたんです。

でも、イエス様がいるって、どういうことでしょう。

イエス様がいるって、どうやって分かるんでしょう。

イエス様は、こんなことを言われました。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる。」

イエス様を信じて従う人たちの中に、イエス様はいるっていうことです。

たとえ、立派な建物がなくても、十字架がなくても、イエス様を信じる人たちがいれば、そこにイエス様はいる。

だから、そこが教会だってことです。

教会にとって一番大切なのは、建物でも、十字架でもありません。

イエス様が一緒にいてくださること。

そして、そのイエス様を信じる人たちがいることです。

イエス様を信じて、従っていく人たちのところにイエス様はいてくださる。

そして、そこが、教会になっていくんだ。

今日はこのことを、覚えておきたいと思います。

お祈りします。

・共にはいかない

モーセの物語を続けて読んできましたが、残すところあと3回となりました。

先週は、イスラエルの民が、偶像礼拝の戒めに背いて、金の子牛の像をつくり、神として礼拝した場面を読みました。

今日はその続きですけれども、少し、間を飛ばしていますので、最初に、その間の話をしたいと思います。

イスラエルの民が、金の子牛の像を作った後、どういうことがあったかということですが、

まず語られているのは、神様の怒りです。

戒めを守ると約束したにもかかわらず、それを破り、神を裏切ったイスラエルの民に、神は激しく怒られました。

そして、モーセに、「民を滅ぼし尽くして、あなたを大いなる民とする」と言われるわけです。

ノアの箱舟のようにですね、モーセだけを残して、他の民は滅ぼしてしまう。

そして、モーセから、また大いなる民を生み出していくようにすると、そんなふうに言われたわけです。

ある種のリセットと言いますか、モーセだけを残してやり直そうとしたということです。

しかし、そんな神にモーセは言うわけです。

「主よどうして、そんなことを言われるのですか。

あなたがエジプトから救い出された民じゃないですか。

どうか燃える怒りをおさめ、民を滅ぼすことを思い直してください。

先祖に与えると誓った約束の土地を、受け継がせてください」と、そう神に頼むわけです。

すると神様は、わかったと、そう言って、モーセの願いを聞き、民を滅ぼすことを思い直されました。

そして、約束の地カナンに上っていきなさいと、再び、民を行かせようとするのですが、

ここで神様は、思いがけないことを言われます。

今日の箇所のちょっと前に書かれています。33章3節の言葉です。

神様の言葉ですけれども、次のように言われています。

33:3 あなたは乳と蜜の流れる土地に上りなさい。

しかし、わたしはあなたの間にあって上ることはしない。

途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。

あなたはかたくなな民である。」

・あなたが共におられないなら

「あなた」と、単数系で語られていますが、これは、イスラエルの民をあらわしていると言って良いと思います。

つまり、神様は、イスラエルの民とはもう行かないと言われているのです。

約束の地には入れるように、御遣いを遣わして、整えるけれども、私は一緒には行かない。

あなた方だけで行きなさいと言われているわけです。

なぜ神様は、そのように言われたかと言いますと、それは、民を滅ぼさないようにするためでした。

今回は、民を滅ぼさずに済んだけれど、このまま、イスラエルの民と共に歩んだら、いつかまた怒りが湧いてきて、民を滅ぼしてしまうだろう。

そうならないように、私はもう、あなた方とは共に行かないと、そう言われたわけです。

これを聞いて、皆さんは、どう思うでしょうか。

もし、皆さんが、イスラエルの民だったとしたら、どんなにふうに思うでしょうか。

私は、この箇所を読んだ時、約束の地に行けるなら、それで良いんじゃないかと思いました。

むしろ、神様が一緒じゃない方が、神様の怒りを気にせず行けるので、むしろ、そっちの方が良いのではないかと思ってしまいました。

親と一緒に、親の目を気にしながら行くよりも、親なしで行った方が、気楽で良いというような、そんな気持ちですね。

そんなふうに思って、むしろ、神様が一緒じゃない方が良いんじゃないかと、そう思いました。

ですから、モーセがですね、強く神様を求める、一緒に行ってくださいって頼んでいるのが、とても心に残ったのです。

その場面が、今日の場面なんですけれども、

モーセと神様の対話の様子が記されています。

最初にモーセは、「あなたの道を示してください」と頼んでいます。

道というのは、考えのことです。

「神様、あなたのお考えを教えてください。

あなたは、私に、民を率いてのぼれと言われました。

それなのに、共に行かれないと言われる。

どうしたらいいのか、教えてください。」

そうモーセは、訴えました。

これに神様は、「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」と言われました。

神様は、モーセの願いを聞いて、「よろしい。あなたと一緒に行きましょう」と言われたのです。

すごいですね。

ここでも神様は、モーセの願いを聞き入れるわけです。

でも、モーセは、まだ満足しないんです。

何が不満だったか。

それは、神様が「あなたに安息を与えよう」と言われたことでした。

この「あなた」というのは、モーセだけのことです。

「モーセ、あなたとは一緒に行きましょう」と、神様はそう言われたのです。

それに対して、モーセが訴えたのは、「私たちと、一緒に行ってください」ということです。

私だけじゃなく、イスラエルの民みんなと、一緒に行ってくれと、頼んだわけです。

15節では、「もし、あなた御自身が行ってくださらないのなら、わたしたちをここから上らせないでください」とまで言っています。

私たちと共に行ってくださらないなら、私たちを上らせないでください。

つまり、「ここに置いていってください」ということです。

神が共におられないのなら、約束の地に行っても、しょうがない。

モーセは、約束の地を得ること以上に、神が共にいることの方が大事だと、そう訴えたわけです。

・神の民のアイデンティティ

なぜモーセは、そこまで強く神が共に行くことを求めたのでしょうか。

神が共に行けば、神様ご自身が仰っているように、また激しい怒りを向けられるかもしれません。

今回は助かったけれども、次はそうはいかないかもしれない。

安心感よりも、恐怖の方が上回ってしまうんじゃないかと、そんなふうに思うのですが、なぜモーセは、粘り強く、神様と共に行くことを求めたんでしょうか。

その答えが、16節に記されています。

こう記されています。

33:16 一体何によって、わたしとあなたの民に御好意を示してくださることが分かるでしょうか。あなたがわたしたちと共に行ってくださることによってではありませんか。そうすれば、わたしとあなたの民は、地上のすべての民と異なる特別なものとなるでしょう。

「あなたがわたしたちと共に行ってくださることによって、私たちは、地上のすべての民と異なる特別なものとなることができるのだ」と、モーセはそう言っています。

神が共にいる。神と共に歩む。

それが、私たちのアイデンティティなんだと、

神が共にいることが、神の民であることのしるしなんだとそう言うことです。

逆に言うと、神が共におられないなら、自分たちは、神の民でもなければ、イスラエルの民でもない。

規律も統一感もない、単なる烏合の衆に成り果ててしまう。

だから、私たちと一緒に行ってくださいと、モーセは神に願ったのです。

確かにモーセの言う通り、そんな状態でカナンの地に入ったとしても、すぐに民はバラバラになって、離散してしまったでしょう。

神が共にいるという、その恵み、神の民のしるしを失うということは、実質的に、滅んだも同然のことだったのです。

だからこそモーセは、「私たちと共に行ってください。そうじゃないなら、置いていってください」と、そう強く訴えたのです。

・教会のアイデンティティ

この箇所を読みながら私は、”失ってはならないものがある””手放しちゃいけないものがある”ということを思わされました。

イスラエルの民にとっては、神が共にいるということ。

その恵みは、絶対に手放してはいけないものでした。

それを失うと、途端に、自分たちではいられない。

自分たちが自分たちであるために、神が共にいるということは、絶対に手放しちゃいけないものだったわけですが、

これは、教会も同じだと思います。

子どもメッセージで話しました通り、バプテストの先達は、マタイによる福音書18章20節の言葉、

イエス様が言われた「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という言葉を根拠に、教会を立てあげていきました。

当時、バプテストの人々は、激しい迫害を受けていました。

イングランド国教会に異を唱え、自分たちで新たに教会をつくっていった。

そのことで、彼らは、「不敬な輩」と言われ、反社会勢力とみなされたわけです。

見つかったら逮捕される。

そんな中で、彼らは、秘密裏に集まって、礼拝をしていました。

もちろん、会堂はありません。

十字架を立てることもできません。

牧師も捕まっていましたし、大声で讃美歌を歌うこともできませんでした。

でも、彼らは、足りないものは何もないと思っていました。

1611年、最初期のバプテストの信仰告白には、次のように記されています。

「会員が二、三人であるとしても、各個教会にはキリストが与えられており、救いの手が全て備わっている。

各個教会はキリストの体であり、完全な教会である。

たとえ教会に按手を受けた牧師がいないか、獄中にあったとしても、彼らは祈り、預言し、パンを裂き、全ての礼典を執行して良いし、そうすべきだ。」

この考えは、それまでの教会観をひっくりかえすものでした。

当時、イングランド国教会は、国の宗教であり、牧師は、国家公務員でした。

そこで考えられていた教会というのは、国が公認した神学校を卒業した国公認の牧師がいて、国の指示のもとに教えが語られていること。

それが教会の条件だと考えられていました。

これにバプテストの先達は、そうじゃないと、国に認められていなくても、人数が少なくても、たとえ牧師がいなかったとしても、神が共にいる。

キリストが共にいる。

そのことが教会を教会とするのだと主張していきました。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」という、そのイエス様の言葉が満たされていれば、足りないものは何もないのだと、そう言って、教会を立てあげていったのです。

これは、遠い昔の話ではありません。

私たちの教会は、今も、この信仰の上に立っています。

・共におられる神と共に

私たちは何を求めているでしょうか。

何を求めて教会に集まっているでしょうか。

自分の願いが叶えられること、教会が繁栄すること、つながりや平安を求めて教会に来る。

もちろんかまいません。大歓迎です。

でも、イエス様、どうか共にいてください。

神様、どうか共にいてください。

そうやって神を求める信仰者がいなくては、教会にはなりません。

モーセが、約束の地に行くことよりも、神が共に行くことを求めたように、私たちも、神が共にいてくださることを、心から求めていきたいと思います。

「神様、共にいてください」という求めは、「私たちも共に生きます」という告白とセットで初めて、真実なものになります。

「共にいてください」と言いながら、「私たちは共に歩みません」というのでは、成り立ちません。

神を求めるということは、神と共に歩む、神に聞き従って生きるということとセットでなければなりません。

もちろん、完璧にはできません。

私たちも、イスラエルの民と同じように、弱く、欠けの多い者たちです。

それでも、神は共にいる。

従うことのできない、欠けを抱えた私たちと、神は共にいてくださる。

その恵みに応えて、神を求め、神と共に生きる者となっていきたいと願います。

神がいなければ教会じゃない。

キリストがいなければ、私たちは私たちじゃない。

このことを心に留めて、神を求め、神と共に、歩んでいきましょう。

お祈りします。

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