聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、コリントの信徒への手紙一3章1節〜9節。
新共同訳新約聖書302ページです。
3:1 兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。
3:2 わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。
3:3 相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
3:4 ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。
3:5 アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。
3:6 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
3:7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
3:8 植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。
3:9 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。
「神の同労者」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもクラス
みなさん、おはようございます。
先週から、いよいよ新学期が始まりました。
入学式もありました。
皆さんにとって、この一週間は、どんな一週間だったでしょうか。
中には、ちょっと疲れたっていう人もいるかもしれません。
新しい場所に行くっていうのは、とても勇気のいることです。
心も体も疲れて当然です。
私も、新年度が始まって、もうすでに、ちょっと疲れています。
だから、いつも以上に、自分のこと、お互いのことを大事にできたらいいなと思います。
自分のことを大事にする。
お互いのことを大事にしあう。
実は、これは、イエス様が教えられたことの中で、一番大事なことだと言われています。
「自分を愛するように、隣人を愛しなさい。」
自分を大事にする。
そして、同じように、隣の人も大事にする。
イエス様は、一番大事なこととして、そのことを教えられました。
そんなの当たり前じゃんって、思う人もいるかもしれません。
確かに当たり前かもしれません。
でも、その当たり前を、すぐに忘れてしまうのが私たちなんです。
先週から、私たちは、パウロさんが、コリント教会の人たちに向けて書いた手紙を読んでいます。
その手紙を読むと、教会の中に、いろんな争いが起こっていたって書いています。
イエス様の教会でも、争いが起こるんです。
「自分が一番正しい!」「いや、私の方が正しい!私の方が優れている!」そうやって、言い争いになって、傷つけあってしまう。
とても悲しいことですが、そんなふうに私たちは、とても間違いやすい者です。
イエス様の言葉も忘れ、自分のことしか見えなくなって、人を傷つけたり、自分のことも大切にできなくなってしまうことがある。
イエス様の言うことを聞かず、自分の行きたい方に行ってしまって、気づいたら一人ぼっち。
教会もバラバラになってしまう。
だから、パウロさんは、イエス様の言葉を、聞きなさいって教えています。
私たちが、毎週教会に集まるのは、そのためです。
私たちは、すぐに忘れてしまうし、すぐに道を外れてしまう。
そんな私たちのために、イエス様は、大事な言葉を語り続けてくださっています。
私たちが、どんなに忘れても、どんなに道を外れても大丈夫なように、
何度だって、やり直すことができるように、イエス様は、語り続けてくれています。
どんなに忘れても、どんなに道を外れても、戻って来れる。
イエス様の言葉があれば、やり直せる。
このことを、今日は、心に留めながら、イエス様の言葉に聞くということを、大事にしていきたいと思います。
お祈りします。
神様、ありがとうございます。
どんなにあなたの言葉を忘れても、どんなに道を外れても、イエス様の言葉があれば、大丈夫。
私たちは、やり直すことができる。
今日は、そのことを、覚えることができました。
私たちは、間違いやすく、道をそれてしまいやすい者です。
イエス様の言葉を忘れ、人を傷つけたり、自分を傷つけてしまうこともあるかもしれない。
だからこそ、今日のメッセージを、心に留めたいと思います。
どんなに間違っても、どんなに道を外れても、イエス様の言葉があれば、大丈夫。
また、やり直すことができる。
そのことを、心に留めながら、イエス様の言葉に、聞いていくことができますように。
私たちを導いてください。
イエス様のお名前によって、祈ります。アーメン
・パウロの嘆き
先週に続き、今日も、パウロが、コリント教会の信徒たちに宛てて書いた手紙を読んでいきます。
今日の箇所には、まず、パウロの嘆きが記されています。
パウロは、何を嘆いているのでしょうか。
1節2節を、読んでみましょう。
3:1 兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。
3:2 わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。
この最後の言葉、「いや、今もできません」というところに、強調点があります。
赤ちゃんに対して、乳を飲ませたり、固い食べ物を与えないというのは、当たり前のことです。
固い食べ物を与えても、食べられませんし、食べてしまったら、お腹を壊してしまいますし、喉に詰まらせてしまったら、大変なことになってしまいます。
それと同じように、パウロは、教会に来て間もない人たちに対して、飲み込みやすい言葉、受け入れやすい言葉を、語ってきたわけですが、しかし、その状態が、今もまだ続いている。
今もまだ、乳飲児のままだ。
あなたがたは、あの頃から、全く成長していないということを、パウロは、嘆いているわけです。
もし、皆さんが、そんなことを言われたら、どう思うでしょうか。
「あなたは全く成長していない」なんて言われたら、イラッとすると思います。
なんでそんなこと言われなきゃいけないのか、続きを読むのも、嫌になるかもしれません。
パウロは、なんでこんなことを、手紙で書いたのでしょうか。
その理由として、パウロは、コリント教会の中で起こっていた争いのことについて、語っています。
3節、4節
3:3 相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。
3:4 ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。
これは、先週読んだ箇所に書いてあったことですが、当時、コリント教会には、パウロ派、アポロ派など、いくつかのグループができていました。
パウロというのは、この手紙を書いたパウロのことです。
彼は、コリント教会の創設者として、多くの人に慕われていました。
そのパウロが、コリント教会を離れた後、教会を導いたのがアポロでした。
もちろん、彼を慕う人たちもいました。
二人とも、神様の言葉を取り継ぐ働きをしていました。
でも、おそらく、その取り継ぎ方は、同じではなかったと思います。
パウロにはパウロの特徴があったし、アポロにはアポロの特徴があったと思います。
聖書の読み方というのは、一つではありません。
色んな読み方があります。
書いてある言葉を、書いてあるまま、文字通り読み、今の時代に適応することを大事にしている人たちもいますし、
書いてある背景とか、文脈を大事に、今の時代だったら、どんなメッセージになるか、言い換えたり、読み直したりすることを、大事にしている人たちもいます。
どちらかというと、私は、後者ですけれども、そんなふうに、聖書の読み方、語り方には、様々な立場があります。
まして、パウロの時代というのは、まだ、教会が生まれて間もない時代です。
聖書も、旧約聖書はありましたが、新約聖書は、まだありませんでした。
もちろん、まとまった解説書などもありません。
ですから、その教えも、教え方も、一つではなかったと思います。
問題はその違いを、どう受け止めるかということです。
豊かさとして許容しあうか、それとも、どちらが正しいかと言って、争うか。
コリント教会の人々は、争ってしまいました。
パウロの教えとアポロの教え、どちらが正しいかということで、争いが起こってしまったのです。
これは、とても難しい問題で、もちろんなんでも許容すれば良いかというと、そうではないと思います。
信仰において、譲れないところ、譲ってはならないところというのは、確かにあると思います。
おそらく、パウロとアポロの間で、その点については、確認が取れていたのだと思います。
違いはあったとしても、同じ神を伝えている、同じ神に仕えている仲間として、一致があったのだと思います。
だからこそ、パウロは、悲しんでいるのです。
パウロも、アポロも、同じ神様について語っているのに、あなた方はなぜ、分かれてしまっているのか。
なぜ、パウロ派、アポロ派などと言って分かれ、争ってしまっているのか。
それでは、ただの人間の群れと変わらないじゃないか!と、パウロは嘆いているのです。
・神の奉仕者
この問題を改善するために、パウロは、自分たちの立場をはっきりさせる必要がありました。
5節にあるように、アポロとは何者か、パウロとは何者か、明確にする必要がありました。
そこで、パウロは言うわけです。
「この二人は、あなたがたを信仰に導くために、それぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。」
パウロは、アポロも含め、自分たちのことを、「仕えた者」と表現しています。
「与えられた分に応じて、仕えた者である」。
肝心なのは、誰に仕えたかということです。
それは、他の誰でもなく、神であると語られています。
自分たちは、主人である神の指示に従う者である。
教会の作り方を知っているのは、神様だけであって、自分たちは、その指示に従って働いたに過ぎないんだ、そうパウロは、言っているのです。
昨年、大分教会は、屋根と外壁の修繕工事を行いました。
とっても綺麗になりました。
私は毎日、その様子を見ていましたけれども、見ていると、足場を組む人、壁を修理する人、ペンキを塗る人、それから警備をする人など、色んな人たちが働いていました。
その方々は、工務店の指示のもと、工事を行なっていました。
それぞれ役割は違いますが、皆、その指示を聞きながら、働いていました。
この指示がなければ、バラバラになってしまいます。
そして、バラバラでは、工事はうまくいきません。
同じように教会も、神様の指示なしでつくっていくことはできない、そうパウロは、言っているのだと思います。
でも、これは、逆もまた然りです。
どんなに神様が指示をしても、それに聞き従う人たちがいなければ、教会はつくれません。
神様は、私たち一人一人を、必要としておられます。
私たちが、神様なしで、教会を作り上げることができないように、神様も、私たちなしで、教会をつくろうとは考えておられません。
神様は、私たちと一緒に、作りたいと思っておられる。
そのために、一人一人を招き、用いようとされているのです。
教会に集う一人一人は、皆、その神様によって、招かれた一人一人です。
一人として、必要ない人などいない。
全ての人が、必要な人として、神様に招かれています。
これは、とても嬉しいことだなと思います。
私も、あなたも、神様に必要とされている一人である。
・
大事なのは、神様の領域と、私たちの領域を、ごちゃごちゃにしないこと、分けることだと思います。
神様には神様のしなければならないこと、役割があり、私たちには私たちのしなければならないこと、役割がある。
よく教会では、神様に委ねなさいとか、任せなさいってことを言われますけれども、全部が全部、任せていてはいけない。
神様に任せるべきことと、私たちが担うべきことがあるわけです。
神様に任せるべきこと、それは、私たちを導くことです。
神様は、言葉によって、あるいは目に見えない力によって、私たちを励まし、力づけ、導いています。
それに対して、私たちの役割は、その言葉を聞き、見えない力に促されながら、働いていくことです。
どんなに、神様が、私たちを導こうとしても、その言葉に聞き従う者がいなければ、教会を作ることはできません。
教会の作り方を知っているのは、神様だけです。
神様の言葉を聞かずに、教会を作っていくことはできません。
コリント教会の人々は、この関係性と言いますか、役割分担を、間違っていました。
パウロやアポロの言うことを聞いているうちに、彼らが、主人であると、勘違いをしてしまったようです。
確かに、パウロやアポロは、神様の言葉を語り継ぐ者として、大変重要な働きを担っていました。
しかし、彼らは、主人ではありません。
彼らもまた、主人に仕える者でした。
仕える者は、どんなに能力があっても、どんなに一生懸命勉強したとしても、主人である神様になることはできません。
どこまで行っても、私たちと同じ、ただの人間です。
欠けがあるし、弱さがあるし、間違いを犯さずにはいられない、ただの人間です。
言うまでもないことですが、牧師もそうです。
私などは、時々、ご指摘をいただくことがあります。
今日の話、違うんじゃないの。今日の牧師の言葉で、傷つきました。
私もと言いますか、私こそ、ただの人間ですし、その中でも、特に未熟な者ですから、ご指摘いただかないとならないことが、たくさんあると思います。
前に立って、偉そうに話していますが、私自身、間違いを犯さずにはいられない、人を傷つけずにはいられない、ただの人間です。
こんなことを言ったら、信用をなくすかもしれませんが、聖書の読み方を間違うこともあるでしょう。
ですから、ぜひ、緊張感を持って、聞いていていただきたいと思いますし、何かありました時には、遠慮なく、
いや、やっぱり、優しさと愛情をもって、教えていただけると助かります。
そんなふうに、牧師と言っても、ただの人間にすぎません。
弱さや欠けのある、ただの人間にすぎない。
でも、そんな一人一人が、神様の言葉に聞き従っていくとき、成長させられ、組み合わされ、ただの人間の集まりではない、神の共同体とされていくのです。
競ったり、比べたり、争ったりせずにはいられない私たちですが、神の言葉によって一つとされ、平和をつくりだす者たちとして、つくりかえられていくのです。
まるで、服のやぶれをつくろうかのように、神様は、私たちの弱いところ、傷んでいるところに光を当て、輝かせてくださる。
そして、そのことを通して、全体に調和を与えてくださる。
神様の言葉には、その力があります。
神様の言葉に期待し、神様の言葉に信頼し、共に、聞いていきましょう。
共に、福音にあずかっていきましょう。
そこに一致が生まれ、平和が生まれ、神の世界が広がっていくと信じて、聞き従っていきましょう。
お祈りいたします。