聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、創世記37章1節〜11節。
37:18 兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、
37:19 相談した。「おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。
37:20 さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう。」
37:21 ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から助け出そうとして、言った。「命まで取るのはよそう。」
37:22 ルベンは続けて言った。「血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない。」ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである。
37:23 ヨセフがやって来ると、兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、
37:24 彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった。
37:25 彼らはそれから、腰を下ろして食事を始めたが、ふと目を上げると、イシュマエル人の隊商がギレアドの方からやって来るのが見えた。らくだに樹脂、乳香、没薬を積んで、エジプトに下って行こうとしているところであった。
37:26 ユダは兄弟たちに言った。「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。
37:27 それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。」兄弟たちは、これを聞き入れた。
37:28 ところが、その間にミディアン人の商人たちが通りかかって、ヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚でイシュマエル人に売ったので、彼らはヨセフをエジプトに連れて行ってしまった。
37:29 ルベンが穴のところに戻ってみると、意外にも穴の中にヨセフはいなかった。ルベンは自分の衣を引き裂き、
37:30 兄弟たちのところへ帰り、「あの子がいない。わたしは、このわたしは、どうしたらいいのか」と言った。
37:31 兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。
37:32 彼らはそれから、裾の長い晴れ着を父のもとへ送り届け、「これを見つけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください」と言わせた。
37:33 父は、それを調べて言った。「あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ。」
37:34 ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。
37:35 息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ。「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」父はこう言って、ヨセフのために泣いた。
37:36 一方、メダンの人たちがエジプトへ売ったヨセフは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長であったポティファルのものとなった。
「終わりから始まる物語」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日もまず最初に子どもメッセージからしたいと思いますが、
先週から新たにヨセフ物語を読み始めました。
先週は、第一話「ヨセフ、家族から嫌われる」という話を読みましたが、今日はその続きです。
どんなことが書いてあるか。
第二話のタイトルは、「ヨセフ、兄たちに売られ、エジプトへ」です。
第一話に続いて、第二話も、衝撃的なタイトルですが、いったい何があったんでしょうか。
先週のお話も振り返りながら、今日も紙芝居で、読んでいきたいと思います。
1、第二話「ヨセフ、兄たちに売られ、エジプトへ」。
2、ヨセフには、お兄ちゃんが10人と弟が1人いました。
たくさんの兄弟がいる中で、ヨセフだけ、特別でした。
何が特別だったか。
ヨセフは、他の兄弟の誰よりも、お父さんに愛されていたのです。
3、その証拠に、お父さんは、ヨセフさんにだけ、綺麗な服をプレゼントしました。
当然、お兄さんたちは、面白くありません。
「なんであいつだけ。」「調子に乗りやがって。」
お兄さんたちは、ヨセフのことを、憎むようになりました。
4、そんなある日、お兄さんたちが羊の世話をしていると、向こうからヨセフがやってきました。
お兄さんたちは集まって言いました。
「おい見ろ、ヨセフがやってくる。憎しみを晴らすなら今しかない。命を奪って、穴に投げ込もう。」
しかし、長男のルベンは言いました。「穴に投げ込むだけで十分だ。命まで奪うのはよそう。」
5、お兄さんたちは、ヨセフから、綺麗な服を剥ぎ取り、穴に投げ込みました。
ヨセフは叫びました。「なんでこんなことをするんだ!助けてよ!助けて!」
でも、お兄さんたちは聞きません。
すると、四男のユダが言いました。「このまま命を奪っても、なんの得にもなりゃしない。それより売って、お金にしよう。」
5、ちょうどそこへ、エジプトに行く商人が通りがかりました。
お兄さんたちは、ヨセフを引き上げ、銀貨20枚で売ってしまいました。
こうしてヨセフは、エジプトへ連れて行かれてしまいました。
6、お兄さんたちは、ヨセフの服に血をつけて、野獣に襲われて死んでしまったと嘘をつきました。
それを聞いたお父さんは、とても悲しみます。
「ああ、私の愛するヨセフが死んでしまった。もうおしまいだ。私もあの子のところへ行く。」
お父さんはの涙は、何日も止まりませんでした。
これが、今日のお話です。
なんて恐ろしい話でしょうか。
お兄さんたちは、ヨセフを、銀貨20枚で売ってしまいました。
人間というのは、憎しみとか怒りで心がいっぱいになると、恐ろしいことをしてしまう。
今、世界で起こっている争いもそうです。
憎しみや怒りが大きくなると、戦争にまでなってしまう。
だから私たちは、憎しみとか怒りに、気をつけないといけません。
「あいつ嫌い。ムカつく。」そういう想いが、少しでも湧いてきたら、「やばい、やばい」って思って、気持ちをしずめないといけない。
そして、どうしたらそう思わずに済むのか、考える必要があるんだと思います。
残念ながら、お兄さんたちは、憎しみを抑えることができず、恐ろしいことをしてしまいました。
お父さんは、ヨセフが死んだと思って、嘆き悲しみました。
「ああ、私の愛するヨセフが死んでしまった。もうおしまいだ。私もあの子のところへ行く。」
誰もが、ヨセフの人生は終わったと思ったでしょう。
お父さんはもちろん、お兄さんたちも、ヨセフの人生はおしまいだと思ったと思います。
でも、ヨセフの物語は、ここで終わりじゃありません。
むしろ、ここからが始まりと言ってもいい。
エジプトに売られたヨセフは、なんとそのエジプトで、王様の次に偉い位にまで出世することになります。
人生というのは、本当にわからないものだなと思います。
おしまいだと思うようなことがあっても、またそこから、新しい物語が始まっていく。
私も、これまで、「終わった」と思うようなことがありました。
受験に落ちた時とか、大会の直前に大怪我をした時とか、もっと大変なこともありました。
みんなにも、そんなことがあるかもしれません。
でも、「終わった」と思うその時に、新しい道が開かれていく。
神様が、新しい道を開いてくださる。聖書はそう教えています。
このメッセージを、今日はぜひ、覚えておいてほしいと思います。
次回は、この続きを読んでいきます。エジプトに売られたヨセフがどうなっていくのか、続きも一緒に読んでいけたらと思います。
お祈りします。
・
先週に続いて、ヨセフ物語を読んでいきます。
今日の箇所には、ヨセフが、エジプトへ売られていく様子が記されていますけれども、売ったのは誰か。
先ほど読みました紙芝居では、兄たちがヨセフを売ったということになっていましたが、新共同訳聖書を読みますと、ミディアン人の商人たちがヨセフを売ったということになっています。
どちらが正しいのかと思われると思いますが、調べてみますと、どちらにも読めるようです。
ご存知の通り、聖書というのは、いくつかの資料を組み合わせ、編集して作られています。
一方の資料には、兄たちが売ったというストーリーが記されていて、もう一方の資料には、ミディアン人の商人たちが売ったというストーリーが記されている。
どちらの資料を取るかということで、ストーリーに違いが出てくるというわけです。
これは、どの聖書を使うかということでも変わってきます。
新共同訳聖書では、ミディアン人の商人たちが売ったという資料が採用されていますが、口語訳聖書では、兄たちがヨセフを売ったという資料が採用されています。
そういうわけで、ちょっと入り組んでおりますので、混乱してしまうのですけれども、今回は、兄たちがヨセフを売ったという線で、物語を読んでいきたいと思います。
・
ま、いずれにせよ、兄たちがヨセフを捕らえ、穴に落とし、売ってしまおうと企んだことに違いはありません。
なんて恐ろしい人たちだろうと思いますが、しかし、他人事にして良い話でもないのだろうと思います。
一歩間違えば、私たちも、兄たちのようになってしまう。
人間には、そういう危うさがあるということを、覚えておきたいと思うのです。
「憎しみは人を盲目にする」という言葉があります。
兄たちも、そうだったんじゃないでしょうか。
ヨセフを憎むあまり、正常な判断ができなくなってしまった。
兄たちの目に、ヨセフは、どんなふうにうつっていたんでしょう。
きっと、とんでもなく醜悪な存在にうつっていたことでしょう。
こういうのを、「人間の悪魔化」というそうです。
相手を悪魔のようにみなす。人間じゃないものとする。
すると、どんなに酷いことも、できるようになってしまうのだそうです。
太平洋戦争の時には、「鬼畜米英」という言葉が使われました。
敵であるアメリカ人やイギリス人は人間じゃないと、そう思い込むと人は、どんな残酷なこともできてしまうのだそうです。
そうやって結果的に、自分自身が悪魔化してしまうということなんですけれども、とても怖い話です。
兄たちにとっては、ヨセフがそう見えていたんでしょう。
だから、こんなにも恐ろしいことができてしまったのだと思います。
これを防ぐために大事なのは、共通点を探すことです。
相手との共通点を探していく。
共感したり、共有できるものを探っていく。
そうやって、同じ人間であるということを確認していくことによって、人は、相手に好感を持ったり、尊敬を持ったり、できるようになっていくのだそうです。
・
今日の箇所を見ると、ユダの言葉に、そんなような言葉が出てきます。
27節「弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから。」
同じ兄弟なんだから、手をかけるのはよそうと、そんなふうにも聞こえますが、しかし、実際彼の頭の中には、損得勘定しかありませんでした。
これも、人を、非人間化する思考の一つです。
長男ルベンの制止もむなしく、兄たちは、ヨセフをもののように扱い、銀20枚で、売ってしまいました。
空っぽになった穴を見て、長男ルベンは嘆きます。
「あの子がいない。わたしは、このわたしは、どうしたらいいのか。」
血に染まった着物を見て、父ヤコブも嘆きます。
「あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ。」
「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」
誰もが、ヨセフは終わったと思ったでしょう。
ヨセフ自身も、自分の人生は終わったと思っていたと思います。
確かに、家族と過ごした日々、カナンでの生活は終わりました。
でも、代わりに、エジプトにおける第二章、新しい物語が始まっていくのです。
・
この話を読みながら、私は、イエス様のことを、思い出していました。
イエス様もまた、律法学者や祭司長たちの企みによって、十字架に架けられました。
彼らに、イエス様を引き渡した弟子の名前も、ユダでした。
ヨセフを売った兄の名前と同じです。
ヨセフの兄弟ユダが銀20枚でヨセフを売ったように、イエス様もまた、銀30枚で、売られました。
穴にヨセフがいないという描写も、墓にイエス様の遺体がないという描写と重なります。
そして、長男ルベンが空っぽの穴を見て嘆いたように、イエス様に従った婦人たちも、空の墓を見て途方に暮れました。
どちらの物語にも悲しみがあり、痛みがあります。
どちらの物語も、絶望的な状況を描いています。
でも同時に、どちらの物語も、そこから新しい物語が始まっていくんです。
イエス様の場合、空っぽの墓は、復活という新しい命の始まりと繋がっていました。
同様に、ヨセフの物語退ける空っぽの穴も、エジプトにおける新しい物語と繋がっているんです。
一つの扉が閉じられたとしても、全ての扉が閉じられるわけじゃない。
一つの扉が閉じられれば、また新しい扉が開かれる。
神様が、その扉を開いてくださる。
これが、今日皆さんと共に覚えたいメッセージです。
・
今日の礼拝の最初に、イザヤ書43章9節を読んでいただきました。
この箇所は、今年の新年礼拝で、野田姉妹が証してくださった箇所です。
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。」
この御言葉が、今日も、響いているように感じます。
神様は「見よ」と言っています。
何を見よと言っているかというと、それは、荒れ野であり、砂漠です。
そこに神様は、道を敷き、大河を流れさせると言われます。
どんなに目を凝らしても、そんな兆しは見えません。
見えるのは、荒れ野であり、砂漠でしかない。
でも、神様は、「見よ」と言われ、「今や、それは芽生えている」と言われます。
この「芽生え」は、信仰の目でなければ、見ることのできないものです。
つまり神様は、信仰の目を持って、荒れ野を見、砂漠を見つめよと、そう招いているのです。
長男ルベンは、空っぽの穴を見て嘆きました。
イエス様に従った婦人たちも、空っぽの墓を見て途方に暮れました。
でも、そこから新しい命が生まれ、新しい物語が始まっていきました。
神様が、新しい扉を開かれました。
かつては、絶望にしか見えなかった空っぽの穴や、空っぽの墓を、神様は、希望の場所へと変えられた。
そのことを心に留めながら、今一度、空っぽの穴や空っぽの墓を見つめ直すようにと、今日、私たちは招かれているのだと思います。
それは、絶望の中に希望を、死の中に命を見よという招きです。
戦争が終わらず、分断が深まり続けているこの世界から目を離さず、
しかし、飲み込まれず、
諦めないで生きる。
絶望の中に希望を、死の中に命を与えてくださる神を信じて、信仰の目を持って、見つめていく。
そのような歩みへと、出掛けてまいりましょう。
お祈りします。







