聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書12章35節〜48節。
新共同訳新約聖書132ページです。
12:35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
12:36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
12:37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
12:38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
12:39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。
12:40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
12:41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、
12:42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。
12:43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
12:44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
12:45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、
12:46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。
12:47 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。
12:48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
「幸いな日として迎えるために」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・感謝
先週は、体調不良により、礼拝をお休みしてしまい、申し訳ありませんでした。
木曜日の夜ぐらいから体調がおかしいなと思っていましたら、翌日から高熱が出まして、病院で診てもらったところ、扁桃炎ということでした。
39度台の熱が続きましたので、インフルエンザかコロナじゃないかと思いましたが、検査の結果、両方とも陰性ということで、一安心でした。
家族に感染することもなく、無事、回復することができました。
コロナの時に続いて、私の代わりに、礼拝メッセージをしてくださいました石井兄弟には、本当に感謝いたします。
また、お祈りいただきました皆様、本当にありがとうございました。
・テーマ
今日は、時間の都合上、子どもメッセージと大人のメッセージを一緒にさせていただきたいと思いますが、
最初に皆さんに、一つ、聞きたいことがあります。
皆さんは、今、待っていることがあるでしょうか。
見たい映画があって、その公開日を待っているという方もいらっしゃるかもしれません。
また読みたい本があって、その出版日を待っているという方も、おられるかもしれません。
私は、学生時代から、毎週欠かさず読んでいる本がありまして、その本が出版される日を、毎週心待ちにしていますが、皆さんの中にも、そのような方がいらっしゃるかもしれません。
あるいは、早くクリスマスが来ないか、正月にならないかと、待っている人もいるかもしれません。
今日は、この「待つ」ということについて、考えてみたいと思います。
・「待っている人のようにしていなさい」
36節、イエス様は、次のように言っています。
12:36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
「婚宴から帰ってくる主人を、待っている人のようにしていなさい」と、イエス様は言われます。
婚宴というのは、結婚式のことです。
結婚式といえば、まず式があって、披露宴があって、場合によっては二次会、三次会なんていうふうに続いていくこともあるわけですが、長くても、1日で終わるものです。
それに対して、ユダヤの結婚式は、1週間続くこともあったと言われています。
1週間も、何をするんでしょうか。
一度出てみたいなと思ったりもしますが、1週間もありますので、きっと、招かれた客も出たり入ったりするものなのだろうと思います。
イエス様の話に出てくる主人も、どこかで、家に帰ってくる。
でも、いつ帰ってくるのかは、わからないわけです。
早めに帰ってくるのか、それとも、遅くなるのか、わからない。
これは、待つ方からすると、とても、迷惑な話です。
皆さんも、家族の帰りを待ったことがあると思います。
今日は、何時に帰るのか。いつ帰ってくるのか。
時間がわからないと、準備のしようがありません。
晩御飯はいるのか。外で食べてくるのか。
何の連絡もなく、やきもきされた経験のある方も、いらっしゃるかもしれません。
イエス様の話に登場する主人も、いつ帰ってくるのか、明らかにされていません。
真夜中とか、夜明け、なんていうふうにも書かれています。
大変迷惑な主人です。
でも、イエス様は、その主人が戸を叩く時、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさいと、言われるのです。
とても、難しいことに思います。
常に目を覚ましていなければならない。
眠気を堪えて、待っていなければならない。
これは、大変なことです。
・誰を、何を、待つのか
ただ、どうでしょうか。
待つ相手が、メジャーリーガーの大谷翔平選手だったら、どうでしょうか。
あるいは、大好きなアイドル、憧れのスターが会いにきてくれるとしたらどうでしょうか。
体力の限界を超えても、待とうという人も、いるのではないでしょうか。
ちょっと話がズレるかもしれませんが、私も、大好きなもののためならば、待つことはそんなに苦ではない方でありまして、以前、大好きなラーメンのために、1時間半、列にならなんだこともありました。
今はもう見れなくなりましたが、最新のiPhoneが発売する時には、何日も前から、Apple Storeの前に並ぶ人たちもいました。
そのように、何を待つか、誰を待つかということによって、心持ちも、変わってくるものだろうと思います。
ここで、イエス様がおっしゃっている主人というのは、イエス様ご自身のことを指していると言われます。
この話は、イエス様が、再び来られる。
いわゆる、再臨の出来事を語っている話であるということです。
つまり、イエス様は、ご自身が、再びこの世に来ることを、待っていてほしいと、思っておられるということです。
帰りを待っていてほしいと、思っておられる。
そして、もし、帰ってきた時に、目を覚ましている者がいたとしたら、喜んでその者をもてなしてくださると、言われています。
37節「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」
イエス様自らが、帯を締め、食事の準備をし、もてなしてくださる。
今日は、この後で、主の晩餐式を行います。
主の晩餐式は、イエス様が弟子たちと共に囲まれた、最後の晩餐を思い起こすものですが、それだけじゃありません。
まさに今日の箇所で言われています、再臨のイエス様と共に囲む晩餐を、先取りするものだというふうにも言われています。
主の晩餐は、過去の出来事ではありません。
いつか、本当に、イエス様と食卓を囲む日が来るんです。
そのためにイエス様は、待っていなさいと言われるのです。
この喜びの宴会を信じて、待っていてほしい。
ただ漠然と、その日を待っていろと言われているのではありません。
イエス様と共に囲む、主の晩餐を目指して、待ち望むようにと招かれているのです。
きっと、その食卓は、この世では経験できないほど、嬉しくて、楽しい食卓なのだろうと思います。
その食卓を信じて、待ち望みなさいと、招かれているのです。
・「待つ」って何?
でも、「待つ」とは、具体的にはどういうことでしょうか。
「待つ」にもいろいろあります。
待ち合わせの場合は、指定された場所に居続けること。
それが待つということになるでしょうし、ラーメン屋で待つと言えば、列に並ぶということを意味します。
映画の公開日を待つ場合は、時が経つのを待てば良い。
特に準備することはありません。
そんなふうに、「待つ」と言っても、具体的には、色々あるわけです。
今日の箇所にも、色々書かれています。
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」とか、「戸をたたくとき、すぐに開けられるようにしていなさい」とか、「目を覚ましてなさい」とも書いてあります。
でも、これらは一体、どういうことでしょうか。
具体的には、どんなことが、求められているのでしょうか。
ここで注目したいのが、今日の後半に書いてあります、「忠実な僕と不忠実な僕」の話です。
両者の違いは、主人の言いつけを守ったかどうかにあります。
主人の言いつけを守った忠実な僕は、主人に、全財産を任されるに違いないと言われています。
一方、不忠実な僕は、主人の帰りが遅いと思って、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔っ払っていた。
すると、思いがけず主人が帰ってきて、厳しく、その僕を罰するだろうと、言われています。
当然のことでしょう。
だって、主人は、僕たちと会えることを楽しみにしているんです。
僕たちと一緒に食事ができることを、楽しみにして、帰ってくる。
それなのに、家の中が、めちゃくちゃになっている。
食べたり飲んだり酔っ払ったり、好き勝手やっている者もいれば、傷だらけで、泣いている者もいる。
恐怖に、震えている人たちがいる。
いったい誰だ。俺の僕たちを、俺の家を、こんなにめちゃくちゃにしたやつは。
怒りに燃えるのは、当然のことだと思います。
でも一方で、今のこの世界は、どうでしょうか。
もし、イエス様が、今、この世界に帰ってこられたら、どう思うでしょうか。
この世界の有り様を見て、なんて言われるでしょうか。
忠実で賢い管理人に任された仕事。
それは、時間通りに食べ物を分配するということでした。
時間になったら、食べ物を分ける。
それが、忠実な僕に任された仕事です。
私たちが、なすべきことも、これなのだと思います。
みんなで、食べ物を分ける。分かち合うということ。
それが、イエス様の帰りを待つ私たちに、求められていることだということです。
これは決して、無理なことではありません。
「いつ帰ってくるかわからない主人を、目を覚まして待ち続けなさい。」
無理難題に聞こえたその呼びかけですが、具体的には、みんなで食べ物を分ける、分かち合うということ。
イエス様が求めているのは、その一点なんです。
そのことさえ守っていれば、イエス様は喜んで、私たちをもてなしてくださる。
このことを、改めて、心に刻みたいと思います。
・結論
イエス様は、いつか必ず、帰って来られます。
いつ帰ってくるかは分かりませんが、いつか必ず帰ってきます。
その日を、幸いな日として、喜んで迎えられるかどうかは、私たち自身にかかっています。
この説教を準備していました時に、ある牧師のメッセージを読みました。
そこには、イエス様を待ち望むというのは、子どもが母親を待って、留守番している時に似ていると、書いてありました。
今か今かと待って、帰ってくると玄関に向かって走って迎えに行く。
そんな出迎えを、イエス様は期待しているのだと書いてありました。
その文章を読みながら、ふと、自分自身の幼い頃を思い出し、いつも喜んで出迎えるなんて、そんなことないだろうと思いました。
親が帰ってきた時に「やばい!」と思ったことがある方、皆さんの中にも、いらっしゃるんじゃないでしょうか。
詳しくは言いませんけれども、イエス様が帰ってきた時も同じです。
喜んで迎えるか、それとも、「やばい!」と思うか。
それは、自分にかかっています。
その時を、喜んで迎えられるように、主の求めておられることを、なすものでありたいと思います。
今一度、心に覚えたいと思います。
イエス様が、私たちに、望んでおられること。
それは、分かち合うことです。
分かち合うというのは、持っているものを分け合うということです。
持っていないのに、分け合わなきゃと思う必要はありません。
持っているものを、分け合えばいいのです。
自分には、何があるか。自分は何を、持っているか。考えてみてください。
どんな人も、必ず、分かち合える何かを持っているはずです。
神様は、一人一人に、賜物を与えてくださっています。
その賜物を、考えてみてください。
中には、人と比較して、自分の賜物を小さく感じたり、少なく感じたりしている人がいるかもしれません。
しかし、大きいも小さいも、多いも少ないも、関係ありません。
それぞれの賜物を、それぞれの量で、形で、分け合っていけば良いのです。
ただし、イエス様は言われます。
「多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
多く持っている者たちの責任は重いということです。
自分に与えられている賜物を、過小評価してはいけません。
神様から与えられているものを、感謝を持って、受け取っていきたいと思います。
そして、分かち合っていきたいと思います。
自分に、自分たちに、与えられている賜物とはなんでしょうか。
それを見つけ、分かち合っていく。
そうやって生きていれば、いつか必ず、喜びの日がやってくる。
幸いな日が、やってくる。
その日を信じて、分かち合う歩みを続けていきましょう。
お祈りします。
主なる神様
み言葉を感謝いたします。今日、改めて、イエス様が帰って来られること。この世界に、再び来られることを、覚えました。どうぞ、その日を、喜びの日として、迎えることができますように、私たちの歩みを、整えてください。イエス様の帰りを待つ者として、与えられているものを、互いに、分かち合う者と、なっていくことができますように、どうぞ、私たちを、導いてください。奪い合い、争いが終わりますように。今、この世界の中で、私たちにできることを、教えてください。どんなに小さく思えることも、軽んずることなく、差し出していくことができますように。私たちを、どうぞ、分かち合う者としてください。ここから始まる、新しい一週間の歩みを、あなたの御手に委ねて、私たちの主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン