聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書18章9節〜14節。
新共同訳新約聖書144ページです。
18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
「義とされたのは?」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日も、まず、こどもメッセージからしたいと思いますが、
今日は、最初に1枚の絵を見てもらいたいと思います。
この絵は、今日の聖書の中で話されている、イエス様のお話しの絵です。
2人の人が、描いてあります。
何をしているか、わかりますか。
これは、お祈りをしている絵です。
2人の人が、お祈りをしている。
でも、どうでしょう。祈る姿が、だいぶ違いますよね。
こっちの人は、顔をあげて、手も上げて祈っています。
それに比べて、こっちの人は、下を向いて、なんか元気がなさそうです。
胸に手を当てて、ちょっと苦しそうにも見えます。
それぞれ、どんなことを、祈っているんでしょうか。
まずこっちの人ですけれども、こんなことを祈っていたそうです。
「かみさま、わたしが、あの人のように、どろぼうをしたり、この人のように、悪いことをしたりせずにいられることを感謝します。
わたしは、週に2回断食し、全収入の十分の一をおささげしています。」
断食ってわかりますか?
断食っていうのは、何にも食べないことです。
当時の人たちは、断食をすることで、神様に従う気持ちをあらわしていたそうです。
でも、この断食、普通は、1年に1回だけだったそうです。
それなのに、この人は、1週間に2回もしているって言っています。
それだけ、一生懸命、神様に従っていますよっていうことです。
きっと、神様に褒めて欲しかったんだと思います。
「私は、こんなにやってますよ、こんなに正しいんですよ、神様褒めてください」って、そんな心の声が聞こえてきます。
一方で、こっちの人は、どんなことを祈っているんでしょうか。
「かみさま、わたしは罪人です。どうか、わたしを、ゆるしてください。」
さっきの人とは正反対ですね。
さっきの人は、神様に褒めてもらいに来たようですが、こっちの人は、神様に謝っています。
神様、ごめんなさい。私は罪人です。間違ってばっかりです。
でも、どうか神様、私のことを見放さないでください。どうか、ゆるしてください。
正反対の2人ですが、この2人のうち、神様に喜ばれたのは、どっちだったでしょう。
普通に考えれば、こっちの人ですよね。正しいこといっぱいしているんですから、こっちの人だって思うと思います。
でも、イエス様は、こっちの人だって、言ってるんです。
なんででしょう。
聖書には、神様の前に、すべての人は、罪人だって、書いています。
どんなに優れた人も、完璧には生きられない。
神様に赦されなければ、生きていけない。それが人間だって、教えられています。
こっちの人は、そのことを痛いほどわかっていました。
自分の愛のなさとか、卑怯さとか、自分のことしか考えていないとか、そういう自分の罪を、痛いほどわかっていた。
だから、ゆるしてくださいって言うことができたし、神様の赦しを、受け取ることができました。
一方、こっちの人は、自分の罪に気づいていませんでした。
自分を正しい人間だって思っていました。
赦される必要もないって思っていた。
だから、神様の赦しを受け取ることができなかったんです。
大事なのは、正しく生きようとすることじゃ、ありません。
どこまでいっても罪人としてしか生きられない。
そんな私を、それでも、大事だって言ってくださるお方がいる。
そのことを忘れずに、感謝して生きていく。
赦され、愛され、見守られていることを、忘れずに、感謝して生きていく。
それが、イエス様の求めている生き方だっていうことを、今日は、覚えておきたいと思います。
お祈りします。
・どんなふうに生きれば良いの?
先週に引き続き、今日の箇所にも、イエス様のたとえ話が語られています。
そこから今日は、イエス様が求めておられる生き方について、考えたいと思います。
イエス様は、私たちに、どんな生き方を求めておられるのか。
たとえ話を通して、ご一緒に考えてみたいと思います。
・たとえ話
たとえ話には、とても対照的な2人が登場します。
1人はファリサイ派の人でした。
ファリサイ派というのは、ユダヤ教の一派で、律法を忠実に守り、正しく生きること大事にしている人たちです。
この人も、そのファリサイ派に属し、正しさを求めて生きていました。
それに対して、もう1人は、徴税人だったと記されています。
徴税人は、当時ユダヤを支配していたローマのために、徴税の仕事を請け負っていたユダヤ人のことです。
ユダヤ人でありながら、ローマの支配に加担しているということで、同じユダヤ人たちから、裏切り者と言われ、ひどく嫌われていました。
さらに徴税人は、徴税の額を偽って、私腹を肥やすのが常でした。
それで民衆からは、罪人として、激しく憎まれ、避けられていました。
・2人の祈り
たとえ話には、この対照的な2人の祈りが語られています。
この祈りもまた、対照的なものです。
11節12節には、ファリサイ派の人の祈りが記されています。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
まず彼は、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者、そして、自分と一緒に神殿にいる徴税人を引き合いに出して、彼らのような罪人でないことを、感謝しますと、祈っています。
感謝しますと言えば、聞こえはいいですが、その内実は、他人を見下す想いと、優越感に満ち溢れています。
そして、後半では、「週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と祈っています。
ここには、律法の規定以上に、正しく生きていることの誇りが、あらわれています。
先ほども言いましたが、律法の規定では、1年に1回断食をすれば良いとなっていたようです。
彼は、その規定を超えて、断食をしてることに誇りを持っていました。
全収入の十分の一というのもそうです。
律法では、収穫したものの十分の一を献げればよいとなっていますが、彼は、それを上回って、全収入の十分の一を献げていますと、言っています。
「どうですか神様。私は、こんなにやってますよ!」って、自分の熱心さに対して、満足している想いが伝わってきます。
一方で、徴税人は、どう祈ったでしょうか。
まず、祈る姿勢から違います。
彼は、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」祈っています。
神殿というのは、一番奥から、至聖所、聖所、中庭、外庭となっていまして、奥に行けば行くほど、神に近づく。
つまり、聖なる場所だと、考えられていました。
「遠くに立って」というのが、どこに立ってということなのか、はっきりしたことはわかりませんが、そこには、神に近づくことができない。
神の前にふさわしくないという想いが、あらわれています。
同様のことが、目を天に上げようともせず、という言葉にもあらわれています。
当時は、目を上に上げて祈るのが一般的だったようです。
そうやって、人々は、神様に心を向けて祈ったわけですが、彼は、そうすることもできない。
祈りながらも、神様の方を向くこともできない。
「胸を打つ」というのは、罪に対する深い後悔と悲しみの念をあらわす所作であったと言われています。
そうやって彼は、『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と祈りました。
ファリサイ派の人とは対照的に、彼は、神様に対して、何も、誇れるものを持っていません。
あるのは、自分に対する深い絶望だけです。
罪人の私を、憐んでください。
自分の力では、もう、正しくなんてなれない。
神様の憐れみにすがるしかない。
それ以外に、救われる道はない。
徴税人の祈りから、そんな想いが伝わってきます。
・義とされたのは
この対照的な2人のことを語った上で、イエス様は、「義とされて家に帰ったのは、徴税人であって、ファリサイ派の人ではない」と言われました。
義というのは、正しさを意味する言葉です。
神様の前に正しい者とされて家に帰ったのは、徴税人であって、ファリサイ派の人ではないと、そうイエス様は言われたということです。
正しさを求めて頑張っていたファリサイ派ではなく、罪人であった徴税人が義とされた。
そんなのおかしいと思われる人もいるかもしれません。
律法を守り、人一倍一生懸命献げていたファリサイ派よりも、異邦人に仕え、民衆からお金を騙し取っていた徴税人の方が義とされる。
正しい人が義とされずに、不義なる人が義とされる。
そんなのおかしいと思うのは、当然のことです。
でも、ファリサイ派の人は、本当に正しい人だったのでしょうか。
パウロは、「正しい人はいない。1人もいない」と、書き残しています。
ファリサイ派の人は、確かに努力をしていたようです。律法を、人一倍熱心に守っていた。
でも、それで、神の前に正しいと言えるのか。
彼の言葉にあらわれているように、彼の正しさは、他人との比較で成り立つ正しさです。
あの人よりも自分は正しい。この人よりも自分は正しい。
そうやって、彼は、優越感に浸っていました。
でも、それは、本当の正しさではありません。
皆さんは、経験があるでしょうか。
自分よりも劣った他人を見つけて、ほっとしたり、優越感に浸ったこと。
学生時代、私は、テストのたびに、自分より点数の低い人を見つけて、ほっとしていました。
そして、自分の点数の低さから、目を背けていました。
「大丈夫、あいつよりはマシ。」
そんなふうに自分を正当化して、自分の問題から、逃げていました。
ファリサイ派の人も、そうだったのだと思うのです。
正しくなければならないという、どこか呪いのような言葉に縛られながら、必死に正しさを求めていた。
人と比べたり、行為や功績を積み重ねることで、自分を正当化していた。
でも、その内実は、自分の罪から目を逸らしていただけだったのではないでしょうか。
前にも言ったことがあると思いますが、結婚するときに、私は、光さんのお父さんから、「問題がある夫婦が問題なのではない。
問題に気づかない夫婦が、問題なのだ」と言われました。
今も、大事にしている言葉です。
これは、夫婦にだけ当てはまることではありません。
すべての人に、当てはまることだと思います。
「問題がある人が問題なのではない。
問題に気づかない人、あるいは、その問題に向き合おうとしない人が問題なのだ。」
イエス様のたとえ話を通して、その言葉が、思い浮かんできました。
・赦されている罪人として生きる
正しくあろうとすればするほど遠ざかり、逆に、罪に打ち砕かれるほど、近づく。
この逆説の中に、私たちが聞くべき、大事なメッセージがあると思います。
正しくあろうとすること自体は、決して悪いことではありません。
でも、そうしようと思えば思うほど、そうできない自分とぶつかる。
そして、それを回避するために、自分よりも劣った他人を見つけたり、行為や功績を誇ったりする。
でも、それは、正しくなることではありません。
自分の罪から逃げているだけで、深刻さは増すばかりです。
今日、私たちは、徴税人が義とされたということを、心に留めたいと思います。
それは、正しくあろうとしなくていいということです。
「神様が求めているのは、打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神様は決して侮られない。」
今日の礼拝の最初に読んでいただいた詩編51編に、そう記されています。
私たちに求められているのは、自分の正しさを握りしめて生きることではなく、むしろ手放して、自分の裁きを、神様にまかせて生きることです。
おそらく、握りしめるよりも、手放すことの方が、難しいことでしょう。
勇気のいることですし、信頼のいることです。
でも、そこに救いがあります。
どこまでいっても罪人としてしか生きられない。
そんな私を、しかし愛し、赦し、受け止めてくださっているお方がいる。
自分の握りしめている正しさを手放して、神様に委ねて生きるとき、私たちの生き方は変わります。
恐れや不安から解放され、感謝に生きていくことができます。
他人を裁き、見下し、優越感に浸るのではなく、同じように、赦されている罪人として、共に生きていくことができます。
そのような者となっていくために、イエス様は今日、手放しなさいと呼びかけています。
握りしめている正しさ、見栄やプライドを手放して、1人の罪人として、神に祈りなさい。
決して神様は、あなたを見離さない。
むしろ、それでいい、そのままで生きていきなさいって、言ってくださる。
イエス様は、そう語りかけています。
この言葉を信じて、また今日、ここから、新しく歩み出して行きましょう。
お祈りします。