聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書1章5節〜20節。
1:39 そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
1:40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。
1:41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、
1:42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
1:43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
1:44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
「もうひとりじゃない」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日も最初に子どもメッセージからしたいと思いますが、
皆さんは、心の中にある不安な気持ちとか、怖い気持ちを、誰にも言えなくて苦しんだことがあるでしょうか。
私は小さい頃、友達のおもちゃを壊してしまったことがあります。
その時に、すぐにごめんねって言えばよかったんですが、怖くて、言えませんでした。
友達は、壊れたおもちゃを見て、悲しそうにしていたんですが、その姿を見れば見るほど言えなくなって、とうとう最後までごめんねって言えなかったことがあります。
その時は、とても心が苦しかったことを覚えています。
そんなふうに、皆さんにも、誰にも言えずに、苦しんだことがあるかもしれません。
今日の聖書のお話に登場するマリアさんもそうでした。
マリアさんも、とても大きな不安を抱えながら、誰にも言えずに、苦しんでいました。
その不安というのは、お腹の中の赤ちゃんでした。
マリアさんは、ある日突然、天使から、「あなたはもうすぐ男の子を産む。
その子は、神の子だ」って、言われました。
言われた時、マリアさんは、結婚をする準備をしていました。
もうすぐ結婚するっていうのに、赤ちゃんができたなんて言ったら、結婚がダメになってしまうかもしれない。
神様の子だって言ったって、誰が信じてくれるでしょう。
それでマリアさん、誰にも言えずに、苦しんでいたんですが、
でも、一人だけ、「神の子だ」って言って、信じてくれそうな人がいたんです。
エリサベトさん、っていう人です。
エルサベトさんなら、わかってくれるかもしれない。
そう思って、マリアさんは、エリサベトさんに会いに行きました。
でも、100%信じてくれるとは限りませんでした。
エリサベトさんは別に、友達ではありません。
親戚だったって書いていますが、年も離れていたので、仲が良かったかどうかもわかりません。
唯一、エリサベトさんを頼ろうと思ったのは、エリサベトさんも、神様から赤ちゃんを与えられたって、天使が言っていたからでした。
この天使の言葉を信じて、それだけを頼りに、マリアさんは、エリサベトさんに会いに行ったんです。
もう心は不安でいっぱいだったと思います。
信じてくれなかったらどうしよう。
親戚中にバラされたらどうしよう。
心の中では、怖くて、震えていたと思います。
それでも、マリアさんは、エリサベトさんに会いに行きました。
すると、エリサベトさん、マリアさんを見て言いました。
「おめでとう。あなたは、世界で一番幸せな人です。
ほら、私のお腹の子も、喜びのあまり飛び跳ねていますよ。」
エリサベトさんは、マリアさんに起こったことを全部受け止めて、そして、喜んでくれました。
「あなたに起こったことは、とても、素晴らしいことだ。
喜んでいいんだよ。何にも心配いらない。神様があなたと共にいるから。」
その言葉を聞いて、マリアさんの不安はどこかに飛んでいきました。
かわりに、喜びが溢れてきて、マリアさんは、神様に感謝の歌を歌いました。
問題は、何も、解決していません。
まだ、赤ちゃんが産まれたわけでもないし、結婚がどうなるかもわからない。
マリアさんの人生は、まだまだ、お先真っ暗です。
でも、マリアさんは、もう怖くなかった。
エリサベトさんがいる。神様がついてる。もうひとりじゃない。
そのことが、マリアさんを支えていました。
マリアさんと同じように、私たちにも、神様がついています。
不安な時も、苦しい時も、私たちは決してひとりじゃありません。
だから、不安な時、ひとりで辛いと思う時、今日のお話を思い出してください。
マリアさんがひとりじゃなかったように、私たちも決してひとりじゃありません。
「私たちは決してひとりじゃない」この言葉をしっかり心に留めて、歩んでいきましょう。
お祈りします。
・賛美へと導いたのは?
アドベントも早いもので3週目に入りました。
今年のアドベントは、ルカによる福音書を読みながら、クリスマス物語を辿っておりますけれども、
1週目は、洗礼者ヨハネの父ザカリアの物語を読みました。
2週目は、イエス・キリストの母マリアの物語を読みました。
それぞれの受胎告知の場面を読みながら思うのは、対照的な点が多いということです。
まず年齢が対照的です。
ザカリアは老人であり、マリアは乙女であったと記されています。
この年齢が、まず対照的です。
それから、天使の知らせの受け取り方も対照的です。
ザカリアは、天使の知らせを信じることができませんでしたが、
マリアは、戸惑いつつも、最終的には、「この身になりますように」といって、天使の言葉を受け入れていきました。
この点も、対照的に語られています。
さらにもう一つ、対照的なのは、その後の二人の様子です。
ザカリアは、天使によって、口を閉ざされますが、マリアは、今日の箇所の後に記されていますように、かの有名なマリアの賛歌を歌っています。
一方は口を閉ざされ、一方は心からの賛美を歌う。
とても対照的に見える二人ですが、しかし、今日の箇所を読んでみますと、マリアもすぐに賛美したわけではなかったことがわかります。
今日は、この点に注目したいと思います。
マリアは、賛美を歌う前に、エリサベトのところを訪ねるわけですが、
このエリサベトとの出会いが、マリアの賛美とどう関わっているのか。
そのことに注目しながら、今日の箇所を読んでいきたいと思います。
・エリサベトまでの道のり
天使の知らせを受けた後、マリアは、洗礼者ヨハネの母であるエリサベトのところへ向かいました。
39節には「急いで」向かった記されています。
それだけ強く、エリサベトに会いたいと思ったということです。
でも、急いだからと言って、エリサベトには、すぐに会えるわけではありませんでした。
聖書を読むと、すごく簡単に会ったような感じで書かれていますが、エリサベトの住むユダの町は、マリアのいるナザレの町から、100km以上も離れていました。
100kmといえば、ここから、日田まで行けるくらいの距離です。
その距離をマリアはひとり、歩いて行ったのです。
どれくらいの時間がかかったでしょうか。
人の歩く速度は、時速5キロ前後だそうですけれども、仮に時速5キロで100キロ歩いたとしたら、20時間かかることになります。
しかも、平坦な道ではありません。山道です。
もちろん、舗装もされていません。
そんな道のりを、マリアはひとり、歩いて行ったのです。
なぜそこまでして、エリサベトに会いに行ったのでしょうか。
そこには、エリサベトでなければならない理由がありました。
・誰にも言えない
この時マリアは、誰にも言えない重荷を背負っていました。
婚約中にもかかわらず、みごもったということです。
それは聖霊によるものだと天使は告げたわけですが、そんなこと、誰が信じてくれるでしょうか。
このことが公になったら婚約は破談、最悪、姦淫の罪で処刑される可能性もありました。
ですから、誰にでも打ち明けられることではなかったんです。
むしろ、公にならないように、隠さないといけない。
でも一方で、とてもじゃないけど、ひとりでは抱えきれない。
誰かに話さないではいられない。
この時マリアは、そういう状況にあったんだろうと思います。
そんな中でマリアは、迷うことなく、エリサベトのところへと向かいました。
普通、大切なことを相談する場合、誰に話すかということをよく吟味すると思います。
適切なアドバイスをしてくれる人は誰か。
口が硬いかどうか。
よく考えてから、相談すると思います。
でも、マリアには、考えた様子はありません。
すぐに、急いでエリサベトのところへ向かいました。
それは、エリサベトしかいなかったからです。
選んでいる余地はなかったのです。
子どもメッセージでも言いました通り、彼女は、マリアの友達ではありません。
親類だったと書いていますが、親しい交流があったかどうかもわかりません。
住む場所も離れていましたし、歳の差もありました。
仮に、親しい仲であったとしても、だから、エリサベトに会いに行ったわけではありません。
天使のお告げの中に、エリサベトの名前が出てきたからです。
「不妊の女」と言われた、あのエリサベトが、みごもっている。
それを聞いて、マリアは、「自分と同じように、神のみ業によってみごもった彼女なら、受け止めてくれるかもしれない。
もう彼女しかいない」。
そう思って、エリサベトのもとへ急いだのです。
でも、エリサベトが、受け止めてくれるなんて保証は、どこにもありません。
ことを公にされるリスクだって、なかったわけじゃありません。
それでも100キロの道のりを超えて、エリサベトに会いに行ったのは、やっぱりひとりじゃ抱えられなかったからだと思います。
聞いてほしいという想いと、言って大丈夫だろうかという気持ちと、マリアの中で激しい葛藤があったと思います。
その葛藤を抱えながら、100キロの道を歩いて行ったのです。
そして、ついにマリアは、エリサベトに会うわけですが、そこには思いがけない出会いが待っていました。
・エリサベトとの出会い
エリサベトは、マリアの挨拶を聞いただけで、全てを理解して言いました。
「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。
わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。
あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。
主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
その言葉を聞いて、どれだけマリアが安心したことか。
エリサベトは、マリアのことを受け止めるだけじゃなく、祝ってくれた。
幸いだと言ってくれた。
この時初めてマリアは、「喜んで良いんだ」って思ったと思います。
それまでは、重荷でしかなかった。
婚約中に身ごもるなんて、バレたらどうしよう。
婚約も破談だし、もしかしたら、死刑にされるかもしれない。
そもそも神の子を身ごもるなんて、大丈夫なんだろうか。
心も体も準備なんてできていない。
乙女マリアにとって、天使の知らせは、重荷でしかなかったと思います。
でも、そんなマリアが、心からの、喜びの賛美を歌うことができた。
それは、エリサベトとの出会いがあったからです。
彼女が、祝福を持って、マリアとお腹の子を、喜んでくれた。
そのことによって、マリアは、神の恵みに気づくことができ、喜びを持って、讃美の歌を歌うことができたのです。
・
一人で抱えていた時には重荷でしかなかったことが、誰かと分かち合えた時、喜びに変わる。賛美になる。
そんなことがあるんだということが、教えられています。
これは、すごいことだと思います。
マリアの重荷が、なくなったわけではありません。
子どもが産まれたわけでもありませんし、結婚がどうなるかもわかりません。
でも、マリアはもう怯えていません。
それは彼女がひとりじゃないと知ったからです。
共に重荷を負ってくれるエリサベトがいる。
何より神様が共にいる。
エリサベトとの出会いを通して、マリアは、そのことを確信していきました。
「もうひとりじゃない」。
この確信が、マリアを賛美へと導いて行ったのです。
この話を思う時に、わたしは、ある高校生のことを思い出しました。
彼女とは、今年の10月、ある研修会で出会いました。
彼女は現在18歳、高校3年生です。
どこに国からやってきたのかはわかりませんが、ひとりで外を歩けないほど危険な国で、逃げるようにして9歳の時に、日本にやってきたそうです。
出国することも容易ではなく、家族以外、誰にも言えずに、この日本にやってきたそうです。
でも、在留資格は与えられず、今も、仮放免中です。
彼女が、仮放免という言葉を知ったのは、中学生の頃だったそうです。
仮放免は、在留許可ではありませんので、ご両親は、仕事もできませんし、保険もありません。
そのため、家賃も払えず、病院にも行けません。
もちろん友達と遊ぶお金もありませんし、制服も買うことができません。
そんな中で、彼女が高校生になるというのは、途方も無いことだったのだと思います。
言葉もわからないところから、彼女は本当に努力して、高校まで進学しましたが、どんなに頑張っても、強制送還されたら、無駄になってしまう。
希望を失う時もあったそうです。
この現実を、友達や学校の先生に話したこともあったそうですが、思うように伝わらず、かえって傷ついたこともあったようで、誰にも言えずに、抱えてきたそうです。
仲の良い友達であればあるほど、話せない。
話したら関係が悪くなってしまうと思って、怖くて話すことができない。
だけど、自分のような人がいるということを知ってほしいということで、支援者を通じて、研修会で、ご自身のことを話してくださいました。
彼女が繰り返し言っていたのは、仮放免ということを知ってほしいということでした。
自業自得なんて、冷たいことを言わずに、その実態を知ってほしい。
なぜ、仮放免にならなければならなかったのか。
どうして、在留資格もなく、この日本に生きているのか。
そのことを知ってほしいということおっしゃっていました。
彼女もまた、マリアのように、喜びへと導かれる日が来るんでしょうか。
讃美の歌を歌える日が来るんでしょうか。
皆さんの中にも、誰かに聞いてほしいけど誰にも言えず、ひとりで重荷を背負っている方がいるかもしれません。
マリアにはエリサベトがいたけど、わたしにはいないと、そう思っておられる方がいらっしゃるかもしれません。
そんなお一人お一人に今日、神様は、あなたは決してひとりじゃないというメッセージを伝えておられます。
このメッセージが伝わるために、私たちは、今度はあなたが、エリサベトになるようにと、招かれているのかもしれません。
話せる人、受け止めてくれる人、寄り添ってくれる人を、探し求めている人がいます。
そのことを心に留めて、私たちも、誰かのエリサベトになっていきたいと思います。
一人で抱えていた時には重荷でしかなかったことが、誰かと分かち合えた時、喜びに変わる。賛美になる。
そんなすごいことがあるんだと、聖書は教えています。
その喜びを信じて、私たちも、ひとりじゃないということを、伝えていくものになっていきましょう。
お祈りします。







