マルコによる福音書16章1節〜8節
安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
『聖書 新共同訳』©︎1987,1988共同訳聖書実行委員会 日本聖書協会
キリスト教会の多くは、日曜日に礼拝をささげています。それは、イエス・キリストがよみがえられたのが日曜日であったからです。それまでユダヤの人々は、週の終わりの日である金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日として、神を礼拝していました。創造の御業が完成したことを覚え、神との交わりの時、休みの日として大切に守っていたのです。
イエスが十字架につけられてから三日目の日曜日、女性たちは墓に向かいます。時間をかけて手厚く弔うことができなかったため、遺体に油と香料の処置をしたいと願ったのです。しかし、墓の入り口を塞いでいた大きな石は、驚いたことにすでにわきへと転がされ、開けられていました。どうやって石を動かしたらよいかと考えていた女性たちですが、今度は遺体が盗まれていないかという不安に襲われ、急いで中を確かめたことでしょう。するとそこには見知らぬ若者が座っており、彼女たちは驚きます。さらに彼が告げたのは、「イエスはよみがえられた」という知らせでした。それは驚きを通り越し、すぐには受け止めきれない出来事だったに違いありません。二千年前であっても現代であっても、死んだ人がよみがえるなど、あり得ないことだからです。空っぽの墓は本来、喪失と絶望のしるしです。愛する人の遺体さえも失われてしまったのではないかと、悲しみや怒りが心を満たしてもおかしくありません。しかしそのような絶望の場所から、神は新しいいのちを始められました。終わりだと思われた場所から、すべてが新しく始められたのです。
この復活の出来事を境に、弟子たちは週の初めの日曜日に集まり、礼拝をささげるようになりました。人間の死の絶望から、主によるいのちの希望が始められたからです。私たちの人生にも、終わったと思うような出来事があるかもしれません。しかし神は、その場所をも新しい出発点へと変えてくださるお方です。日曜日は、この驚きが始まった日です。そして今も、驚くような出来事は続いています。私たちの歩みの中でも、神による新しいいのちが始められているからです。だからこそ私たちは週の初めの日に集い、復活の主を礼拝し、そのいのちにあずかるのです。







