コリントの信徒への手紙Ⅱ4:16~5:10
全ての命は、それぞれの時に終わりがきます。大切な人との別れは、心の中にぽっかりと喪失感を残すことでしょう。もはや会って話すことができないと頭では分かっていても、心で受け止められるようになるには多くの時間が必要です。そして、誰かの死を見つめるとき、私たちもまた、自分自身の終わりを考えさせられます。トレーニングや食事など気を付けていても、身体は少しずつ衰えていき、今まで出来ていたことも出来なくなります。
聖書は、それでも「落胆しない」と言うのです。それは、やせ我慢でもなく、悲しみや苦しみを感じなくなるということでもありません。愛する人を失えば悲しいですし、身体が衰えれば不安になります。思い通りにならない現実に、心が折れそうになることもあるでしょう。それでもパウロが落胆しないのは、今見えている現実だけが、私たちの人生の全てではないと知っていたからです。身体は衰えて、やがて死に至ります。それでも、私たちの命の終わりではありません。主イエスを復活させられた神が、私たちをも復活させてくださるという希望があるからです。パウロは、私たちの身体を地上の幕屋にたとえます。テントのように、旅の途中で身を安らげる一時的な住まいです。それに対して、神が用意してくださっているのは、天にある永遠の建物です。それは私たちが自分の力で手に入れるものではなく、神の恵みの賜物です。
目には見えなくとも大切なものは、たくさんあります。愛や友情も、目で見ることはできません。それでも私たちは、愛し合い、支え合いながら生きています。見えないものだからこそ、信じることによって受け取るのです。私たちは、目に見えるものだけを頼りにするのではなく、今は見えなくとも、神が与えてくださった約束を望みつつ歩みます。先に召された方々を思い起こすとき、私たちはその方々との思い出だけでなく、その方々を生かし、歩みを導いてくださった神を覚えます。そして、私たちもまた、限りある命を神から託された者として、今日という一日を大切に生きていきたいと思うのです。







