2025年11月16日世界祈祷礼拝「イエスはまことのぶどうの木」(西脇慎一牧師)

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ヨハネによる福音書15章1節〜10節。

15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。

15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あ なたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れ ては、あなたがたは何もできないからである。

15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。

15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。

15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

「イエスはまことのぶどうの木」と題して、西脇慎一牧師に、メッセージをしていただきます。

〇子どもメッセージ

みなさん、おはようございます。西南学院バプテスト教会の西脇と言います。私は村田悦先生が牧師になるためのお勉強を一緒にしたお友達です。実は神学生の時2010年にはこの大分教会の神学校週間の礼拝に呼んでいただいたことがあります。15年前の事です。今日は久しぶりに、あるいは初めてお会いする方も多いと思います。どうぞよろしくお願いします。

それでは子どもメッセージに入ります。もう一度聖書箇所を読みます。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」イエス・キリストはわたしはぶどうの木であり、あなたがたは枝であると言われます。この言葉の意味を少し考えてみましょう。

その前に質問があります。皆さんはぶどうは好きですか?ぶどうを育てたことはあるでしょうか?実はわっきー先生は、3年前からぶどうの木を育てています。教会の入り口の大きい目のプランターで育てています。こんな木です。実は今年初めて実を結びました。こどもたちや幼稚園のお友だちとおいしくいただきました。

ところで、皆さんはぶどうと言っても色々な種類があることを知っているでしょうか?それでは、ぶどうの品種あてクイズをしたいと思います。みなさん、張り切って答えてください。

巨峰  、 シャイン・マスカット 、 ピオーネ 、 デラウェア 、 クイーンニーナ

生食用とワイン用 赤ワイン カベルネ・ソーヴィニヨン      白ワイン シャルドネ

みなさん、美味しいぶどう、おいしいワインを作る秘訣はご存知でしょうか。それは一粒一粒の身に味わいを凝縮させるために枝を落とすことだそうです。たくさんぶどうの房ができると、甘みが少なくなってしまうので、枝を落として、少ないぶどうの房でおいしい実を育てるそうです。言ってみれば、そういう少数精鋭のエリートで作ったぶどうがおいしいワインになるわけです。でも、そのために切り落とされてしまう枝や実はどうなってしまうのでしょうか。なにか可哀そうだなと思いませんか。

なんでイエスさまは、自らをぶどうの木に譬えられたのでしょうか。この譬えで考えると、少ない人数の良い信仰者を育てるために、罪を犯して信仰から脱落する人を諦めると言うことなのでしょうか。選ばれた人はいいけど、そうではない人はダメだと言うことなのでしょうか。でもそれって、イエスさまが言っている福音とちょっと違うように思います。イエスさまは、罪びとの友達になりましたし、律法を守れるエリートのファリサイ派と戦われました。じゃあなんでイエスさまは「わたしはぶどうの木」と言われたのでしょうか。その意味を考えてみました。

例えば、みなさんは神さまの木と言ったら、どういう樹を想像するでしょうか。日本ではよくご神木と言われることがありますが、想像するのは、樹齢何千年、巨大な幹をした樹を想像することが多いのではないでしょうか。確かにそういう樹を見ると、何か偉大な生命力みたいなものを感じます。

それに比べてぶどうの木は、ひょろひょろとしています。ぶどうがたわわに実ったときはそれでも見栄えがあります。しかし冬を迎え葉が落ちると、こんなに寒々しい姿になってしまうのです。もはや生きているのか枯れてしまっているのかわからないくらいです。それにぶどうの木は自分で立つことが出来ません。長くなると支えが必要になって、つるが伸びて何かにつかまろうとします。そういう風にしないと、すぐに折れ曲がってしまうのです。

でも、こういう姿を見て思うのです。ぶどうの木というものは、自らが太り大きくなるためではなく、自分がしっかりするわけでもなく、その全生命力をぶどうの枝が実を結ぶように注いでいるのではないかということです。

こんな細い曲がったぶどうの実も、実はとても甘くておいしかったのです。

イエスは自らのことを「まことのぶどうの木」と言います。普通のぶどうの木は、ぶどうの実をよいものにするために枝を切ることを必要とします。でもイエス・キリストのまことのぶどうの木は、すべての枝が選定される必要もなく、豊かな実を実らせることなのではないかと思います。つまり、すべての人がそのいのちを豊かに生きることができるように、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことでも感謝できるように、そのいのちのすべてを注いでくださっている神さまだということです。

イエスさまは、今日の聖書個所で何を言おうとしていたのか。それはイエスさまがぶどうの木のように私たち一人一人に繋がり、私たちが大きく成長するようにたくさんの愛や栄養を与えてくださっています。神さまは私たちのことをずっと見守ってくださることをどうぞ覚えていただきたいと思います。

それではお祈りします。

〇説教「 イエスはまことのぶどうの木 」

改めましておはようございます。本日は、世界バプテスト祈禱週間礼拝ということで、お招きをありがとうございます。おそらく私が説教者として招かれた理由の一つは、私が現在日本バプテスト連盟の国外伝道タスクチーム、つまりこれからの国外伝道の在り方を検討する委員会の委員長をさせていただいていることだと思います。そして皆さんは、国外伝道の現場で起こっている出来事の話を期待しておられるかもしれません。あらかじめ申し上げますが、今日わたしはそのご期待に沿うお話はできないことをお詫び申し上げます。実は今、連盟の国外伝道は大きく変わろうとしています。それは、これまでのように宣教師を国外に送ることを中心とするのではなく、わたしたち一人一人が一つの世界に派遣されているキリストの弟子として、違いを持った人々と共に生きていく国際宣教という形に変わろうとしているからです。

国際宣教はその射程を、国外を問わず国内の事柄も含んでいます。簡単に言えば、これまでは外国に出かけていかなければ会えなかった人々が、今や国内においてしかも隣人として生きている時代に代わってきています。そうした中、私たちは国境によって国内外の線を引くのではなく、神が造られたこの一つの世界の中でキリストの福音に共に生かされていく宣教活動を行っていくのです。これは、これまでは国際的な働きに特徴を持つ教会が独自に行っていたものでした。例えばこの近くで言えば、別府国際キリスト教会が典型的な例です。しかし今やどこの教会でも、都会だけではなく地方においても与えられている出会いになっています。これは私たち教会の福音宣教の対象がすでに変わっているということ、今までと同じではない、これまでと同じことだけではやっていけない状況になってきているという前提を見つめなければいけません。

そのためにわたしたち教会が変化することが求められます。しかしわたしたちはどうしても違いを持った人々と共に生きていくことに臆病になってしまったり、これまでの在り方が変えられてしまうことに違和感を覚えたりすることがあります。特に今、世の中では排外主義の声が大きくなっています。〇〇ファーストという言葉が公然と叫ばれ、人種・国籍・言語・性別・肌の色によって線引きが起きています。しかし私たちはキリストを信じる者たちです。私たちは神の国の福音に生かされています。それは、民族主義ではなく、信仰による共同体です。ですから、今私たちは神の言葉を聞き、神の私たちへの招きを共に考えたいのです。

本日お選びした聖書個所は、実は世界バプテスト祈禱週間にはあまり読まれない聖書箇所だと思います。世界祈祷の日に選ばれやすい聖書箇所と言えば、例えばマタイ28章の大宣教命令をはじめとする世界に出て行くことを促す言葉。あるいは使徒パウロが宣教旅行に出かけて、教会を作ったように、私たちもまた外に出ている働き人のために祈る言葉が選ばれることが多いのではないかと思います。しかし今日、わたしが皆さまに世界バプテスト祈禱週間の礼拝で、共に分かち合いたいみ言葉は、やはりこの箇所なのです。そして、私がお話ししたい内容も、結論としては、先ほど子どもメッセージでお話しした通りです。

イエス・キリストは、まことのぶどうの木として、わたしたちに無条件の愛と恵みを与えてくださいます。私たちはその恵みに栄養と信仰をいただき、感謝してそれぞれの実を結ぼうとしているわけです。それが神がわたしたちを含め、すべての人々に願っていることだと信じています。ところが、そうしたわたしたちは時々、その神の御心を受け入れることができない時があります。わたしたちは、同じ枝としてイエス・キリストに繋がっているにもかかわらず、私たちだけ実を結べればいいやと思うこともありますし、他の枝は自分とは関係ないと思ってしまうことがあります。あるいは実の結ばない枝があるならそれを切り落としてしまいたい、と思ってしまうことはないでしょうか。時々、こういう思いは私たちの正義感から芽生えてくることがあります。イエスさまに結ばれているなら、こうあるべきだとか、こうでなければならないという思いです。あるいは他の人にももっとこうしてほしいとか、そういう思いが純粋な善意から出てくることがあります。

「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」とか「外に投げ捨てられる」とか「火に投げ入れられて焼かれてしまう」という言葉。植物を育てる時には当然行われることではあります。しかし、私は幼い時からこういう裁きの言葉に恐れを抱いていました。神さまを信じなかったら本当に捨てられてしまうのかなとか思ったわけです。何故聖書は神さまの言葉なのにこういう恐ろしいことが書かれているのだろうと思いました。これはまるで、イエスが神に繋がっている信徒たちを「実を結ぶか否か」で区別し、信仰の優劣で救うか救わないかを決めようとしているかのように思えたからです。それでは、私はどちらに分類されるのか。では実を結ぶためにはどのようにしたらよいのだろうかということを心配していたのです。果たして神は、私たちには品行方正に生き、立派な信仰の実を結ぶを望んでいるのでしょうか。

しかし、もしそうだとするならば、イエスの教えもまた、ファリサイ派の人々が語っていた律法という神の教えを守ることによって救われるという内容と変わりのないものになってしまうのではないかと思うのです。正しく生きるということを求められるのであれば、それは一つの基準に基づいたものとなり、その基準に当てはまらない人々はやはり罪びとということになってしまいます。しかしイエスの福音は、そうではありません。世の中心にいる正しい人のためにではなく、世の中で最も小さくされた罪びとを一方的に愛し、神の伴いと救いを宣言するものが、イエスの福音であるからです。

そんなイエスの愛は、先ほどお話ししたように、選ばれたごく少数の信仰者、エリートだけを養成し、それ以外の人を切り捨てようとする方ではなく、まことのぶどうの木として、この世界のすべての人にそのいのちを削ってまで恵みを与えてくださることを信じています。私たちはそんなイエスだからこそ、主と告白し、その福音に生かされているのです。

ルカによる福音書13章には、「実のならないいちじくの木」という譬え話があります。ある主人が3年間実を結ばなかったいちじくの木を切り倒せと僕に命じるお話です。ところが僕は食い下がり、今年もう一年待ってほしいと言います。その一年の間にわたしがこの木に特別に手を加えて、実を結ぶようにしますから、是非待ってください。それでもだめなら切り倒してください。」と語るのです。イエスの愛は、この僕の姿です。もうすでに裁きの対象、滅びの対象になっている私たちに心を配り、私たちが立ち返って歩むことを願っているのです。だめなら切り倒してくださいという言葉が若干引っかかるわけですが、しかしこれはイエスが一年間一生懸命私たちに愛を注いでくださるのだから、私たちが心配しすぎる必要はなく、必ずや実を結ぶことが出来るのだから安心してイエスに結ばれていなさいというメッセージなのでしょう。

それでは、私たちが結ぶ実とは何でしょうか。今日の箇所で言うとしたら、それは「愛」です。私たちがキリストの愛に留まることによって、私たちは愛の行いをすることができるというからです。この愛を、私たちが置かれているところでしていくことが大切です。ノートルダム清心学園の理事長をされた渡辺和子さんは2016年に主のみ許に召されましたが、よくマザー・テレサのエピソードを話しておられました。あるとき、来日したマザー・テレサの「死を待つ人の家」の働きに感動した学生たちが奉仕団を結成してコルカタ(昔はカルカッタ)に行きたいと願い出た時、マザー・テレサは学生たちの思いに感謝しつつも、コルカタに行くことよりも、自分たちの身近にある「コルカタ」を見つけて、そこで尽力することが大切ですよ、という内容の言葉を告げました。「置かれたところで咲きなさい」。もちろん、インドのコルカタの働きは大切です。国外に出ていく働きも同様です。しかし、より大切なのは私たちがまさに置かれている場所でその働きを必要としている方に愛の業を行っていくことなのです。その際、私たちが最も問われることは、やはり私たちの隣人とは誰か、ということだと思います。

聖書の中でもっともよく親しまれている「善きサマリア人のたとえ」(ルカ10章)は、まさに国際宣教の働きだと言えます。この話の中で最もミステリーに包まれているのは、この旅をしていた人が誰であったかということです。実は私たちにとって神の愛を行っていく際に、一番大切なことは、その人が誰であるかという関係性です。しかし、聖書個所には、その旅をしていた人は、「ある人」と書かれています。ギリシャ語の聖書を読んでみると「アンテローポス」と書かれており、いわゆる単数形の「人間」を意味する言葉です。便宜上男性形の言葉ですが、基本的には民族も性別も年齢も宗教も住所も明確ではなく、素性がはっきりしない人物、つまり誰とも関係ない人ということです。そんな「ある人」が追いはぎに襲われます。ひどい話だと思います。でもつまりそのような暴行を行うことができるのは、まさにその人が誰であるかがわからないから、自分とは関係ない人だからこそ、そのようなことが行えたのだろうと思うのです。その人は殴りつけられ半殺しの目に遭いました。

そこに祭司とレビ人がやってきます。彼らは、共に神に仕える人ですので、当然その人を助けることが期待されていました。ところが彼らはその人を見たにも関わらず、道の反対側を通っていってしまいました。私はおそらく、その倒れていた彼が「ユダヤ人」であったなら、祭司もレビ人も助けたのではないかと考えています。でも、自分とは関係のない人だからこそ、私たちは非情になれるのです。そんな中現れたのは、サマリア人でした。彼はこのたとえ話の中で最も関係のない人物です。しかし、彼がその人を助けることになりました。彼の動機となったのは、その人を憐れに思った、つまり他人事だと思えなかったからです。自分の出来事として受け止めたとき、もはやそれが誰であるかは関係なく、その人を助けることが出来るようになるのです。

もちろん、このサマリア人にも関わらないでいられる理由はいくつもあったことでしょう。旅の途中でしたから、早く行きたい気持ちもあったのでしょう。旅の途中だから適切なケアができない。責任を持てないということもあったと思います。費用のこともそうです。でも、それは自分事として考えたとき、もはや助けない理由にならないのです。

でも、一つ注意したいことがあります。実はこの善きサマリア人も、一人だけでその人を助けたわけではないと言うことです。このサマリア人は、倒れている人を解放し、宿屋に連れて行って金を払いました。しかし彼はその後、旅を続けてしまうのです。その後のけが人を介抱したのは、実に宿屋の主人なのです。私たちはこの善きサマリア人のストーリーは、けが人がその後回復して言って元気になるハッピーエンドがあることを予想していますが、実はこの宿屋の主人がいなければ、この話は成り立たないのです。

私、宿屋の主人の気持ちになって考えてみました。恐らくこのサマリア人がこの人を連れてきた時、びっくりしたことでしょう。「どうしたんですか?この人、大変な状況じゃないですか。え、あなたの知り合いじゃないんですか?じゃあこの人はどなたですか?わからない?それならこの人を今後、どうするおつもりですか?え、あなたこれからこの人を置いて旅に出かけてしまうのですか?ほんとですか?じゃあこの人を誰が見るのですか?え、私ですか?いやいやそんなわけにはいかないでしょう。いやいやお金だけ置いて行かれても困ります。ここで治療するというなら、あなたがしっかり責任もってここにいてくださいよ。」そんな思いが湧いて出てきたのではないかと思います。けが人がいたとして、万が一のことを考えたら、簡単に引き受けることなんてできません。家族や保護者に連絡できなければ責任を持って引き受けることはできないという声が今ならば出ることでしょう。

でもこのサマリア人は旅立ってしまいました。宿屋の主人はどう思ったでしょうか。私はこの宿屋の主人はサマリア人がいなくなった後も彼のことを介抱し続けたのだと思います。それは何故か、それはそのサマリア人の思いに彼が心動かされることがあったからだと思います。もちろん、それは聖書には書かれていません。でも、相手に出会ってしまった以上関わらないではいられないというサマリア人の愛に彼は動かされたのではないかと思うのです。もちろんサマリア人の関わり方と宿屋の主人の関わり方は違います。サマリア人は自分の財布から相手のために費用を支払いました。これは無条件の愛です。でも主人はお金を受け取って世話しているので、言い換えればビジネスの中で、つまり自分に無理なく、できることの中で彼に関わっていったということです。もし仮に主人がサマリア人と同じように、道で半殺しになっていたその人を助けることができたかと問われるならば、決してそうではなかったでしょう。でも、彼は世話することならできたのです。そして彼は宿屋としてその町に住まう者としてその人を助けるための色々なネットワークを持っていたでしょう。逆にサマリア人は旅人でしたから、そのような連帯は作れなかったはずです。ここには働きの違いというか、役割分担と言うか適材適所というか自分にできるタイミングで関わっていくということがあると思うのです。ですから私はこの連携というか、チームワーク、チームとしてできることをできる人がしていく、無理なく関わっていく。これが一つの「善きサマリア人」の働きと言えるのではないかと思うのです。

私たちが「隣人になること」を躊躇するのは、サマリア人が一人ですべてを行ったと思うから、ハードルが高く、私にはできないとなってしまうのです。でも恐らくそうではないのです。大切なことは、一人の人に与えられた出会いを周りの人で繋いでいくことです。それこそ、イエスが「誰がその人の隣人になったと思うか」と問うた時に、律法学者が答えた「その人を助けた人です。」の本当の意味、これは善きサマリア人の個人を指すのではなく、彼を助けるためにかかわったすべての人を意味しているのではないでしょうか。だからイエスもまた「サマリア人のようになりなさい」ではなく、「行って、あなたも同じようにしなさい」という結論に繋がっていったのだと思うのです。

この譬え話はやはりすごいと思います。それはやはり私たちにそれぞれのかたちで「隣人になっていくように」招いていると思うからです。いわば、私たちにチーム「善きサマリア人」になりなさいと招いておられるのです。私はそれがまさに教会の姿なのではないかと思いますし、わたしたちが為していく福音宣教の働きなのではないかと思うのです。

私たちが結ぶ実とは、誇れるような大きな愛ではなく、吹けば飛ぶような小さな愛かもしれません。それもなかなかできないと思うこともあるでしょう。しかし、イエスは私たちぶどうの枝に常に愛を注ぎ、実を結ぶことを願っておられるのです。世界祈禱の働き人のために祈ると共に、大分教会の皆さまの上に、また教会のお働きの上に主の恵みと守りと聖霊の導きがありますようにお祈りいたします。

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