2023年6月25日礼拝メッセージ「できるかぎりのこと」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、マルコによる福音書14章3節~9節。

14:3 イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持っ て来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。

14:4 そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。

14:5 この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。

14:6 イエスは言われた。「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。

14:7 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。

14:8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。

14:9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」

「できるかぎりのこと」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

おはようございます。

今日も、最初に、子どもたちと一緒に、聖書から、メッセージを聞いていきたいと思いますが、

1、今日は漫画で、さっき読んでもらった聖書のお話を読みなおしながら、与えられている箇所について、考えてみたいと思います。

お話のタイトルは、「ナルドの香油」です。

2、イエス様が、人々と共に、食事をしていた時のことです。

「ガチャン!」台所で、何かが割れる音がしました。

3、それは、香油の入った壺を、割る音でした。

4、「うーん、こりゃ最高級のナルドの香油だぞ。」

ナルドの香油とは、インド原産の植物で作った、とても香りの強い、アロマオイルです。

とても高価なもので、今のお金で換算すると、300万円ほどの価値があったそうです。

5、「ようこそ、イエス様!」そう言って、女の人は、このナルドの香油を・・・

6、「ツー」全部、イエス様の頭に、注ぎかけました。

7、さて、ここで問題です。その様子を見て、周りの人たちは、なんと言ったでしょう?

正解は・・・

8、「な、なにをするんだ!?」

9、「おい!よせ!売れば三百デナリ(300万円)になる香油だぞ!金にかえて貧しい人々に分けてやればいいのに!」

そう言って、彼女のことを叱りつけました。

さあ、皆さんは、この人々の言うことをどう思いますか?

この人たちの言う通り、女の人のしたことは、間違いだって思う人?

間違いじゃないって思う人?

人々が、こう言いたくなる気持ちもわかります。

売れば300万円になる。

300万円あれば、いろんなことができます。

美味しいものも食べられるし、良い家に住むこともできる。

もちろん、貧しい人たちに、分けてあげることもできるでしょう。

その香油を、この女の人は、一瞬で使い切ってしまった。

勿体無いって思う気持ちも、わかります。

でも、ここでイエス様は、言いました。

「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。この人はできるかぎりのことをしてくれたんだ。」

イエス様は、この女の人の気持ちに、心を向けていました。

イエス様のために、何かしたい。自分にできることは何だろうか。何ができるだろうか。

そうやって精一杯考えた末に、彼女は、高価な香油を献げたんです。

確かに、別の使い方もあったかもしれません。

もっと良い使い方もあったかもしれない。

でも、それが、彼女の精一杯の行為だったんです。

この精一杯を、イエス様は、喜んでくださる。

それが、今日の箇所のメッセージです。

結果とか、効果とかよりも、誰かのために、一生懸命になれる。

誰かのために、自分の大事なものを、使うことができる。

そのことが大事なんだって、イエス様は教えています。

イエス様のために、自分のできる限りを献げていった女の人の姿を心に留めて、

私たちも、誰かのために、一生懸命になれる人に、なっていきましょう。

お祈りします。

・神学校週間

先ほど、アピールさせていただきましたように、今日から、神学校週間です。

この神学校週間の礼拝では、毎年、献身をテーマにメッセージを聞いてきました。

今年も、献身ということをテーマに、聖書から聞いていきたいと思いますが、

そもそも、献身とは、なんでしょうか。

献身とは、身を献げると書きます。

神様に、自分を献げていくこと。

自分の持っている賜物を、神様のために献げていくこと。

それが、献身です。

牧師になったり、伝道者になることも、一つの献身の形ですが、それだけが、献身ではありません。

昨日、大分教会で、「神学校を覚える集い」を行いました。

臼杵教会、別府国際教会、大分教会、そして、宣教支援センターの田中主事とそのお連合いの恵さんも、参加してくださいました。

4教会から27名の参加者が与えられました。

例年は、神学生をお招きして、献身の証を聞いてきましたが、

今年は、神学生をお招きすることができませんでしたので、

それぞれの教会の参加者から、「私の献身」ということをテーマに、証をしていただきました。

証をしてくださった方々、それぞれが、それぞれの想い、それぞれの形で、精一杯神様に仕えておられる様子を、聞かせていただきました。

その後、グループに分かれて、交わりの時を持ちましたが、その交わりの中でも、思い思いの献身の姿を、分かち合うことができました。

ある方は、礼拝や教会の集会に出席すること、それが私の献身ですと、言われた方もいらっしゃいましたし、

ある方は、教会の掃除をすること、

また、ある方は、執事の働きを担っていて、それを一生懸命担うことが、今の私の献身だと思っているとおっしゃっていました。

伊東健次さんも、同じグループでしたけれども、伊東さんは、絵を描いて、み言葉を伝えるということを続けておられますが、これも、一つの献身の形であると思います。

その分かち合いを通して、改めて、献身の豊かさに、気付かされる時となりました。

そういう意味では、今日の箇所に登場します、女性もそうです。

今日の箇所には、イエス様のために、ナルドの香油を献げた女性の話が記されていますが、

彼女にとっては、それが、精一杯の献身の形だったのだと思います。

でも、そんな彼女の行為を、厳しい目で見つめる人たちがいました。

4節、「そこにいた何にかが、憤慨して互いに言った。」

「憤慨して」というのは、強い怒りを持ってということです。

強い怒りを持って、言った。

「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。

この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」

そして、彼女を厳しくとがめたと、記されています。

なぜ、彼らは、こんなにも激しく怒ったんでしょうか。

香油は、彼女の持ち物です。

どう使おうが、彼女の勝手だと思いますが、彼らは、我慢できなかった。

なぜかというと、それは、彼らが、この香油の価値を知っていたからです。

「三百デナリオン以上に売って」と書いてあります。

一デナリオンが当時の労働者の1日分の給料だったと言われていますので、その300倍ですから、およそ1年分の給料ということになります。

1年間働いて、やっと手に入れることができる。

それぐらい高価な香油だったことを、彼らは知っていたわけです。

その香油を、一瞬で、あっという間に、使い切ってしまった。

なんで、そんな勿体無いことをするのか。

そう思うのも、なんとなくわかるように思います。

私も、以前、北海道のお土産で買ってきたイクラを、息子が、ドバッとご飯にかけて食べているのを見て、思わず「おい!」と言ってしまったことがあります。

私はもう、それはそれは大事に、一粒単位で食べていたのに、息子は、ドバッと、なんの躊躇いもなくご飯にかけるので、黙っていられなかったわけですが、

今日の箇所に出てくる人たちも、そんな気持ちだったんじゃないでしょうか。

さらに、もうひとつ加えて言いますと、彼らは、ナルドの香油の価値と共に、貧しさも知っていました。

貧しい人たちが、どれだけ苦しい生活を強いられているかも、知っていた。

この場面は、重い皮膚病の人シモンの家だったと言われていますが、おそらくは、このシモンも、その一人だったと思います。

重い皮膚病は、ヘブライ語で「ツァーラト」という言葉で、直訳すると、「打たれた者」となります。

罪を犯したがために、神によって打たれた者。汚れた者。そうみなされて、人々から避けられ、隔離されていたそうです。

そんなシモンの家に集まって、一緒に食事をする人々ですから、貧困や差別に対して、人一倍、強い思いを持っていたのだろうと思います。

この食卓は、単にお腹を満たすだけにあったのではない。

差別や偏見に対する戦いの場でもあったのだと思います。

そのような場所であり、そこに集う人々であったからこそ、女性のしたことに、黙っていられなかった。

給料1年分もする高価な香油を、いとも簡単に使い切ってしまった。

それは、人々の目に、「勿体無いこと」「無駄遣い」としか、見えなかったわけです。

でも、そんな人たちに対して、イエス様は、いうわけです。

14:6 「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」

イエス様は、彼女のしたことを、良いことと言いました。

この人は、できるかぎりのことをしたと、言いました。

周りの人たちから見れば、考えのない、勿体無い行為に見えたかもしれませんが、彼女にとっては、決してそうではなかった。

この香油がどれだけ高価なものかは、彼女が一番よくわかっていました。

どうやって手に入れたかはわかりませんが、きっと、苦労して手に入れたのでしょう。

売れば、それなりのお金になることも、知っていたでしょう。

その香油を、彼女は、イエス様のために使った。

それは、彼女にとって、最大限の、イエス様に対する愛情表現だったのだと思います。

イエス様は、その彼女の想いを、喜ばれたのです。

さらにイエス様は、8節9節で、こう言われています。

14:8 この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。

14:9 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。

この言葉には、おそらく、香油を献げた女性自身、驚いたのではないでしょうか。

なぜなら、おそらく彼女は、そこまで考えていなかったと思われるからです。

確かに、当時、遺体を埋葬する時には、香油が用いられたそうですが、生前に、予め、香油を用いて処置しておくなどという習慣はありませんでした。

また、確かに、この翌日に、イエス様は十字架に架けられ、死んでいくわけですが、この女性が、そのことを予感していたというのも考えにくいことです。

イエス様は、死んで三日後に復活するということを、予め言っておられましたが、それは弟子たちにだけ言っておられたことで、更にその弟子たちは、そのことを本気にはしていませんでしたので、彼女が予感できたとは考えにくいように思います。

彼女は、単に、イエス様のために、精一杯尽くしたいと思って、香油を注ぎかけたのでしょう。

イエス様は、彼女の思いを超えて、その行為の意味と価値を見出されたのです。

それによって、名も無きこの女性の精一杯の行為は、記念すべきこととして、今日まで語り継がれるようになったのです。

もし、イエス様が何も言わなかったら、この女性のしたことを語り継ごうなどとは、誰も思わなかったでしょう。

仮に、語り継がれたとしても、無駄遣いをした女性として、不名誉な形であっただろうと思います。

それをイエス様は、大変名誉あることとして、語り継ぐことを、得させてくださった。

「無駄」と思われるようなことをも、イエス様は、大変価値あることとして用いて下さった。

これが、今日の箇所に示されている福音ではないでしょうか。

大事なのは、自分のできる限りを、献げていくことです。

自分の持っているもの以上に、求められているわけではありません。

自分の持っているもの、自分にできることで、良いのです。

それを、イエス様が喜ばれることのために、献げていく。

その時に、その行為は、私たちの思いを超えて、価値あるものとして、用いられていく。

そのように、教えられているのです。

教会には、このように立派な建物や、広い駐車場があります。

それを、自分たちのためだけじゃなく、より広く、地域のため、困っている人のために、用いることができないかと、今、意見が出されています。

皆さんの中にも、眠っている賜物があるかもしれない。

何より勿体無いのは、使わずに、眠らせていることです。

周囲の人たちは、ナルドの香油の使い方を批判しましたが、どう使うかに思い悩み、いつまでも使えずにいることの方が、勿体無いことだと思います。

私たちは、往々にして、そのようなことになりやすいものです。

もっと有効に、使い方をよく吟味して、費用対効果を考えて、そう言って、思い悩んだ末に、結局、何にも使わない。

もちろん、ナルドの香油もそうですし、献金など、使うとなくなってしまうものに関しては、どう使うか、吟味することは大切なことです。

でも、そのナルドの壺は、いつ、誰のために割るのか。

イエス様は、そのことを問うているのだと思います。

私たちが、与えられている賜物、それを納めているこの器を、いつ、誰のために、割るでしょうか。

そして、その賜物を、誰のために、私たちは使っていくでしょうか。

そのことを改めて、今日、考えたいと思います。

同時に、私たちは、イエス様の姿にも学びたいと思います。

何をどう使うか、どう献げるか、とても大事なことですが、でも、それ以上に、精一杯を献げていく。

その姿を認め合いたい、喜びあいたいと思います。

どんなに、勇気を持って、ナルドの香油を献げていったとしても、

どんなに、精一杯、献身の思いを持って、自分を献げていったとしても、

こんなふうに、周りの人々がそれを認めず、叱りつけるようなことをしたら、もう2度と、献げたいとは思わないでしょう。

お前何やっているんだ、なんでこんな無駄遣いをするんだ、そんなふうに言われたら、もう2度と、献げたいとは思わないでしょう。

むしろ、献げることを躊躇する、怖くなるでしょう。

精一杯を神様のため、隣人のために献げていく、そのことを覚えると同時に、

私たちが、その精一杯の行為を、認め合い、喜び合うことを、覚えたいと思います。

今日の礼拝のためにも、さまざまな奉仕が献げられています。

奏楽、お花、受付、司式、週報、たとえ間違いや失敗があったとしても、それぞれの献身の思いを、大事に、喜び合える群れとなっていきましょう。

今日は、神学校週間礼拝ということで、献身について考えてきました。

私に与えられている賜物を精一杯用いていく。献げていく。

その思いを、イエス様は喜び、受け止めてくださる。

そのことを信じて、大胆に、自分らしく、献げていきましょう。

同時に、イエス様の眼差しをもって、互いの献身を認め合い、喜び合える群れとなっていきましょう。

お祈りします。

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