聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書12章13節〜21節。
新共同訳新約聖書131ページ〜132ページです。
12:13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
12:14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
12:15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
12:16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
12:17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
12:18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
12:19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
12:20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
12:21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
「富ではなく神に」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日の聖書の箇所には、イエス様が、あるたとえ話をしたってことが書いてあります。
どんな話だったかというと、それは、ある金持ちの話でした。
ある金持ちが、ひろーい畑を持っていました。
ある時、その畑に、たくさんの作物が実りました。
金持ちは、とても喜びましたが、あまりに量が多すぎて、倉が溢れてしまいました。
「どうしよう。作物をしまっておく場所が足りないぞ。」
金持ちは考えました。
そして、言いました。
「もっと大きい倉を作ろう!
とれた作物が全部入る、大きな倉を作るんだ。
そうすれば、何年も生きていくことができる。
働かずに、食べたり飲んだり、楽しむことができるぞ!」
そう言って、喜んでいた金持ちに、神様は言いました。
「愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前の作物は、いったいだれのものになるのか。」
これが、イエス様がした、たとえ話でした。
愚か者って言われた金持ちの話でしたが、なんで、この金持ちは、愚か者って言われてしまったんでしょうか。
何がいけなかったんでしょうか。
大きい倉を作ろうとしたのが、いけなかったでしょうか。
働かずに、怠けようとしたことが、いけなかったでしょうか。
ちょっと、想像してみてください。
「ひろーい畑に、たくさんの作物が実った」って言ってたけれど、いったい誰が、その作物を植えたんでしょうか。
誰が、水をやったんでしょうか。
誰が、収穫したんでしょうか。
倉に入りきらないほど、いっぱいの量です。
そんな量、金持ち一人で、収穫できたでしょうか。
そんなはずないですよね。
そこには、汗水流して働いている人たちが、たくさんいたはずです。
でも、どうでしょうか。
金持ちは、その人たちのことを考えていたでしょうか。
金持ちの言葉に、その人たちのことが、少しでも出ていたでしょうか。
全然、出ていませんでした。
金持ちは、自分のことしか考えていませんでした。
収穫物は、自分のもの。
全部自分の倉に入れよう。
そうすれば、働かずに、食べたり飲んだりできる。
働いている人たちのことなんて、一つも考えていません。
もし、みんなが、この人の畑で働いている人だったら、どう思いますか。
悲しいし悔しいし、怒りも湧いてくると思います。
こんなに一生懸命、汗水流して働いているのに、全然考えてくれていない。感謝の一つもない。
そんなのおかしいって、きっと、思うと思います。
中には、怒って、倉を壊してやろうとか、この金持ちを襲ってやろうっていう人も出てくるかもしれない。
たとえ話の最後に、「今夜、お前の命は取り上げられる」って言葉があるけど、本当に、そういうことが起こるかもしれない。
だから、イエス様は、そういう金持ちは愚かだって、言われたんだと思います。
全部自分のものだって欲張ると、むしろ、失ってしまう。
感謝の気持ちをもって、分け合うことを覚えなさいって、言われているんだと思います。
私たちは、分けちゃうと、自分の分が減るって思っちゃいますが、
むしろ、「自分のものだ」って欲張った方が、失ってしまう。
分けた方が、たくさんのものを得られるんだって、聖書は教えています。
「欲張ると失う。分けると増える。」
このことを、今日は、覚えておきたいと思います。
お祈りします。
・たとえ話はリアルな話
今、言いました通り、今日の箇所には、イエス様のたとえ話が記されています。
たとえ話ということは、作り話ということなんですが、聞いていた聴衆たちにとっては、単なる空想の話ではない。
むしろ、彼らが日常経験していた現実に、とても近い、リアルな話だったと思います。
この話の聞き手、今日の箇所では「群衆」となっていますが、彼らがどういう人たちだったか、確定させることはできません。
ガリラヤの民衆たちだったか、それとも、サマリアの人々だったか。
文脈的には、イエス様が、エルサレムに向かって旅をしている途中なのですが、どこにおられた時のことかは、わかりません。
ですから、イエス様の話の聞き手を、確定させることは難しいのですが、
しかし、総じて言えるのは、ガリラヤにしても、サマリアにしても、ユダヤにしても、農村で働く人々の生活は、とても苦しいものであったということです。
たとえ話の主人公は金持ちだったと言われていますが、当時、土地を所有できたのは、一部の限られたお金持ちだけでした。
もともと、イスラエルの民は、先祖から受け継いだ土地を耕し、自給自足で生活をしていました。
しかし、干ばつなどの自然災害や、戦争、また厳しい税金のために、困窮した農民たちは、都市に住むお金持ちから金を借り、返済できない場合は、土地を売って、小作人になっていました。
小作人というのは、人の土地を借りて、農業を営む人たちです。
彼らは、収穫の一部を、地主に納めて、農業を営んでいたわけですが、
この地主の取り立てが、えげつないものでありまして、収穫の 3 分の 1 から 2 分の 1、ひどい場合には 3 分の 2 も土地の賃借料として要求されたと言われています。
そして彼らは、その収穫物を、自分の倉にしまっておいて、飢饉の時に、法外な値段で売るわけです。
農民たちは、それを買わないといけない。
彼らには、飢饉のために蓄える余裕などありません。
毎年、豊作だったら蓄えることもできたかもしれませんが、当然、収穫がない年もあるわけです。
領主からは、厳しい税金の取り立てもありましたので、全然余裕などなかったわけです。
働いても働いても、取り上げられて、いっこうに暮らしは良くならない。
イエス様の出身地であるガリラヤは、特に、そういう農民たちばかりだったと言われています。
・遺産を求める人
そういう人々が、イエス様に救いを求めて集まっていたと考えるのは、ごく自然なことだと思います。
そんな状況の中で、群衆の一人が、「遺産を分けてくれるように、兄弟に言ってください」と、イエス様に頼んだわけです。
遺産相続で揉めていたのだと思いますが、相続できる遺産があるということは、裕福な人だったと思います。
文脈的に考えても、彼の悩みは、贅沢な悩みだったのでしょう。
今日1日を生きることに苦労している人たちの中で、遺産相続の悩みを相談するというのは、危険なことだったのだと思います。
下手をすれば、襲われていたかもしれません。
まさに、たとえ話で語られていたことが、現実になったかもしれない。
それで、イエス様は、このたとえ話を、語られたのではないでしょうか。
彼が求めていた遺産とは、いったい誰のものだったのか。
たとえ話に重ねていうならば、それは、多くの貧しい農民から搾取して得たものだったと言えます。
それを彼は、自分のものにしようと、求めていたわけです。
たとえ話に出てくる金持ちの愚かさは、まさにそこにありました。
・「自分の」
子どもメッセージでも言いました通り、たとえ話に出てくる金持ちは、豊作によって得た作物を、自分のものだと言いました。
新共同訳聖書では訳されていないのですが、実は、金持ちの言葉には、「自分の」という言葉が、たくさん出てきます。
週報の巻頭言に、その部分を()で加えましたので、ご覧ください。
2行目からですが、「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。(自分の)作物をしまっておく場所がない』と(自分の中で)思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。(自分の)倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに(自分の)穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』」
豊作によって得た作物を、自分の作物と呼び、それを納める倉を自分の倉と呼び、自分の穀物・財産と言っています。
さらにそれをどうしようかと、「自分の中で」思い巡らしたとも言われています。
畑で収穫した作物について、誰に相談することもなく、自分の中だけで考えて、そして、自分のために用いようとした。
そんな金持ちに、たとえ話の神様は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。』と言っています。
この文章は、直訳すると、「彼らは、今晩、お前の命をお前から取り上げる」と訳されるそうです。
「彼らは、今晩、お前の命をお前から取り上げる」これが、正確な訳だそうですが、
金持ちの命を奪うと言われている「彼ら」とは、搾取され続けていた農民たちのことでしょう。
実際ガリラヤでは、困窮した農民たちによる暴動や強盗が、しばしば起こっていました。
どんなに富を蓄えても、そうやって命を奪われては、何の意味もない。
イエス様は、そんな愚か者になってはならないと言われているのです。
・富の危険
今日の箇所の最後で、イエス様は、この金持ちのことを「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」と呼んでいます。
沢山の富を持っていても、豊かになれるとは限らないということです。
遺産相続の話もそうですが、富は、時に関係を破壊し、争いのもとになります。
お金のことで揉めたり、関係が壊れてしまったことがある人は、少なくないと思います。
今、世界で起こっている様々な争いも、根本は、富の奪い合いなのではないでしょうか。
富が私たちを豊かにしてくれる。
富があれば、私たちの生活は豊かになる。
そう考えるのは間違いであると、聖書は教えているのだと思います。
・富は誰のもの?
問われているのは、富が誰のもので、どう使うべきかということです。
たとえ話の中で、神様は「お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と問うています。
この問いを考えることは、とても大事なことだと思います。
金持ちは、豊作によって得た収穫物を、全て自分のものにしようとしました。
自分の財産、自分の蓄えにしようとしました。
その結果、彼は、命を失い、結局、自分のものにできませんでした。
この結果から言えるのは、自分のものだと欲張ると、むしろ、失ってしまうということです。
「私の」「私の」と思えば思うほど、「私の」ものにならない。
それが、この話の一つの結論ですが、でも、それで終わりではありません。
金持ちのものにならなかった作物は、いったい誰のものになるのでしょうか。
金持ちを襲った農民たちのものでしょうか。
確かに、金持ちによる搾取は、容認できないことですが、でも、だからと言って、暴動や強盗を肯定することもできません。
この度の、ハマスによるイスラエルに対する攻撃も、背景にどんなことがあったにせよ、許されることではありません。
そして、そのようなことをしても、何の益にもならないことは、歴史が証明しています。
むしろ、彼ら自身が、大きな犠牲を払うことになるでしょう。
ここで、今一度、聖書に目を向けたいと思いますが、イエス様は、「畑が豊作だった」と言っています。
豊かな実りを結んだのは、土地だったということです。
農民たちの働きは、もちろん大事ですが、土地の実りは、神様の恵みなしではあり得ません。
使徒パウロの言葉で「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神である。」という言葉があるように、どんなに人が力を注いで育てたとしても、やっぱりそれは神様からの恵みである。
イスラエルの民は、旧約の時代から、そう信じて、作物の一部を、神様に献げてきました。
この精神を、忘れてはいけないと言われているのではないでしょうか。
礼拝で、私たちが献金を献げるのも、まさにそのためであると思います。
私たちの命や生活を成り立たせているのは、私たちだけの力ではない。
多くの人たちの支えもそうですし、何よりも、神様からの恵みである。
そのことを覚えて、感謝をもって私たちは、献金を献げています。
このことが、私たちの生活を豊かなものにしていくのではないでしょうか。
私たちを豊かにできるのは、富ではありません。神様です。
神の恵みによって生かされていることを覚え、感謝をもって献げていく。
それはすなわち、互いに分かち合っていくということですけれども、
そうすることによって、私たちは、豊かにされていくのではないでしょうか。
今日は、礼拝後、愛餐会を行います。
コロナが流行して以来、初めての愛餐会です。
今もまだ、コロナが終息したわけではありませんし、違う感染症もあって、参加できないという方もいらっしゃると思います。
そういう方々には、申し訳なく思いますが、ただ、愛餐の営みは、教会の営みそのものであると思います。
互いの持ち物を持ち寄り、分け合い、一緒に食べる。
貧しい者も、富める者も、人種や性別の違いも超えて、共に分け合い、一緒に食べる。
その営みを、少しずつでも取り戻していきたいし、そういう機会を増やしていければと願っています。
お祈りします。