聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、出エジプト記10章1節〜9節です。
13:17 さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。
13:18 神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った。
13:19 モーセはヨセフの骨を携えていた。ヨセフが、「神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように」と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである。
13:20 一行はスコトから旅立って、荒れ野の端のエタムに宿営した。
13:21 主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。
13:22 昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。
「神の導き」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・神の導き
おはようございます。
今日は、時間の都合上、子どもメッセージと大人のメッセージを分けずに、メッセージをしたいと思います。
メッセージのタイトルは、「神の導き」です。
皆さんは、神の導きというものを感じたことがあるでしょうか。
なかなか感じることはないかもしれませんが、中には、思いがけない出会いや、出来事の中で、神の導きを感じたことがある方も、いらっしゃるかもしれません。
神の導きということで、私が思い出したのは、この大分教会で、大塚九三子姉妹と再会した時のことです。
大塚姉妹はこの大分教会の教会員で、もう7年前に天に召された方ですけれども、
私がまだ保育園に通っていました時に、私の出身教会である札幌教会の牧師をなさっていました。
また大塚姉妹は、後に、私の父が園長をすることになります、札幌教会の附属幼稚園の園長もなさっていて、家族ぐるみで、お世話になっておりました。
そんな大塚先生と、まさか大分教会で再会することになるなんて、
しかも、大塚先生の葬儀を、私が担当することになるなんて、思いもしておりませんでした。
大塚姉妹は、小学科のキャンプか何かで、私が将来牧師になると言ったことを覚えておられたそうです。
私は全く覚えていなかったのですが、大塚姉妹は、そのことを覚えておられて、
私が大分教会の牧師になった時に、何度もその話をしてくださって、
その時にですね、何かこう、偶然とは思えない、神の導きというものを感じました。
皆さんはどうでしょうか。
そのような経験があるでしょうか。
聖書を読みますと、神様は、人々を導かれるお方であるということが、随所に語られています。
今日の礼拝の最初に読んでいただいた聖書の箇所にも、
「主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる」と書かれていますし、
今日の聖書の箇所にも、「導く」という言葉が、2回ほど使われています。
そんなふうに聖書は、神様が、私たちを導くお方であると教えているわけですが、一体どのように導かれるのでしょうか。
今日の箇所から、共にそのことを、聞いていきたいと思います。
・
今日の箇所は、イスラエルの民が、エジプトから解放された直後の場面です。
これまで私たちは、エジプトで奴隷として虐げられていたイスラエルの民が、神様によって解放される様子を見てきました。
十の災いを通して、ついに民はエジプトから解放されますが、それで終わりではありませんでした。
次に神様は、民を、約束の地カナンへと導かれます。
今日の箇所には、その始まりの様子が語られています。
神様は、どのように民をカナンの地へと導かれるのか。
特に3つの箇所に、注目したいと思います。
一つは、18節の「葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた」という箇所。
二つ目は、19節、モーセがヨセフの骨を携えて行ったという箇所。
そして三つ目は、21節、「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた」という箇所です。
順番に見ていきたいと思いますが、まず一つ目の箇所から、見ていきたいと思います。
18節「神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた」と記されています。
「迂回させられた」ということはつまり、「遠回りさせられた」ということです。
ちょっと、地図で確認したいと思いますが、これが、そのルートです。
カナンは、こちらにあります。
そして、17節にあります「ペリシテ街道」というのは、この海沿いのルートです。
ご覧の通り、この道を通れば、最短でカナンに着くことができます。
距離にすると、300キロくらいだそうです。
1日10キロのペースで、ゆっくり歩いたとしても、1ヶ月程度で到着する距離です。
でも、神様が導かれたのは、その何倍も時間がかかる遠回りの道でした。
しかも、その道は、荒れ野を通る過酷な道でした。
なぜ神様は、そのような道へと導かれたのでしょうか。
その答えは、17節の後半に記されています。
「それは」からの箇所ですけれども、こう書かれています。
「それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。」
当時、このペリシテ街道には、エジプトの軍隊が駐留していたそうです。
もし、この最短ルートを通っていたら、そのエジプト軍と戦わなければならなかった。
そうなったら、民は怯えて、引き返すに違いないと、そう思われたから、神様は、あえて遠回りをさせられたということです。
つまり遠回りは、民を守るための、神様の配慮だったということです。
このことから教えられるのは、最短ルートが、必ずしも、最善のルートとは限らないということです。
私たちは、早さや効率を求める時代に生きています。
ネットショッピングでは、欲しいものを簡単に買うことができます。
即席料理も、年々レベルが上がっており、早く簡単に美味しいものを食べられるようになっています。
最近では、ウーバーなんてものもありまして、スマホで注文するだけで、食べたいものが簡単に届く時代になっています。
そんな便利な時代に生きていますと、「待つ」ということができなくなっている。
そんな自分がいるなと、感じることがあります。
買い物に行ったり、食べに行ったりするのも面倒くさい。
どこか行くのにも、スマホで調べて、最短距離を選んでいく。
いかに早く、効率よく、目的地に着けるか。
そんなふうに生きている自分がいるなと思います。
そんな者からしますと、遠回りなんていうのは、とても非効率で、無駄に思えてしまいますが、
聖書は、その遠回りの中にこそ、神の計画が隠されていることがあるのだと、教えているのです。
私たちの人生にも、思いがけない遠回りがあります。
思い通りにいかなかったり、想定外の道を通らされたりすることがあります。
でも、そのような歩みも、決して無駄ではない。
むしろ、そのような歩みの中に、神の配慮や、神の計画が隠されていることがあるのだということです。
・
ヨセフの物語は、そのことをよく示しています。
今日の二つ目のポイントですけれども、19節に、モーセがヨセフの骨を携えて行ったと記されています。
このヨセフという人物は、兄弟に陥れられ、エジプトへ連れて行かれ、何も悪いことをしていないのに、牢にまで入れられてしまうという、大変辛い人生を歩んだ人物です。
でも彼は、その歩みを通して、エジプトの首相にまで成り上がり、飢饉に苦しむ家族を救うことになります。
その時、彼は「このために神が自分をエジプトへと導かれたのだ」と告白するわけです。
神様の導きというのは、本当にわからない者だなと思わされます。
神様は、私たちの想いを超えて、思いがけない形で、私たちを導かれのです。
私は、クリスチャンホームに生まれ、生まれた時から教会に行き、小学校3年生の時にバプテスマを受けました。
そのことを話しますと、時々、羨ましいと言われることがあります。
そう言われる方はきっと、もっと早くイエス様と出会い、教会につながっていたら良かったと思っておられたのだと思いますが、果たしてそうでしょうか。
先日、髙平秀起さんの信仰告白を聞きました。
マルクスやニーチェなどの哲学者に学び、ユングやアドラーなどの心理学にも学び、最澄や空海の密教にも興味を持ち、それでも満たされないものを抱え、教会に来られるようになった。
そして、キリストの愛と出会い、63歳でバプテスマを決心されたという、
その信仰告白を聞きながら、本当にすごいなと思いましたし、羨ましくも感じました。
63年間の歩みを通して出会ったキリストの愛は、63年間の歩みがなければ、出会えなかったものだと思います。
最短の道が最善とは限らない、そのことを強く感じます。
私自身も、最短で、ここまで歩んできたわけではありません。
むしろ、このような働きを担うことになるなんて、思ってもいませんでした。
こうなるのなら、工学部になんて進まず、最初から、文系を選んでおけばよかったと思うことがあります。
野球部なんて入らず、音楽の一つでも習っておけばよかったと、そう思うことがあります。
でも、きっと、そうじゃないのでしょう。
回り道とか、無駄と思えるところにこそ、神の配慮があり、計画がある。
工学部に進んでいなければ、野球をやっていなければ、きっと今の自分はいないのだろうと思います。
人生に無駄なことなど、一つもない。
無駄と思えるところにこそ、神の配慮があり、計画がある。
ヨセフの骨を携えながら、モーセもまた、そのことを心に留めていたのではないでしょうか。
・
しかしながら、私たちは弱い者です。
神の導きを信じられないことがあります。
「本当にこの道であっているのだろうか。
この道を進んで大丈夫だろうか。」不安になります。
イスラエルの民も、きっとそうだったでしょう。
「この道を進んでいいのか。
カナンなら、海沿いの道の方が早いじゃないか。
なんで、こんな遠回りをしなきゃいけないんだ。
しかもこっちは荒れ野じゃないか。」
でも神様は、そんな不安な民を、先立って導かれたと記されています。
今日最後に覚えたいポイント、21節の言葉です。
「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。」
先の見えない道のりを、先立って進んでくれている存在がいるということは、どれほどありがたいことでしょうか。
野球界では、近年、毎年のように、メジャーリーグに挑戦する選手が出ていますけれども、
そのように挑戦することができるになったのは、先立って、メジャーに挑戦し、成功された人たちがいるからだと思います。
私たちで言えば、信仰の先達がいるということは、大きな支えになります。
不安な道、先の見えない道であればあるほど、先立って進む存在がいるということが、力になります。
まさに神様は、先立って、私たちの歩みを導いてくださっていると、聖書はそう教えています。
しかも神様は、「民の先頭を離れることがなかった」と記されています。
それはつまり、共に歩まれたということです。
神様は、先立って進まれるお方ですが、民のはるか前方を進んでおられたのではありません。
民の歩幅に合わせて、離れることなく歩まれた。
しかも、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らしながら、どんな時も、共に歩まれました。
この雲の柱と火の柱は、民にとって、神が共におられるという、目に見えるしるしでした。
進むべき道が分からなくなったときも、不安で立ち止まりたくなったときも、顔を上げれば、そこに雲があり、火がありました。
そのようにして民は、いつも神が共にいるということを感じながら、歩むことができました。
私たちには、そのような、はっきりと目に見えるしるしはないかもしれません。
でも、受け継がれてきた信仰があり、神の言葉があります。
神の言葉は、わたしたちの道の光、わたしたちの歩みを照らす灯です。
いつもみ言葉が、私たちと共にあります。
その言葉を信頼し、頼りにしながら、歩んでいくようにと招かれているのです。
私たちの歩みには、時に、思いがけないことが起こります。
遠回りをさせられる時もありますし、想定外の試練に襲われる時もあります。
でも、そのようなところにこそ、神の配慮があり、計画があります。
そして、そのような時こそ、神は私たちと共におられます。
そのことに信頼し、身を委ねて歩んでいきましょう。
お祈りします。






