聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、マルコによる福音書14章3節~9節。
14:3 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持っ て来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
14:4 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。
14:5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。
14:6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
14:8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。
14:9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
「できるかぎりのこと」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日も、最初に、子どもたちと一緒に、聖書から、メッセージを聞いていきたいと思いますが、
1、今日は漫画で、さっき読んでもらった聖書のお話を読みなおしながら、与えられている箇所について、考えてみたいと思います。
お話のタイトルは、「ナルドの香油」です。
2、イエス様が、人々と共に、食事をしていた時のことです。
「ガチャン!」台所で、何かが割れる音がしました。
3、それは、香油の入った壺を、割る音でした。
4、「うーん、こりゃ最高級のナルドの香油だぞ。」
ナルドの香油とは、インド原産の植物で作った、とても香りの強い、アロマオイルです。
とても高価なもので、今のお金で換算すると、300万円ほどの価値があったそうです。
5、「ようこそ、イエス様!」そう言って、女の人は、このナルドの香油を・・・
6、「ツー」全部、イエス様の頭に、注ぎかけました。
7、さて、ここで問題です。その様子を見て、周りの人たちは、なんと言ったでしょう?
正解は・・・
8、「な、なにをするんだ!?」
9、「おい!よせ!売れば三百デナリ(300万円)になる香油だぞ!金にかえて貧しい人々に分けてやればいいのに!」
そう言って、彼女のことを叱りつけました。
さあ、皆さんは、この人々の言うことをどう思いますか?
この人たちの言う通り、女の人のしたことは、間違いだって思う人?
間違いじゃないって思う人?
人々が、こう言いたくなる気持ちもわかります。
売れば300万円になる。
300万円あれば、いろんなことができます。
美味しいものも食べられるし、良い家に住むこともできる。
もちろん、貧しい人たちに、分けてあげることもできるでしょう。
その香油を、この女の人は、一瞬で使い切ってしまった。
勿体無いって思う気持ちも、わかります。
でも、ここでイエス様は、言いました。
「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。この人はできるかぎりのことをしてくれたんだ。」
イエス様は、この女の人の気持ちに、心を向けていました。
イエス様のために、何かしたい。自分にできることは何だろうか。何ができるだろうか。
そうやって精一杯考えた末に、彼女は、高価な香油を献げたんです。
確かに、別の使い方もあったかもしれません。
もっと良い使い方もあったかもしれない。
でも、それが、彼女の精一杯の行為だったんです。
この精一杯を、イエス様は、喜んでくださる。
それが、今日の箇所のメッセージです。
結果とか、効果とかよりも、誰かのために、一生懸命になれる。
誰かのために、自分の大事なものを、使うことができる。
そのことが大事なんだって、イエス様は教えています。
イエス様のために、自分のできる限りを献げていった女の人の姿を心に留めて、
私たちも、誰かのために、一生懸命になれる人に、なっていきましょう。
お祈りします。
・神学校週間
先ほど、アピールさせていただきましたように、今日から、神学校週間です。
この神学校週間の礼拝では、毎年、献身をテーマにメッセージを聞いてきました。
今年も、献身ということをテーマに、聖書から聞いていきたいと思いますが、
そもそも、献身とは、なんでしょうか。
献身とは、身を献げると書きます。
神様に、自分を献げていくこと。
自分の持っている賜物を、神様のために献げていくこと。
それが、献身です。
牧師になったり、伝道者になることも、一つの献身の形ですが、それだけが、献身ではありません。
昨日、大分教会で、「神学校を覚える集い」を行いました。
臼杵教会、別府国際教会、大分教会、そして、宣教支援センターの田中主事とそのお連合いの恵さんも、参加してくださいました。
4教会から27名の参加者が与えられました。
例年は、神学生をお招きして、献身の証を聞いてきましたが、
今年は、神学生をお招きすることができませんでしたので、
それぞれの教会の参加者から、「私の献身」ということをテーマに、証をしていただきました。
証をしてくださった方々、それぞれが、それぞれの想い、それぞれの形で、精一杯神様に仕えておられる様子を、聞かせていただきました。
その後、グループに分かれて、交わりの時を持ちましたが、その交わりの中でも、思い思いの献身の姿を、分かち合うことができました。
ある方は、礼拝や教会の集会に出席すること、それが私の献身ですと、言われた方もいらっしゃいましたし、
ある方は、教会の掃除をすること、
また、ある方は、執事の働きを担っていて、それを一生懸命担うことが、今の私の献身だと思っているとおっしゃっていました。
伊東健次さんも、同じグループでしたけれども、伊東さんは、絵を描いて、み言葉を伝えるということを続けておられますが、これも、一つの献身の形であると思います。
その分かち合いを通して、改めて、献身の豊かさに、気付かされる時となりました。
・
そういう意味では、今日の箇所に登場します、女性もそうです。
今日の箇所には、イエス様のために、ナルドの香油を献げた女性の話が記されていますが、
彼女にとっては、それが、精一杯の献身の形だったのだと思います。
でも、そんな彼女の行為を、厳しい目で見つめる人たちがいました。
4節、「そこにいた何にかが、憤慨して互いに言った。」
「憤慨して」というのは、強い怒りを持ってということです。
強い怒りを持って、言った。
「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。
この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
そして、彼女を厳しくとがめたと、記されています。
なぜ、彼らは、こんなにも激しく怒ったんでしょうか。
香油は、彼女の持ち物です。
どう使おうが、彼女の勝手だと思いますが、彼らは、我慢できなかった。
なぜかというと、それは、彼らが、この香油の価値を知っていたからです。
「三百デナリオン以上に売って」と書いてあります。
一デナリオンが当時の労働者の1日分の給料だったと言われていますので、その300倍ですから、およそ1年分の給料ということになります。
1年間働いて、やっと手に入れることができる。
それぐらい高価な香油だったことを、彼らは知っていたわけです。
その香油を、一瞬で、あっという間に、使い切ってしまった。
なんで、そんな勿体無いことをするのか。
そう思うのも、なんとなくわかるように思います。
私も、以前、北海道のお土産で買ってきたイクラを、息子が、ドバッとご飯にかけて食べているのを見て、思わず「おい!」と言ってしまったことがあります。
私はもう、それはそれは大事に、一粒単位で食べていたのに、息子は、ドバッと、なんの躊躇いもなくご飯にかけるので、黙っていられなかったわけですが、
今日の箇所に出てくる人たちも、そんな気持ちだったんじゃないでしょうか。
さらに、もうひとつ加えて言いますと、彼らは、ナルドの香油の価値と共に、貧しさも知っていました。
貧しい人たちが、どれだけ苦しい生活を強いられているかも、知っていた。
この場面は、重い皮膚病の人シモンの家だったと言われていますが、おそらくは、このシモンも、その一人だったと思います。
重い皮膚病は、ヘブライ語で「ツァーラト」という言葉で、直訳すると、「打たれた者」となります。
罪を犯したがために、神によって打たれた者。汚れた者。そうみなされて、人々から避けられ、隔離されていたそうです。
そんなシモンの家に集まって、一緒に食事をする人々ですから、貧困や差別に対して、人一倍、強い思いを持っていたのだろうと思います。
この食卓は、単にお腹を満たすだけにあったのではない。
差別や偏見に対する戦いの場でもあったのだと思います。
そのような場所であり、そこに集う人々であったからこそ、女性のしたことに、黙っていられなかった。
給料1年分もする高価な香油を、いとも簡単に使い切ってしまった。
それは、人々の目に、「勿体無いこと」「無駄遣い」としか、見えなかったわけです。
・
でも、そんな人たちに対して、イエス様は、いうわけです。
14:6 「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」
イエス様は、彼女のしたことを、良いことと言いました。
この人は、できるかぎりのことをしたと、言いました。
周りの人たちから見れば、考えのない、勿体無い行為に見えたかもしれませんが、彼女にとっては、決してそうではなかった。
この香油がどれだけ高価なものかは、彼女が一番よくわかっていました。
どうやって手に入れたかはわかりませんが、きっと、苦労して手に入れたのでしょう。
売れば、それなりのお金になることも、知っていたでしょう。
その香油を、彼女は、イエス様のために使った。
それは、彼女にとって、最大限の、イエス様に対する愛情表現だったのだと思います。
イエス様は、その彼女の想いを、喜ばれたのです。
さらにイエス様は、8節9節で、こう言われています。
14:8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。
14:9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。
この言葉には、おそらく、香油を献げた女性自身、驚いたのではないでしょうか。
なぜなら、おそらく彼女は、そこまで考えていなかったと思われるからです。
確かに、当時、遺体を埋葬する時には、香油が用いられたそうですが、生前に、予め、香油を用いて処置しておくなどという習慣はありませんでした。
また、確かに、この翌日に、イエス様は十字架に架けられ、死んでいくわけですが、この女性が、そのことを予感していたというのも考えにくいことです。
イエス様は、死んで三日後に復活するということを、予め言っておられましたが、それは弟子たちにだけ言っておられたことで、更にその弟子たちは、そのことを本気にはしていませんでしたので、彼女が予感できたとは考えにくいように思います。
彼女は、単に、イエス様のために、精一杯尽くしたいと思って、香油を注ぎかけたのでしょう。
イエス様は、彼女の思いを超えて、その行為の意味と価値を見出されたのです。
それによって、名も無きこの女性の精一杯の行為は、記念すべきこととして、今日まで語り継がれるようになったのです。
もし、イエス様が何も言わなかったら、この女性のしたことを語り継ごうなどとは、誰も思わなかったでしょう。
仮に、語り継がれたとしても、無駄遣いをした女性として、不名誉な形であっただろうと思います。
それをイエス様は、大変名誉あることとして、語り継ぐことを、得させてくださった。
「無駄」と思われるようなことをも、イエス様は、大変価値あることとして用いて下さった。
これが、今日の箇所に示されている福音ではないでしょうか。
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大事なのは、自分のできる限りを、献げていくことです。
自分の持っているもの以上に、求められているわけではありません。
自分の持っているもの、自分にできることで、良いのです。
それを、イエス様が喜ばれることのために、献げていく。
その時に、その行為は、私たちの思いを超えて、価値あるものとして、用いられていく。
そのように、教えられているのです。
教会には、このように立派な建物や、広い駐車場があります。
それを、自分たちのためだけじゃなく、より広く、地域のため、困っている人のために、用いることができないかと、今、意見が出されています。
皆さんの中にも、眠っている賜物があるかもしれない。
何より勿体無いのは、使わずに、眠らせていることです。
周囲の人たちは、ナルドの香油の使い方を批判しましたが、どう使うかに思い悩み、いつまでも使えずにいることの方が、勿体無いことだと思います。
私たちは、往々にして、そのようなことになりやすいものです。
もっと有効に、使い方をよく吟味して、費用対効果を考えて、そう言って、思い悩んだ末に、結局、何にも使わない。
もちろん、ナルドの香油もそうですし、献金など、使うとなくなってしまうものに関しては、どう使うか、吟味することは大切なことです。
でも、そのナルドの壺は、いつ、誰のために割るのか。
イエス様は、そのことを問うているのだと思います。
私たちが、与えられている賜物、それを納めているこの器を、いつ、誰のために、割るでしょうか。
そして、その賜物を、誰のために、私たちは使っていくでしょうか。
そのことを改めて、今日、考えたいと思います。
同時に、私たちは、イエス様の姿にも学びたいと思います。
何をどう使うか、どう献げるか、とても大事なことですが、でも、それ以上に、精一杯を献げていく。
その姿を認め合いたい、喜びあいたいと思います。
どんなに、勇気を持って、ナルドの香油を献げていったとしても、
どんなに、精一杯、献身の思いを持って、自分を献げていったとしても、
こんなふうに、周りの人々がそれを認めず、叱りつけるようなことをしたら、もう2度と、献げたいとは思わないでしょう。
お前何やっているんだ、なんでこんな無駄遣いをするんだ、そんなふうに言われたら、もう2度と、献げたいとは思わないでしょう。
むしろ、献げることを躊躇する、怖くなるでしょう。
精一杯を神様のため、隣人のために献げていく、そのことを覚えると同時に、
私たちが、その精一杯の行為を、認め合い、喜び合うことを、覚えたいと思います。
今日の礼拝のためにも、さまざまな奉仕が献げられています。
奏楽、お花、受付、司式、週報、たとえ間違いや失敗があったとしても、それぞれの献身の思いを、大事に、喜び合える群れとなっていきましょう。
今日は、神学校週間礼拝ということで、献身について考えてきました。
私に与えられている賜物を精一杯用いていく。献げていく。
その思いを、イエス様は喜び、受け止めてくださる。
そのことを信じて、大胆に、自分らしく、献げていきましょう。
同時に、イエス様の眼差しをもって、互いの献身を認め合い、喜び合える群れとなっていきましょう。
お祈りします。