聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書17章1節〜10節。
新共同訳新約聖書142ページです。
17:1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
17:2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
17:3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
17:4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
17:5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、
17:6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
17:7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。
17:8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
17:9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
17:10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
「からし種一粒の信仰があれば」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日の聖書の箇所には、イエス様が弟子たちに語られた、教えについて書かれています。
イエス様は、弟子たちに、どんな教えを語られたのか。
大きく3つのことが書かれています。
1つ目は、悪い見本になってはいけないっていうことです。
悪い見本になってはいけないってどういうことかというと、たとえば、はつ君には、弟のみつ君がいるでしょ。
みつ君の前で、はつ君が悪い言葉を使ったら、どうなりますか。
はつ君の真似をして、みつ君も、悪い言葉を使ってしまうかもしれない。
あるいは、はつ君が、みつ君の前で、お父さんを叩いたら、どうなるでしょう。
真似をして、みつ君も、お父さんを叩いちゃうかもしれない。
そんなふうに、悪い見本になっちゃいけないよってことです。
イエス様の弟子として生きるならば、悪い見本になってはいけない。
これが1つ目の教えです。
2つ目は、赦しなさいってことが言われています。
1日に7回悪いことをしても、7回「ごめんなさい」って謝るなら、赦してやりなさいって言われています。
皆さんは、どう思うでしょうか。
2回や3回なら赦せるかもしれません。
でも、7回も悪いことを繰り返す人の「ごめんなさい」、真剣に聞けるでしょうか。
7回も続いたら、「ごめんなさい」なんて口だけだって、思うんじゃないでしょうか。
どうせ、またやるに決まってるって思っちゃって、赦す気も起きなくなるんじゃないでしょうか。
そう考えると、イエス様が言われた、赦しなさいっていうのは、とても難しいことだなって思います。
それでも、イエス様は、「ごめんなさい」って言われたら、赦してやりなさいって言っています。
これが2つ目の教えです。
最後、3つ目に言われているのは、僕として生きなさいということです。
この僕というのは、「奴隷」のことです。
「奴隷」っていうのは、主人の持ち物でした。
なので、どんなに命じられたことをしても、給料もなければ、感謝されることもない。
ただただ、主人に従うこと。
それが、奴隷の役割だそうです。
どう思いますか。そんなふうになりたいって人、いるでしょうか。
イエス様が弟子に言われた3つのことを見てきましたが、どれも、なんか、しんどいなって思ってしまいます。
悪い見本になっちゃいけないっていうのも、赦しなさいっていうのも、僕になるっていうのも、自分にはできないなって思ってしまう。
これが、イエス様の弟子の条件だったとしたら、とてもできないって思ってしまう。
でも、そんな私たちにイエス様は言います。
からし種一粒ほどの信仰があれば、不可能だと思うことも、可能になるって。
からし種っていうのは、イエス様が生きられた時代、その地域の中で、一番小さい種でした。
本当に小さい、目にも見えないくらいの小さい種。
でも、その小さい小さい信仰の種、イエス様を信じるという気持ちがあれば、不可能だと思うことも、可能になる。
自分には無理だって諦めず、イエス様を信じて、一歩踏み出していく。
その時、私たちは、変えられていくって、教えられているんだと思います。
ついつい私たちは、自分で自分のことを判断して、ブレーキをかけてしまう。
自分には無理だとか、できないとか、勝手に判断して、諦めてしまう。
そんな私たちに、イエス様は、私を信じて、一歩踏み出してご覧って、言われているんだと思います。
自分で決めつけず、イエス様を信じて、一歩踏み出してみる。
その時、不可能だと思っていたことも、可能になっていくんだ。
今日は、そのことを、心に覚えたいと思います。
お祈りします。
・
今日の箇所には、イエス様が弟子たちに語られた教訓が記されています。
弟子たる者、かくありなさいという、弟子としての教訓が語られています。
先ほど申しました通り、大きく3つのことが語られています。
今一度、その内容を、見ていきたいと思います。
・
1つ目の教訓は、つまずきを与えるなということです。1節
17:1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。」
この世に生きている以上、つまずきは、避けられない。
でも、あなた方自身が、それをもたらす者になってはいけないということが言われています。
つまずきと訳されている言葉は、ギリシャ語で、スカンダロンという言葉ですが、これは、英語のスキャンダルの語源となっている言葉です。
スキャンダルといえば、毎日のように、テレビのニュースで流れています。
政治家の裏金問題とか、ハラスメントとか、芸能人の不倫問題などなど色々ありますが、つまずきを与えるなというのは、そういうスキャンダルをもたらすなということです。
つまり、人を罪へと誘うような、誘惑者になってはいけないということです。
特にイエス様は、「小さい者」をつまずかせてはいけないと言われます。
2節には「これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。」と記されています。
非常に恐ろしい表現ですが、それくらい、小さい者をつまずかせることは、罪深いことなのだということです。
「小さい者」とは、子どもたちととることもできますし、教会という文脈で考えるなら、キリスト者になって間もない信徒ととることもできます。
いずれにせよ、影響を受けやすい存在です。
子どもたちは、大人のことをよく見ています。
教会に来て間もない方々も、私たちが思う以上に、私たちのことをよく見ているのだと思います。
そして、良くも悪くも、影響を受けている。
だからこそ、気をつけなさいと、言われているのです。
イエス様は、弟子たちに、あなた方はそうやって「小さい者」たちの見本にされているような存在なのだから、その立ち居振る舞いに、よくよく気をつけなさいと、教えているのです。
・
2つ目の教訓は、赦しなさいということです。
1日に7回罪を犯しても、7回「悔い改めます」と言うなら、赦してやりなさいと言われています。
2回や3回ならまだしも、1日に7回も罪を繰り返す者の「悔い改めます」という言葉を、私たちは真剣に聞くことができるでしょうか。
「もう2度とやりません」「生き方を改めます」そういう言葉は、使えば使うほど、重みがなくなっていきます。
「今度こそ、痩せる」という言葉と同じです。
「今度こそ」、「今年こそ」、そうやって何度も言っているうちに、誰も聞いてくれなくなる。
どうせまたダメだろう。どうせ三日で終わるだろう。そう思われるようになっていく。
それと同じように、「悔い改めます」という言葉も、使えば使うほど、信じられなくなっていきます。
1日に7回も繰り返された日には、口だけだって、思われてもしょうがないでしょう。
それでも、イエス様は、赦しなさいと言われるのです。
聖書において、7という数字は、完全数と言われます。
7回というのは、単なる回数ではない。
永遠にとか、完全に赦しなさいと、いうふうにもとれます。
どんなに口で赦すと言っても、心の中で、恨みつらみがなくならないということがあるでしょう。
受けた傷というのは、そう簡単に消えるものではありません。
赦すというのは、その傷の責任を問わないということであり、引き受けるということです。
与えた側は、簡単に吹っ切れても、傷つけられた側は、その傷を負って、生きていかなければなりません。
それにもかかわらず、赦してやりなさいとイエス様は言われる。
何度失敗しても、やり直す機会を与えなさいと、イエス様は言われるのです。
これもまた、簡単なことではないと思います。
・
3つ目の教訓は、主の僕(奴隷)となるということです。
キリスト者になるということは、主の僕(奴隷)になるということだと言われています。
だから、命じられたことを果たしたとしても、感謝や報酬を求めてはいけない。
どんなにすごいことを果たしたとしたとしても、決して、感謝や報酬を求めてはいけない。
一日中、畑を耕したり、羊の世話をしたりして、疲れて帰ってきたら、今度は、夕食の準備をしなければならない。
したからと言って、感謝も、報酬も得られない。
その上、「取るに足りない僕だと言いなさい」と言われています。
聞いているだけで、うっとなってしまう。
ブラック企業も甚だしいと思ってしまいます。
感謝や報酬は、私たちが何かをしようとする目的であったり、動機に、深く関わっています。
キリストの弟子としての奉仕は、あくまで奉仕であって、感謝や報酬を求めてはいけないと、言われるのです。
これもまた、厳しい言葉だなと思います。
・
イエス様が語られた弟子としての教訓は、どれも難題です。
これをクリアーしなければならないと言われたら、誰が弟子になれるだろうと思ってしまいます。
弟子たちもそう思ったのでしょうか。
「わたしどもの信仰を増してください」とイエス様に願っています。
するとイエス様は、「からし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」と言われました。
先ほども言いました通り、からし種というのは、当時、イエス様の生きられた地域で、最も小さい種でした。
それくらい小さく一粒の信仰であったとしても、それがあるというだけで、不可能と思うことも、可能になると言われるのです。
信仰において、重要なのは、その量でも、大きさでもない。
あるかないかだということです。
からし種一粒ほどの信仰であっても、それがあれば、無理だと思われることも、成し遂げることができるということです。
信仰とは、神を仰ぎ、信頼することです。
自分の能力や実績、性格を見て、落胆したり、諦めたりするのでなく、神を見上げ、信頼して歩みなさいと招かれているのです。
逆に言うと、信仰のないところで、赦したり、僕として仕えることは、できないのだろうと思います。
できたとしても、必ず無理がくる。
ガソリンの入っていない車を、無理やり動かすようなものです。
そんなことをしたら、壊れてしまいます。
皆さんは、ガソリンも入っていないのに、一生懸命動こうとしては、いないでしょうか。
ガス欠のまま、走ってしまってはいないでしょうか。
信仰、もっと言うならば、恵みを信じること。
イエス様によって与えられている恵みを、忘れないこと。
それが、とても重要なことなのだと思います。
誰かの良い見本になろうとする以前に、イエス様が、私たちの見本となってくださっている。
私たちが、誰かを赦す以前に、まず私たち自身が、イエス様によって、赦され、受け止められている。
口先ばかりの悔い改めでも、いや、「悔い改めます」と言うことさえなかったとしても、私たちを赦し、何度でもやり直す機会を与え続けてくださっている。
その恵みを忘れて、誰かを赦そうとしても、なかなかできるものではありません。
赦したとしても、やがて無理が来る。
こんなに赦してあげているのに、なんであの人は、一向に変わってくれないのか。
そう思って、疲れてしまう。
僕として仕えるということもそうです。
こんなに頑張っているのに、誰も感謝してくれない。報酬もない。
そうやって、疲れてしまってはいないでしょうか。
キリスト者の奉仕は、恵みへの応答です。
イエス様の恵みに対する感謝の応答です。
これは、恵みを受けている者にしか、できないことです。
ここが、今日のメッセージの中で、一番重要なポイントです。
イエス様によって与えられている恵みを忘れない。
赦されていること。弱さや欠けも含めて、全てを、受け止められていること。伴われていること。
その恵みを、恵みの価値や大きさを知っている者は、言われなくても、弟子として歩むことができるでしょう。
むしろ、そうせずにはいられない。
赦されている、その恵みの大きさを知る者が、どうして、赦さずにいられるでしょうか。
弱く小さい私を、大切にしてくださるイエス様の恵みを知っている者が、どうして、小さい者を軽んずることができるでしょうか。
恵みの価値や大きさを知っている者が、どうして、それ以上に、感謝や報酬を求めることができるでしょうか。
大事なのは、ガス欠にならないこと、恵みを忘れないことです。
イエス様によって与えられている恵みを覚えて生きる時、それがエネルギーとなって、私たちを突き動かしていきます。
イエス様は言われます。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
私たちは、渇きます。
ガソリンは、使えば使うほど、なくなっていきます。
だから、私たちは、祈ったり、聖書を読んだり、教会に来たりするのだと思います。
恵みを知る、恵みを思い出す、恵みを忘れない、そのために私たちは、祈ったり、聖書を読んだり、教会に来たりするのだと思います。
そうやって、エネルギーをいただいて、また、イエスさまの恵みによって生かされていく。
その時、私たちは、主の僕たる弟子として、歩むことができるのだと思います。
イエス様の恵みを忘れない。
イエス様は、どんな時も、私たちと共におられる。
決して、私たちを見捨てない。
そのことを、改めて、心に留めて、新しい一週間の歩みにでかけていきましょう。
お祈りします。