聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、出エジプト記32章1節〜6節です。
32:1 モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、
32:2 アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」
32:3 民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。
32:4 彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。
32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。
32:6 彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。
「大事なことを、大事にし続けていくために」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日も最初に子どもメッセージからしたいと思いますが、
今日は、見えなくても、神様は共にいるという話をしたいと思います。
①昔々、イスラエルの人たちは、荒れ野を旅していました。
荒れ野を旅するのは、とても大変なことでした。
食べ物や水も簡単には見つかりません。
いつ敵が襲ってくるかもわからない。
でも、イスラエルの人たちは、神様を信じて、旅をしていました。
②ある日、人々のリーダーをしていたモーセが、神様から呼び出されて、山に登っていきました。
イスラエルの人たちは、荒れ野で、モーセの帰りを待っていました。
でも、待っても待っても、なかなか帰ってこないんです。
1日、2日、3日、・・・10日経っても、20日経っても、モーセは帰ってきませんでした。
③すると、人々は不安になりました。
「モーセは、どうなったんだろう。」
「いつになったら帰ってくるんだろう。」
「何かあったんじゃないか。」
「もうモーセは、帰ってこないんじゃないか。」
荒れ野に取り残された人々は、不安で不安でたまらなくなりました。
「このままでは、みんな荒れ野で倒れてしまう。」
その時、ある人が言いました。
「私たちを導いてくれる神様を作ろう!」
④人々は、金の子牛の像を作って、それを神様だと言って、礼拝しました。
でも、本当にこの像、神様だったんでしょうか。
そんなわけないですよね。
神様を人が作るなんてことは、できません。
人々が、どんなに礼拝しても、どんなに神様だって言っても、像は像です。
神様のように、語りかけることもありませんし、人々を導くこともできません。
でも人々は、それを神様だって言って、拝みました。
なぜか。
それは、モーセと一緒に、神様も、いなくなっちゃったって思ったからでした。
神様は、目には見えません。
神様の言葉も、モーセを通して聞いいていたので、モーセがいなくなると、聞こえなくなってしまいました。
見えないし、聞こえない。いるかどうかわからない。
このままじゃ不安だってことで、人々は、金の子牛の像を作ったんです。
でも、本当に神様は、いなくなっちゃったんでしょうか。
そうでは、ありませんでした。
神様はずっと人々と一緒にいました。
モーセを待っている時も、像を作る時も、ずっと神様は人々と一緒にいて、それを見ていたって、聖書に書いてあります。
いなくなってなんて、いなかったんです。
確かに見えないけど、でも確かに一緒にいたって聖書に書いてあります。
見えないからと言って、いないわけじゃありません。
空気だって、目には見えないけど、確かにあります。
友情とか、愛情とか、心も、目には見えないけど、確かにあります。
神様もそうです。
目には見えないけど、確かにいる。
しかも、私たちと共にいるって、聖書は教えています。
見えなくても、神様は共にいる。
今日はこのことを、覚えておきたいと思います。
お祈りします。
・十戒を破った民
先週は、十戒について学びました。
十戒には、第一戒から第十戒までありますけれども、その中の、第二戒にはどんな戒めが記されているか、ご存知でしょうか。
第二戒には、次のよう書かれています。
「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。」
いわゆる偶像礼拝の禁止、これが、第二戒です。
この戒めを受け取った民は、主が語られたことを全て行うと約束しました。
19:8、24:3、そして7と、3度も戒めを守ると、約束されています。
それなのに民は、金の子牛の像を作り、神として崇め、礼拝してしまったわけです。
その様子が、今日の箇所に記されています。
約束を守ると言ってから、ほんの数週間後の出来事です。
なぜ民は、そんなことをしてしまったのでしょう。
・なぜ?
その理由について、民は、次のように言っています。
1節モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです。」
この時、モーセは、律法を授かるため、シナイ山にいました。
40日40夜そこにいたと記されています。
1ヶ月と10日ぐらいということになりますが、その間、民は、荒れ野で待たなければなりませんでした。
待つというのは、忍耐のいることです。
しかも、民は、いつまで待てば良いか、知らされていませんでした。
40日したら戻ってくると言われていたら、待つこともできたかもしれませんが、いつ帰ってくるかわからない。
その中で、待ち続けるというのは、本当に大変なことだったと思います。
加えて、この時、民がいたのは、オアシスではありません。荒れ野でした。
食料や水を得ることも、簡単じゃありません。
いつ敵に襲われるかもわからない。
そんな状況の中で、荒れ野に留まり続けるというのは、大変危険なことでした。
民は、一刻も早く、荒れ野を抜けたいと思っていたでしょう。
だから、早くモーセに帰ってきて欲しかった。
今か今かと民は、モーセの帰りを待っていたのだと思います。
それなのに、何日経っても、モーセは、帰ってきませんでした。
時間が経てば経つほど、民の心には、不安が広がっていきました。
「モーセはどうなってしまったんだろう。
何かあったんじゃないだろうか。
もしかしたら、モーセは帰ってこないのではないか。
このまま待っていたら、みんな倒れてしまう。」
そこで民は、自分たちを導く神を求めて、モーセの兄弟アロンに偶像を作るよう頼んだのです。
・神はおられた
このことからわかるのは、民が信頼していたのが、モーセだったということです。
エジプトの国から導いてくれたのも、モーセだと思っていました。
モーセが、自分たちを導いてくれた。
モーセこそ、偉大な解放者だと思っていた。
それなのに、そのモーセが、山から降りてこないわけです。
どうなってしまったのかも、わからない。
それで民は、不安に陥ってしまったのですが、しかし、ここには、大きな誤解がありました。
それは、民を真に導いていたのが、モーセではなく、神様だったということです。
神様こそ、民を解放し、約束の地カナンへと導かれるお方でした。
それなのに民は、モーセしか見ていなかったのです。
確かに神様は、いつもモーセを通して民に語りかけていました。
奇跡を行うのも、旅を導くのも、モーセを通して行っていました。
でも、だからと言って、モーセがいなくなれば、神様もいなくなるかというと、そうではありませんでした。
モーセが山にいる間も、神様は、民と共におられました。
民が偶像を礼拝する様子もご覧になっていました。
だから、7節で、モーセに対して、民がとんでもないことをしていると、伝えることができたのです。
このように、モーセがいない時も、神様は民と共におられました。
民は決して、神様から見捨てられてなど、いなかったのです。
・主人を求める民
それなのに民は、導き手を失ったと思ってしまった。
頼れるお方はもういないと、思ってしまいました。
それで民は、アロンに金の子牛を作らせ、それを神と呼び、礼拝したのです。
なぜ子牛だったのかということについては、諸説あるようです。
古代オリエント世界の神々の中に、子牛の形をしたものがいたとか、子牛は神々の台座だと考えられていたとか言われています。
その異教の信仰に影響されて、子牛を作ったんだということです。
形があって、目で見て、触れることができる。
確かにそこにいるということを、五感で、感じることができる。
それは、民にとって、大変都合の良いことだったのだと思います。
目に見えない。一緒にいるのかどうかもわからない。
そんな神を信じるよりも、ずっと確かなものに、見えたでしょう。
そうやって民は、自分たちに都合の良いものを神とすることで、不安を埋めようとしたのです。
はたから見れば、とても愚かな行為に見えるでしょう。
人の手で作った像が、なんで神様になるのか、不思議に思います。
でも、私たちにも、似たようなことがあるのではないでしょうか。
人間というのは、実に弱い者です。
不安であればあるほど、目に見えない不確かなものよりも、目に見て感じられる、確からしいものを求めたくなるものです。
神様よりも、お金を頼りにするということもあるでしょう。
お金によって、安心を得ようとする。
また神様よりも、人を頼りにするということもあるでしょう。
「あの人がいるから大丈夫」、そう言って、人の存在を心の支えにする。
そのように私たちは、気付かぬうちに、人を神様にしたり、お金を神様にしたりしながら、生きているのだと思います。
でも、人もお金も、神様ではありません。
うつろいやすいものですし、いつかは消えて無くなってしまいます。
そのようなものを頼りにする生き方は、崩れやすいものです。
一時の安心を得ることはできても、いつか必ず、破綻していきます。
また、人やお金を神にするということは、人やお金の奴隷になるということです。
そのような生き方は、私たちを救うどころか、つまずかせるものです。
場合によっては、私たちの心を蝕んだり、私たちの人生を狂わせていきます。
まさに、イスラエルの民は、エジプトで、そのような生活を強いられていました。
ファラオの奴隷として、人間としての尊厳を奪われ、道具のように扱われながら、朝から晩まで働かされ、命さえ脅かされていたのです。
しかし神様は、その奴隷の家から、民を救い出されました。
自由と解放を与えるため、命と尊厳を回復させるために、神様は民を導かれました。
それなのに民は、荒れ野で神を見失うと、自ら進んで、奴隷のくびきを負おうとしたのです。
この民と同じように、私たちも、神を見失い不安になる時、別の何かを心の支えにしようとします。
たとえば、お金を心の支えにして生きる時、私たちは、通帳の数字が増えれば安心し、減れば不安になります。
気がつけば、いつもお金に心が振り回されている。
人の評価を心の支えにすると、ほめられれば元気になり、批判されれば落ち込みます。
いつも誰かの顔色をうかがって生きなければならなくなります。
成功が支えになると、うまくいっている時は良いのですが、失敗したとたん、自分の価値までなくなったように感じてしまう。
失敗しないようにと思って、緊張したり、不安になったり、挑戦することをやめたりしてしまう。
こうして私たちは、何かに頼っているつもりが、いつの間にか、それに振り回されるようになります。
「もっと頑張らないと」「もっと認めてもらないと」「もっと成果を出さないと」。
そのような生き方に、平安はありません。
それは、とても不自由な生き方です。
心の支えであったはずのものが、いつの間にか、私たちを縛り、不自由にさせていくのです。
それに対して、聖書の語る神様は、どういうお方でしょうか。
聖書の語る神様は、奴隷にするための主人ではありません。
自由にするための主人です。
重荷を負わせるのではなく、私たちの重荷を共に背負い、一緒に歩んでくださるお方です。
その姿は、目には見えませんけれども、
だからこそ、変わることなく、いつも私たちと共におられます。
この神を信じ、この神に従う時、私たちは、この世のあらゆる支配から自由に生きることができるのです。
・結論
荒れ野を旅する民に必要だったのは、見えなくても、確かに共にいる神を信じることでした。
荒れ野の旅路の中で、民は神を見失いました。
モーセと一緒に、神様も、どこかに行ってしまったのではないかと不安になりました。
しかし神は、そんな民と共におられました。
このことを、今日、心に刻みたいと思います。
私たちも、厳しい歩みの中で、神がいないと感じる時があるでしょう。
祈りが届いていないように思える時。
どれだけ待っても、状況が変わらない時。
神なんていないのではないかと感じてしまうことが、確かにあります。
私たちの感覚は、その時々の状況によって変わっていきます。
神様を、近く感じる日もあれば、遠く感じる日もある。
信じられる日もあれば、信じられない日もある。
でも、神様の関わりは、変わりません。
私たちが「いない」と思う時も、神は共におられる。
それが聖書の語る真実です。
見えない神を信じることは、決して簡単なことではありません。
年末、息子の充に、「今年は神様に会えましたか?」と聞きました。
すると、「見えません。影も形もありません」と言われました。
それでも「神様は一緒にいるんだよ」と言うと、「見えないので、一緒にいる気がしません」と言われました。
とても素直な言葉だと思います。
でも、目に見えないからと言って、いないわけではありません。
月や星も、昼間には見えませんが、無くなったわけではありません。
空気や匂いも、目には見えませんが、確かに存在します。
友情や愛情、私たちの心だって目に見えませんが、確かに存在しています。
神様も、一緒です。
目には見えないけれど、確かにいる。
しかも、私たちと共にいてくださっていると、聖書は教えています。
その聖書の言葉を信じて、見えない神に心を向けたいと思います。
神は、見えなくても共におられます。
沈黙しているように思えるときも、働いておられます。
荒れ野にいる時も、民と共におられたように、今も、私たちと共にいてくださる。
だから私たちは、目に見えるものを頼りにするのではなく、見えないけれど確かに共にいてくださる神様を信じて、歩みたいと思います。
見えなくても、確かに共にいてくださる。
その神様を信じて、新しい一週間の旅路へと出掛けていきましょう。
お祈りいたします。







