聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書9章51節~56節。
9:51 イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。
9:52 そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。
9:53 しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。
9:54 弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。
9:55 イエスは振り向いて二人を戒められた。
9:56 そして、一行は別の村に行った。
「天を目指して」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
・子どもメッセージ
今日は、一冊の絵本を読みたいと思います。
1、「ぐるんぱのようちえん」っていう絵本です。
2、ぐるんぱは、とっても大きなぞう。ずっとひとりぼっちで暮らしてきたので、すごく汚くて、くさーい匂いもします。
一人ぼっちのぐるんぱは、ときどき、「さみしいな、さみしいな」といって、耳を草にこすりつけたりしました。
すると、おおきな涙が、ぐるんぱの鼻を、つーっと流れて落ちました。
3、ジャングルでは、ぐるんぱをかこんで、今会議の真っ最中。ぐるんぱが臭いので、みんな鼻を、空に向けています。
年寄りぞうが言いました。「ぐるんぱは大きくなったのに、いつもぶらぶらしている。」
わかいぞうも言いました。「それに、ときどき、めそめそ泣くよ。」
「では、はたらきにだそう。」「さんせーい。」
4、みんなは、ぐるんぱを、わっしょいわっしょい、川へ連れていきました。
そして、たわしでごしごし、ぐるんぱをあらって、鼻のシャワーで水をいっぱいかけました。
5、ぐるんぱは、見違えるほど立派になり、にっこり笑って出発していきました。
6、一番初めに、ぐるんぱがいったのは、ビスケット屋のビーさんところ。
ぐるんぱは、特別張り切って、大きな大きなビスケットを作りました。
でも、あんまり大きいので、だーれも買いません。
ビーさんは、「もう、けっこう」と言いました。
ぐるんぱは、しょんぼり。特大ビスケットをもって、出ていきました。
7、次に行ったのは、お皿作りのさーさんところ。
ぐるんぱは特別張り切って、大きな大きなお皿を作りました。
でも、こんなお皿に入れるほど、たくさんのミルクはありません。
さーさんは、「もう、けっこう」と言いました。
ぐるんぱは、しょんぼり。お皿をかかえて、出ていきました。
8、次に行ったのは、くつやのくーさんところ。
ぐるんぱは特別張り切って、大きな大きなくつを作りました。
でも、こんな大きな靴、だーれもはけません。
くーさんは、「もう、けっこう」と言いました。
ぐるんぱは、しょんぼり。靴を抱えて、出ていきました。
9、次に行ったのは、ピアノ工場の、ぴーさんところ。
ぐるんぱは特別張り切って、大きな大きなピアノを作りました。
でも、こんな大きなピアノ、だーれもひけません。
ぴーさんは、「もう、けっこう」と言いました。
ぐるんぱは、しょんぼり。ピアノを抱えて、出ていきました。
10、最後に、ぐるんぱが行ったのは、自動車工場のじーさんところ。
ぐるんぱは、ここでも張り切って、大きな大きなスポーツカーを作りました。
ところが、こんな大きなスポーツカー、乗ってみたお客さんが、「前が見えなくて、運転できないよー」と叫びました。
じーさんは、「もう、けっこう」と言いました。
11、ぐるんぱは、しょんぼり、しょんぼり、しょんぼり。
本当にがっかりして、ビスケットと、お皿と、くつと、ピアノを、スポーツカーにのせて、出ていきました。
また、昔のように、涙が出そうになりました。
12、しばらく行くと、12人もこどもがいるお母さんが、「ああ、忙しい、忙しい。シャツが12枚に、パンツが12枚、エプロンも12枚なら、靴下ときたら24!忙しい、忙しい。」と言いながら、洗濯をしていました。
そして、ぐるんぱをみると、「ちょっとすいませんがね、子どもと遊んでやってくださいな。」と頼みました。
13、ぐるんぱは、ピアノを弾いて、歌いました。
みーんな、ほっぺがまっかだぞう。
おてては、どろんこ、まっくろだぞう。
僕は大きなぞうだぞう。
子どもたちは、大喜び。歌を聴いて、あっちからも、こっちからも、子どもが集まってきます。
ぐるんぱみたいにひとりぼっちの子どもも、たくさんきました。
ぐるんぱは、びすけっとをちぎって、子どもたちにあげました。
14、ぐるんぱは、幼稚園をひらきました。
靴でかくれんぼができました。お皿に水を入れて、プールができました。
ぐるんぱはもう寂しくありません。ビスケット、まだたくさん残っていますね。
どこへ行っても「もう、けっこう」。
そう言われて、追い出されてきたぐるんぱが、子どもたちの居場所になったっていうお話でしたが、
実は、ぐるんぱと同じように、イエス様も、行くところ行くところで、出ていってくれって言われていました。
病気を治しても、出ていってくれって言われたし、
故郷であるナザレの人たちからも、出ていってくれって言われました。
今日の箇所でも、受け入れられなかったって、書いています。
でも、ぐるんぱと同じように、イエス様も、たくさんの人たちを受け入れる居場所になっていきました。
ぐるんぱとイエス様の共通点は何か。
それは、受け入れられないことの寂しさや、辛さを知っていたということです。
きっとそれが、たくさんの人を受け入れる、優しさに、繋がっていったんじゃないでしょうか。
拒まれることが、どれだけ寂しいことか。どんなに辛いことか。
知っている人は、優しくなれる。
たくさんの人を、受け入れる人になれる。
寂しさや辛さは、人を迎え入れる優しさに変えていけるんだということを、今日は、覚えておきたいと思います。
お祈りします。
・エルサレムを目指して→私たちはどこを目指すのか
6月が終わり、7月に入りました。
また、新しく、歩み出していきたいと思いますが、実は、聖書の場面も、今日から新たな場面に入っていきます。
ルカによる福音書を続けて読んでいますが、これまで読んできた箇所は、いわばイエス様の歩みの第1章。
ガリラヤにおける活動の様子でした。
イエス様は、郷里ナザレのあるガリラヤ地方で宣教を開始され、ガリラヤ地方を中心に活動してこられましたが、いつかは、エルサレムに行かなければならないと思っていました。
それは、神様から与えられた使命を果たすため。
すなわち、十字架を背負うためでした。
いよいよその時が迫っている。
そのような時の迫りを感じながら、イエス様は、ガリラヤを離れ、エルサレムに向かって歩み出されるのです。
今日の箇所は、その第一歩です。
・サマリア
ガリラヤ地方からエルサレムに行く場合、最もよく通るのが、サマリア地方でした。
イエス様一行も、まず、サマリア人の村に入ろうとしました。
しかし、村人は、イエス様を歓迎しませんでした。
それは、イエス様が、「エルサレムを目指して進んでおられたからである」と、記されています。
なぜ、「エルサレムを目指して進んでいたら」歓迎されないのでしょうか。
そこには、長い歴史の中で、サマリア人が負ってきた傷がありました。
サマリアは、もともと北イスラエル王国の首都で、そこに住む人々は、れっきとしたユダヤ人でした。
しかし、紀元前721年ごろ、アッシリアという国との戦いに敗れ、北イスラエルは、滅んでしまいます。
その後、サマリアには、異邦人たちが移り住み、サマリアのユダヤ人たちは、混血の民となっていきました。
純血をよしとするユダヤ人たちは、彼らとの交わりを拒みました。
エルサレム神殿を再建するときも、協力を申し出ましたが、拒まれてしまいました。
共に礼拝することができなくなったサマリア人たちは、独自に、ゲリジム山というところに神殿を築き、礼拝を献げていましたが、紀元前129年、汚れた神殿とみなされ、ユダヤ人たちによって破壊されてしまいました。
それ以来、サマリア人は、ユダヤ人に対して、憎悪の念を抱くようになったのです。
イエス様を拒んだ背景には、そのような傷が、あったのです。
先ほどは、拒まれた寂しさや辛さが、人を優しくすると言いました。
でも、拒まれたことの寂しさや辛さが、怒りとなって、あらわれることもあるのです。
・
これは、弟子のヤコブとヨハネの反応にも、あらわれています。
サマリアの人々の拒絶に対して、弟子のヤコブとヨハネは、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」と言いました。
とても恐ろしい言葉です。
そもそも弟子たちに、そんな力があるのかと思ってしまいますが、弟子たちが、サマリア人の拒絶に対して、怒りをもって応えようとしている様子が、伝わってきます。
拒まれた者が拒み、さらに拒まれた者が拒む。
拒絶の連鎖が、起こっています。
この負の連鎖の中に、イエス様は来られ、この負の連鎖の中を生きられたのです。
・
その証拠に、イエス様は、行くところ行くところで、拒まれてきました。
故郷ナザレでも、悪霊を追い出したゲラサ人の地方でもそうでした。
病気を癒したのに、出ていってくれと言われました。
考えてみると、生まれた時からそうでした。
イエス様は、家畜小屋で生まれ、布に包まれ、飼い葉桶の中に寝かされました。
それは、宿屋に、泊まる場所がないと、拒まれたからでした。
さらに、この拒絶は、エルサレムで頂点を迎え、十字架に架けられることになっていきます。
こうしてみてみますと、イエス様は、拒まれてばかりの人生だったのだなと、感じます。
・
しかし、イエス様は、拒絶に対して、怒りを持って応える弟子たちを、戒めました。
ご自身は、拒まれながらも、誰かを拒むようなことは、ありませんでした。
むしろ、イエス様は、拒まれることの寂しさや辛さを、痛みを共感する力に、そして、他者を受け入れる優しさに、変えていきました。
寂しさや辛さ、人生で経験する痛みは、痛んでいる人に寄り添う力に、変えることができる。
隣人に寄り添う優しさに、変えることができる。
金八先生で有名な、海援隊の「贈る言葉」の中に、
「悲しみこらえて 微笑むよりも 涙かれるまで 泣くほうがいい
人は悲しみが 多いほど 人には優しく できるのだから」
という歌詞があります。
「人は悲しみが 多いほど 人には優しく できるのだから」
しかし、一方で、今日の聖書の箇所は、悲しみが、簡単に、怒りに変わっていくことを教えています。
悲しみや痛みは、簡単に怒りに変わる。
しかし、悲しみや痛みは、人を受け入れる優しさに、変えることもできる。
イエス様は、まさに、悲しみや痛みを、優しさに変えて生きられたお方だったのではないでしょうか。
そんなイエス様の生き様を、心に留めたいと思います。
悲しみや痛みが、怒りに変わり、対立や争いを巻き起こす。
その負の連鎖は、今も、世界中のあちこちで、続いています。
この負の連鎖を止めるために、悲しみや痛みが、怒りに変わることを、許してはなりません。
悲しみや痛みを、共感する力に、共に生きる優しさに、変えていきましょう。
イエス様は、そのような歩みへと、わたしたちを招いています。
イエス様が歩まれた道は、エルサレムへと続く道であり、十字架へと続く道でした。
しかし、同時にそれは、天に向かう道でもありました。
イエス様は、十字架を背負いながらも、天に向かって歩んでおられたのです。
そのことが、イエス様の歩みを、支えていたのだと思います。
私たちも、そのようなイエス様の歩みに、連なるものとなっていきたいと思います。
悲しみや痛みを、怒りに変えるのではなく、痛みを共感する力に、他者を受け入れる優しさに、変えていきましょう。
そのような歩みが、神様に向かう道であることを信じて、歩んでいきましょう。
お祈りします。
主なる神様
私たちの歩みを、支えてください。
悲しみや痛みを、容易に怒りに変えることがありませんように。
悲しみや痛みを、共感する力に、他者を受け入れる優しさに、変えていくことができますように、支えてください。
私たちの生きるこの世界では、悲しみが怒りに、憎しみに、そして暴力に、変わっています。
そして、止むことなく、その負の連鎖が続いています。
どうか、この連鎖が止まりますように。
そのためにも、悲しみや痛みを、怒りに変えるのではなく、共感する力に、他者を受け入れる優しさに、変えていくことができますように、どうぞ、導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン