聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、創世記12章1節〜8節。
新共同訳旧約聖書15ページです。
15:1 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
15:2 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」
15:3 アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
15:4 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
「天を仰いで、星を数えてみよ」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日もまず最初に子どもメッセージからしたいと思いますが、先週から、アブラムの物語を読んでいます。
先週も言いましたが、アブラムという人は、後にアブラハムという名前を与えられ、信仰の父と呼ばれるようになる人です。
とてもすごい人なんですが、
でも、実は、そんなアブラムにも、神様のことが信じられなくなったことがありました。
なんで信じられなくなったのか。
それは、子どもが与えられなかったからです。
アブラムは、神様から約束されていました。
「アブラム、私はあなたを祝福する。
あなたに、たくさんの子孫を与える。
そして、あなたを大いなる国民の父とする。」
アブラムは、その約束を信じて、旅立って行ったんですが、なかなか子どもは与えられませんでした。
年齢的にも、子どもを期待できる時期は、とっくに過ぎていました。
だからアブラムは、「もう子どもは無理だ」って思っていました。
「神様は子どもを与えてくれなかった。
約束を守ってくれなかった。
もう神様なんて信じられない。」
アブラムの心は、暗く、沈んでいました。
そんな時、神様はアブラムを、外に連れ出して言いました。
「天を仰いで、星を数えてみるが良い。
あなたの子孫はこのようになる。」
言われる通り、アブラムが空を見上げると、そこには数えきれないほどの星がありました。
それを見て、アブラムは気づきました。
「この星たちも、神様がつくられたんだ。
神様のなさることは、私の想像を超えている。
私は勝手に、無理だって思ってたけど、神様が言われるならわからないじゃないか。」
そしてアブラムは、もう一度、神さまのことを信じたのです。
アブラムみたいに、私たちも、もうダメだ、もう無理だって、勝手に決めつけてしまうことがあるかもしれません。
特に、思うようにならないことが続くと、「頑張ったってどうせ無理だ」「自分になんて、できるはずがない」って、やる前から諦めてしまう。
自分で自分に線を引いて、自分で自分の限界を決めて、その中に閉じこもってしまうことがあるかもしれない。
そんなときに、神さまは言われるんです。
「外に出てごらん」「空を見上げてごらん」って。
神様は、アブラムを外に連れ出し、夜空の星を見せました。
それは、「自分の世界に閉じこもらずに、もっと外の世界を見てごらん。
あなたが知ってるよりも、世界は広いし、あなたが知ってるよりも、あなたは可能性で満ちてる」って教えるためでした。
今日、神様は、私たち一人一人にも、そうおっしゃっているんだと思います。
私たちが知っている世界も、私たちが知っている私も、ほんの一部に過ぎません。
私たちが知ってるよりも、世界は広いし、私たちが知ってるよりも、私たちは可能性で満ちている。
だから、神様は言われます。
「勝手に決めつけないで、自分の世界に閉じこもらないで、外に出てみなさい。
きっと、新しい人生が開かれていくから」って。
この神様のメッセージを心に覚えて、
私たちもアブラムように、外に、
自分の知らない世界に、出ていく人になっていきましょう。
お祈りします。
・序
先週に続き、アブラムの物語を読んでいきます。
後にアブラハムという名を与えられ、信仰の父と呼ばれるようになるアブラムですが、今日の箇所の最後にすでに、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(6節)と記されています。
この言葉は、新約聖書でも、ローマの信徒への手紙や、ヤコブの手紙などで引用されている有名な言葉です。
「さすが信仰の父!」と、そう思うような言葉ですが、しかし、今日の箇所を読んでみますと、神を信じられなくなっているアブラムの様子が記されています。
神の言葉を信じて旅に出て、信仰の父と呼ばれるようになるアブラムに、一体何があったのでしょうか。
どうして神を信じられなくなってしまったのか。
また、そこからどのようにして、神を信じるようになっていったのか。
ご一緒に聖書から聞いていきたいと思います。
・不信の理由
今日の箇所は、「これらのことの後で」(1節)という言葉で始まっています。
「これらのこと」とは、もちろん、今日の箇所の前に書いてあることですけれども、ここに何か、アブラムの信仰をつまずかせるようなことが、書いてあるのでしょうか。
読んでみると、むしろ逆です。
つまずかせるどころか、信仰を強められるような話が書かれています。
まず14章には、アブラムが、4人の王たちと戦って勝利し、捕まっていた甥のロトを救出する様子が記されています。
アブラムには318人の訓練された僕たちがいたそうですが、それにしても、一国の王たちを、4人も相手にして、勝利するなんて、ありえないことです。
神の守りによって勝利を得たとしか考えられない話です。
さらにその前の場面では、飢饉に襲われ、エジプトに逃れたアブラムの姿が記されています。
ここでもアブラムは、神によって守られ、たくさんの祝福を受けています。
このように、今日の箇所の前の場面を読んでみますと、そこには、信仰のつまずきとなるどころか、信仰を強められるような話ばかり記されています。
そして、そのことを受けて、神は言われるのです。
1節「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
まさに神様は、アブラムの盾として、彼を守り、非常に多くの祝福を与えてこられました。
ですから、アブラムの返事は、「ありがとうございます神様!」となるのが自然だと思います。
でも、聖書を読んでみると、違うわけです。
神の言葉に対する応答として、アブラムは次のように言っています。
2節「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子どもがありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」
この言葉からわかりますように、アブラムは、「子どもが与えられない」というその一点で、神のことを信じられなくなっていたのです。
「仏作って魂入れず」という諺があります。
どんなに立派な仏像をつくっても、魂を入れなければ価値がない。
重要な一点が欠けることで、全体が無価値になってしまうというような意味の諺ですけれども、
まさにアブラムにとって、「子どもが与えられる」というのは、その重要な一点だったわけです。
このたった一つのことが欠けているだけで、全てが台無しに思える。
どんなにエジプトで助けられても、4人の王との戦いに勝たせてもらっても、子どもが与えられないというその一点によって、何ももらっていないと思えてしまう。
それほど重要な一点だったんです。
・信じられないアブラム
確かに神様はアブラムに、「あなたを大いなる国民にする」「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束していました。
だから、アブラムは、信じて旅に出たんです。
でも、待てど暮らせど、子どもは与えられない。
約束を与えらた時点で、アブラムは75歳、妻サライは65歳でした。
年の数え方については、いろいろ意見がありまして、私たちが考える75歳と単純に比較することはできないかもしれません。
でも、11章に書いてあります系図をみると、大体みんな、30歳前後で子どもを与えられています。
唯一、アブラムの父親であるテラが70歳で子どもを与えられていますけれども、その年齢をも、アブラムは上回っていたわけです。
神の約束が信じられなくなるのも、当然でしょう。
すでにアブラムは、自分の僕の息子エリエゼルを養子にし、家を継がせることを決めていました。
もう神様の言葉は信じられない。
子どもは諦めるしかない、そう思っていた。
・外へ連れ出す神
もし、ここで終わっていたら、アブラムが信仰の父と呼ばれることはなかったわけですけれども、そうじゃありませんでした。
今日の話の最後で、アブラムは、再び、神を信じるようになるわけですが、いったい何があったんでしょう。
信じることをやめてしまったアブラムに対して、神様は、どうされたのか。
5節、主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
これによってアブラムは、神を信じたと記されています。
いったい何が彼の心を変えたのでしょうか。
注目したいのは、神がアブラムを「外に連れ出した」ということです。
これは単なる移動の描写ではないと私は思います。
物理的に、内から外に連れ出したというだけではない。
自分の考えや、知識、常識の中に閉じこもっていたアブラムに対する、神の促しだったのだと思います。
「自分の世界に閉じこもっていると見えないものがある。外の世界を見なさい」そういう神の促しだったのだと思います。
この促しを受けて、アブラムは、外へ出て、夜空を見上げました。
するとそこには、無数の星が輝いていた。
その星たちを見たときに、アブラムは、天地を創造された神の偉大さに、心を開かれたのではないでしょうか。
そして、自分がいかに狭い世界に閉じこもっていたか。
自分が思い描いていた「不可能」や「限界」が、神の前に何の制限にもならないことに気づかされたのではないでしょうか。
神は、人の考えや常識の枠の中におさまるようなお方ではない。
アブラムは、天を仰ぎ、星の数に圧倒されながら、「神の語る世界は、私の現実を超えている」と思い直したのでしょう。
そして、再び、神を信じるに至ったのだと思うのです。
・信仰を新たに
このように、信じるためには、自分の考えや価値観の中に閉じこもっていてはいけないのだろうと思います。
自分の考えや価値観の外に出て、神の語られるビジョンの中に踏み出していく。
それが信じるということなのだと思います。
アブラムと同じように、私たちも、自分の考えや知識、これまでの経験や常識に縛られて、神の言葉を信じることができなくなることがあります。
自分で自分に線を引いて、自分で自分の限界を決めて、その中に閉じこもってしまう。
そうやって私たちは、目の前の現実に飲み込まれ、諦めたり、絶望したりしてしまうわけですが、
そんな私たちを、神様は、外へと連れ出してくださる。
自分の価値観や常識の中にとどまろうとする私たちを、外へと連れ出してくださる。
そして、「天を仰いで、星を数えてみよ」と言われるのです。
外の世界へ出て、改めて、天を、すなわち神を見上げてみる。
外の世界から、改めて、神を見直してみる。
その時に、私たちの信仰は、新たにされていくということです。
外の世界と聞くと、海外に行くとか、外国人と出会うということを、思い浮かべる人もいるかもしれません。
それも、確かに外の世界だと思います。
でも、それだけじゃありません。
日本の中にも、知らない世界、知らない人々がいます。
教会という場所も、世を生きる私たちにとっては、ある意味、外の世界だと言えるかもしれません。
私たちは、今日、日々の歩みから連れ出されて教会に来て、まさに星を眺めるように、み言葉に心を向けているのだと思います。
「天を仰ぎなさい」「星を数えなさい」というのは、私たちにとって、聖書を開き、み言葉に心を向けよということでもあるように思うのです。
アブラムは、星を見上げることで、天地を創造された神の偉大さに心を開かれていきました。
私たちもまた、御言葉に心を向けることを通して、アブラムと同じ体験へと招かれているように思います。
日常の中で「もう無理だ」と思うとき。
目の前の現実だけを見て、神のことが信じられなくなるとき。
神は、私たちを教会へと導かれます。
信じられなくなった時こそ、神は外へ、教会へ、私たちを導かれ、御言葉をもって語られます。
「天を仰ぎ、星を数えるように、聖書を開き、御言葉に心を向けなさい。
きっと、あなたの考えや想いを超えて働く神を知るだろう。」
今日ここに招かれた私たち一人ひとりも、神によって“外へ”と連れ出された一人一人です。
今、私たちは、アブラムのように、天を仰ぎ、御言葉という星に心を向けています。
アブラムが再び信じたように、私たちもまた、御言葉という星に心を向けることで、信仰を新たにされていきたいと思います。
お祈りします。