2026年3月1日主日礼拝「見えない時も、神は共に」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、出エジプト記32章1節〜6節です。

32:1 モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、

32:2 アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」

32:3 民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。

32:4 彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。

32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。

32:6 彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。

「大事なことを、大事にし続けていくために」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

おはようございます。

今日も最初に子どもメッセージからしたいと思いますが、

今日は、見えなくても、神様は共にいるという話をしたいと思います。

①昔々、イスラエルの人たちは、荒れ野を旅していました。

荒れ野を旅するのは、とても大変なことでした。

食べ物や水も簡単には見つかりません。

いつ敵が襲ってくるかもわからない。

でも、イスラエルの人たちは、神様を信じて、旅をしていました。

②ある日、人々のリーダーをしていたモーセが、神様から呼び出されて、山に登っていきました。

イスラエルの人たちは、荒れ野で、モーセの帰りを待っていました。

でも、待っても待っても、なかなか帰ってこないんです。

1日、2日、3日、・・・10日経っても、20日経っても、モーセは帰ってきませんでした。

③すると、人々は不安になりました。

「モーセは、どうなったんだろう。」

「いつになったら帰ってくるんだろう。」

「何かあったんじゃないか。」

「もうモーセは、帰ってこないんじゃないか。」

荒れ野に取り残された人々は、不安で不安でたまらなくなりました。

「このままでは、みんな荒れ野で倒れてしまう。」

その時、ある人が言いました。

「私たちを導いてくれる神様を作ろう!」

④人々は、金の子牛の像を作って、それを神様だと言って、礼拝しました。

でも、本当にこの像、神様だったんでしょうか。

そんなわけないですよね。

神様を人が作るなんてことは、できません。

人々が、どんなに礼拝しても、どんなに神様だって言っても、像は像です。

神様のように、語りかけることもありませんし、人々を導くこともできません。

でも人々は、それを神様だって言って、拝みました。

なぜか。

それは、モーセと一緒に、神様も、いなくなっちゃったって思ったからでした。

神様は、目には見えません。

神様の言葉も、モーセを通して聞いいていたので、モーセがいなくなると、聞こえなくなってしまいました。

見えないし、聞こえない。いるかどうかわからない。

このままじゃ不安だってことで、人々は、金の子牛の像を作ったんです。

でも、本当に神様は、いなくなっちゃったんでしょうか。

そうでは、ありませんでした。

神様はずっと人々と一緒にいました。

モーセを待っている時も、像を作る時も、ずっと神様は人々と一緒にいて、それを見ていたって、聖書に書いてあります。

いなくなってなんて、いなかったんです。

確かに見えないけど、でも確かに一緒にいたって聖書に書いてあります。

見えないからと言って、いないわけじゃありません。

空気だって、目には見えないけど、確かにあります。

友情とか、愛情とか、心も、目には見えないけど、確かにあります。

神様もそうです。

目には見えないけど、確かにいる。

しかも、私たちと共にいるって、聖書は教えています。

見えなくても、神様は共にいる。

今日はこのことを、覚えておきたいと思います。

お祈りします。

・十戒を破った民

先週は、十戒について学びました。

十戒には、第一戒から第十戒までありますけれども、その中の、第二戒にはどんな戒めが記されているか、ご存知でしょうか。

第二戒には、次のよう書かれています。

「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」

いわゆる偶像礼拝の禁止、これが、第二戒です。

この戒めを受け取った民は、主が語られたことを全て行うと約束しました。

19:8、24:3、そして7と、3度も戒めを守ると、約束されています。

それなのに民は、金の子牛の像を作り、神として崇め、礼拝してしまったわけです。

その様子が、今日の箇所に記されています。

約束を守ると言ってから、ほんの数週間後の出来事です。

なぜ民は、そんなことをしてしまったのでしょう。

・なぜ?

その理由について、民は、次のように言っています。

1節モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです。」

この時、モーセは、律法を授かるため、シナイ山にいました。

40日40夜そこにいたと記されています。

1ヶ月と10日ぐらいということになりますが、その間、民は、荒れ野で待たなければなりませんでした。

待つというのは、忍耐のいることです。

しかも、民は、いつまで待てば良いか、知らされていませんでした。

40日したら戻ってくると言われていたら、待つこともできたかもしれませんが、いつ帰ってくるかわからない。

その中で、待ち続けるというのは、本当に大変なことだったと思います。

加えて、この時、民がいたのは、オアシスではありません。荒れ野でした。

食料や水を得ることも、簡単じゃありません。

いつ敵に襲われるかもわからない。

そんな状況の中で、荒れ野に留まり続けるというのは、大変危険なことでした。

民は、一刻も早く、荒れ野を抜けたいと思っていたでしょう。

だから、早くモーセに帰ってきて欲しかった。

今か今かと民は、モーセの帰りを待っていたのだと思います。

それなのに、何日経っても、モーセは、帰ってきませんでした。

時間が経てば経つほど、民の心には、不安が広がっていきました。

「モーセはどうなってしまったんだろう。

何かあったんじゃないだろうか。

もしかしたら、モーセは帰ってこないのではないか。

このまま待っていたら、みんな倒れてしまう。」

そこで民は、自分たちを導く神を求めて、モーセの兄弟アロンに偶像を作るよう頼んだのです。

・神はおられた

このことからわかるのは、民が信頼していたのが、モーセだったということです。

エジプトの国から導いてくれたのも、モーセだと思っていました。

モーセが、自分たちを導いてくれた。

モーセこそ、偉大な解放者だと思っていた。

それなのに、そのモーセが、山から降りてこないわけです。

どうなってしまったのかも、わからない。

それで民は、不安に陥ってしまったのですが、しかし、ここには、大きな誤解がありました。

それは、民を真に導いていたのが、モーセではなく、神様だったということです。

神様こそ、民を解放し、約束の地カナンへと導かれるお方でした。

それなのに民は、モーセしか見ていなかったのです。

確かに神様は、いつもモーセを通して民に語りかけていました。

奇跡を行うのも、旅を導くのも、モーセを通して行っていました。

でも、だからと言って、モーセがいなくなれば、神様もいなくなるかというと、そうではありませんでした。

モーセが山にいる間も、神様は、民と共におられました。

民が偶像を礼拝する様子もご覧になっていました。

だから、7節で、モーセに対して、民がとんでもないことをしていると、伝えることができたのです。

このように、モーセがいない時も、神様は民と共におられました。

民は決して、神様から見捨てられてなど、いなかったのです。

・主人を求める民

それなのに民は、導き手を失ったと思ってしまった。

頼れるお方はもういないと、思ってしまいました。

それで民は、アロンに金の子牛を作らせ、それを神と呼び、礼拝したのです。

なぜ子牛だったのかということについては、諸説あるようです。

古代オリエント世界の神々の中に、子牛の形をしたものがいたとか、子牛は神々の台座だと考えられていたとか言われています。

その異教の信仰に影響されて、子牛を作ったんだということです。

形があって、目で見て、触れることができる。

確かにそこにいるということを、五感で、感じることができる。

それは、民にとって、大変都合の良いことだったのだと思います。

目に見えない。一緒にいるのかどうかもわからない。

そんな神を信じるよりも、ずっと確かなものに、見えたでしょう。

そうやって民は、自分たちに都合の良いものを神とすることで、不安を埋めようとしたのです。

はたから見れば、とても愚かな行為に見えるでしょう。

人の手で作った像が、なんで神様になるのか、不思議に思います。

でも、私たちにも、似たようなことがあるのではないでしょうか。

人間というのは、実に弱い者です。

不安であればあるほど、目に見えない不確かなものよりも、目に見て感じられる、確からしいものを求めたくなるものです。

神様よりも、お金を頼りにするということもあるでしょう。

お金によって、安心を得ようとする。

また神様よりも、人を頼りにするということもあるでしょう。

「あの人がいるから大丈夫」、そう言って、人の存在を心の支えにする。

そのように私たちは、気付かぬうちに、人を神様にしたり、お金を神様にしたりしながら、生きているのだと思います。

でも、人もお金も、神様ではありません。

うつろいやすいものですし、いつかは消えて無くなってしまいます。

そのようなものを頼りにする生き方は、崩れやすいものです。

一時の安心を得ることはできても、いつか必ず、破綻していきます。

また、人やお金を神にするということは、人やお金の奴隷になるということです。

そのような生き方は、私たちを救うどころか、つまずかせるものです。

場合によっては、私たちの心を蝕んだり、私たちの人生を狂わせていきます。

まさに、イスラエルの民は、エジプトで、そのような生活を強いられていました。

ファラオの奴隷として、人間としての尊厳を奪われ、道具のように扱われながら、朝から晩まで働かされ、命さえ脅かされていたのです。

しかし神様は、その奴隷の家から、民を救い出されました。

自由と解放を与えるため、命と尊厳を回復させるために、神様は民を導かれました。

それなのに民は、荒れ野で神を見失うと、自ら進んで、奴隷のくびきを負おうとしたのです。

この民と同じように、私たちも、神を見失い不安になる時、別の何かを心の支えにしようとします。

たとえば、お金を心の支えにして生きる時、私たちは、通帳の数字が増えれば安心し、減れば不安になります。

気がつけば、いつもお金に心が振り回されている。

人の評価を心の支えにすると、ほめられれば元気になり、批判されれば落ち込みます。

いつも誰かの顔色をうかがって生きなければならなくなります。

成功が支えになると、うまくいっている時は良いのですが、失敗したとたん、自分の価値までなくなったように感じてしまう。

失敗しないようにと思って、緊張したり、不安になったり、挑戦することをやめたりしてしまう。

こうして私たちは、何かに頼っているつもりが、いつの間にか、それに振り回されるようになります。

「もっと頑張らないと」「もっと認めてもらないと」「もっと成果を出さないと」。

そのような生き方に、平安はありません。

それは、とても不自由な生き方です。

心の支えであったはずのものが、いつの間にか、私たちを縛り、不自由にさせていくのです。

それに対して、聖書の語る神様は、どういうお方でしょうか。

聖書の語る神様は、奴隷にするための主人ではありません。

自由にするための主人です。

重荷を負わせるのではなく、私たちの重荷を共に背負い、一緒に歩んでくださるお方です。

その姿は、目には見えませんけれども、

だからこそ、変わることなく、いつも私たちと共におられます。

この神を信じ、この神に従う時、私たちは、この世のあらゆる支配から自由に生きることができるのです。

・結論

荒れ野を旅する民に必要だったのは、見えなくても、確かに共にいる神を信じることでした。

荒れ野の旅路の中で、民は神を見失いました。

モーセと一緒に、神様も、どこかに行ってしまったのではないかと不安になりました。

しかし神は、そんな民と共におられました。

このことを、今日、心に刻みたいと思います。

私たちも、厳しい歩みの中で、神がいないと感じる時があるでしょう。

祈りが届いていないように思える時。

どれだけ待っても、状況が変わらない時。

神なんていないのではないかと感じてしまうことが、確かにあります。

私たちの感覚は、その時々の状況によって変わっていきます。

神様を、近く感じる日もあれば、遠く感じる日もある。

信じられる日もあれば、信じられない日もある。

でも、神様の関わりは、変わりません。

私たちが「いない」と思う時も、神は共におられる。

それが聖書の語る真実です。

見えない神を信じることは、決して簡単なことではありません。

年末、息子の充に、「今年は神様に会えましたか?」と聞きました。

すると、「見えません。影も形もありません」と言われました。

それでも「神様は一緒にいるんだよ」と言うと、「見えないので、一緒にいる気がしません」と言われました。

とても素直な言葉だと思います。

でも、目に見えないからと言って、いないわけではありません。

月や星も、昼間には見えませんが、無くなったわけではありません。

空気や匂いも、目には見えませんが、確かに存在します。

友情や愛情、私たちの心だって目に見えませんが、確かに存在しています。

神様も、一緒です。

目には見えないけれど、確かにいる。

しかも、私たちと共にいてくださっていると、聖書は教えています。

その聖書の言葉を信じて、見えない神に心を向けたいと思います。

神は、見えなくても共におられます。

沈黙しているように思えるときも、働いておられます。

荒れ野にいる時も、民と共におられたように、今も、私たちと共にいてくださる。

だから私たちは、目に見えるものを頼りにするのではなく、見えないけれど確かに共にいてくださる神様を信じて、歩みたいと思います。

見えなくても、確かに共にいてくださる。

その神様を信じて、新しい一週間の旅路へと出掛けていきましょう。

お祈りいたします。

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