聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、創世記21章1節〜8節。
21:1 主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、
21:2 彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。
21:3 アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、
21:4 神が命じられたとおり、八日目に、息子イサクに割礼を施した。
21:5 息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった。
21:6 サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」
21:7 サラはまた言った。「誰がアブラハムに言いえたでしょう/サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました/年老いた夫のために。」
21:8 やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。
「思い通りにいかない先に」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日もまず最初に子どもメッセージからしたいと思いますが、今、私たちはアブラムの物語を続けて読んでいます。
神様から、「あなたを大いなる国民にする、だから私の示す地へ行きなさい」って言われて、旅に出たアブラムでしたけれども、
今日も、そのアブラムの物語を読んでいくんですが、聖書を見て、何か気づくことはないでしょうか。
そう、アブラムがいないんですね。
今日の聖書の箇所には、どこにも、アブラムという名前は、出てきません。
代わりに、すごく似ている人の名前が出てきます。
なんていう名前でしょうか。・・・そう、アブラハムです。
もうわかっていると思いますが、実はこの二人、同じ人物です。
どういうことかというと、名前が変わった、ということなんです。
アブラムという名前から、アブラハムという名前に変わった。
変えたのは、神様でした。
神様が、アブラムっていう名前を、アブラハムにしたんですけれども、なんで、そうしたか。
もちろんカッコ良いとか悪いとかいう理由ではありません。
実は、アブラハムという名前には、大切な意味が、込められていました。
どんな意味かというと、それは、「多くの国民の父」という意味です。
「多くの国民の父」。
それは、アブラムに対する神様の約束の言葉ですよね。
「あなたにたくさんの子孫を与える。あなたを大いなる国民の父とする」そうやって神様は、アブラムに約束してきました。
その約束の言葉を、名前にしちゃったんです。
私はあなたを大いなる国民の父にする。
絶対にそうするから、だからもう名前も、アブラハムにしちゃいなさいって。
「多くの国民の父」になるんだから、それを意味する、アブラハムって、もう名乗っちゃいなさいって、そうやって言われたんです。
これは、実は、アブラハムだけじゃありませんでした。
アブラハムの妻のサライもそうでした。
サライにも、神様は、「諸国民の母」と意味のサラという名前を与えられました。
そうやって神様は、アブラハムとサラに、子どもを与えるということを、強く強く、約束されたんですが、でも、実は、ここに大きな問題がありました。
どんな問題かというと、約束されたはずの子どもが、なかなか与えられなかったんです。
待っても待っても、アブラハムとサラの間には、子どもが与えられませんでした。
与えられたのは、アブラハムとサラが旅立ってから、なんと25年も経った頃。アブラハムが100歳、サラが90歳の時でした。
当然、二人は、もう子どもなんて無理だって思って、諦めていました。
神様の約束も、信じられなくなっていた。
でも、そんな二人に、神様は、子どもをお与えになったんです。
なんでそんなタイミングだったのか。
どうして、そんなに遅くなったのか。
それは誰にも分かりません。
でも、この話を通して、一つ言えるのは、神様は、人の想いを超えて、出来事を起こされるっていうことです。
私たちは諦めます。もう無理だって思っちゃう。
でも、そんな私たちの想像を超えて、神様は働かれるってことです。
どんなに私たちが諦めても、そこで終わりじゃない。
神様はその先に、私たちの想像を超えた、すごい計画を持っていてくださる。
そのことを今日は、覚えておきたいと思います。
思い通りにいかないことがあったとき、落ち込んだり、イライラしたりしてしまうことがあると思います。
そんな時は、今日のメッセージを思い出して、思い通りにいかない時こそ、神様が働いてくださる。
神様が、私たちの想像を超えたことを起こしてくださるんだって信じて、前向きに生きられる人になっていきましょう。
お祈りします。
・序
今日の箇所には、アブラハムとサラとの間に、待望の子イサクが誕生する様子が、記されています。
このことについて聖書は、「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので」というふうに語っています。
「約束された通り」「先に語られた通り」そういう言い方で、神様が、事前におっしゃっていた通りにされたんだということを、強調して、語っているわけですが、
しかし、そのタイミングは、当初、アブラハムとサラが思っていたタイミングとは、大きくずれていました。
・密かに笑った
そもそも子を与えるという約束は、アブラハムが召し出された最初に与えられたものでした。
「生まれ故郷を離れ、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたの名を高める。」そう言って神様は、アブラハムをお立てになり、アブラハムも、妻サラと共に、この約束の言葉を信じて、旅立っていきました。
旅立ってからも、神様は、ことあるごとに、その約束を繰り返されましたが、実現することはありませんでした。
待っても待っても、いっこうに子どもが与えられない。
次第に、二人の心は冷め、信じる気持ちも失われていきました。
いつになったら子どもが与えられるのか。
その時期が具体的に示されたのは、旅立ってから24年、アブラハム99歳、サラ89歳の時でした。
神様は、「来年の今ごろ」つまり1年後には、子どもが与えられているだろうと言われました。
はじめて、具体的な時が示されたわけですが、
しかし、二人は、その言葉を聞いて「ひそかに笑った」と記されています。
この「笑い」は喜びの笑いではありません。
「ひそかに」というのは、人に知られないように、こっそりすることです。
二人は、神様に知られないように、こっそり笑いました。
そして、アブラハムは、つぶやきました。
「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」
サラもまた、「年をとった自分に子どもが生まれるはずがない」と言いました。
この言葉からもわかるように、アブラハムとサラは、もう神様の言葉を信じていませんでした。
神様が、「来年の今ごろ」と、初めて、その時期をお示しになったのに、二人はそれを「ひそかに笑った」。
鼻で笑うような感じでしょうか。
「何を言ってるんだ神様は。そんなこと、起こるはずがないだろう。」と、そう思いながら、二人は笑ったんです。
神様の言葉が、もはや冗談にしか聞こえない。
真剣に聴くことすらできなくなってしまった。
それくらい、彼らの心は、諦めに満ちていたのです。
・それでもなお
しかし、そんな二人に、子どもは与えられたんです。
信じて待ち続けた二人じゃありません。
神の言葉を冗談としてしか聞けなくなってしまった。
そんな諦めに満ちた二人に、彼らの想いを超えて、神の出来事は起こされていったのです。
よく、信じて待ち望みましょうとか、諦めず祈り続けましょうって、言いますよね。
それはもちろん、そうできるなら、良いと思います。
でも、限度があるわけです。
祈っても祈っても、叶えられない。
待っても待っても、その時が来ない。
そんな中で、信じることに疲れたり、祈ろうと思う気持ちすらなくなってしまうような時が来るわけです。
祈ったって、意味がないんじゃないか。
信じたって、無駄じゃないか。
そう思う時があるわけです。
アブラハムとサラは、まさにそういう状況にありました。
でも、そんな二人に、神様の出来事は起こされていきました。
二人の想いを超えて、神様の出来事は起こされていった。
これは、私たちにとって、大きな希望であると思います。
私たちは、諦めますし、信じられなくなります。
でも、神様は、なお、私たちのために働かれる。
私たちの想いを超えて、働かれるのです。
・溢れる笑い
この出来事を受けてアブラハムは、神の言葉に従って、その子をイサクと名付けました。
その名前には「笑う」という意味があります。
その名の通り、イサクはサラを笑わせました。
6節「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を/共にしてくれるでしょう。」
このサラの「笑い」は、先ほどのような「ひそかな笑い」ではありません。
むしろ、ひそかにできない。
隠してなんていられない。
誰かと共有したい。
皆に伝えたい。
そんなふうに、自分の中だけじゃ収まらない。
心から満ち溢れるような、喜びの「笑い」でした。
今日の箇所の最後に、盛大な祝宴を開いたって書いてありますが、この言葉からも、サラの満ち溢れる喜びが、伝わってくるように感じます。
この喜びは、予定通り、計画通り、自分の思い通りに進んでいたら、味わえなかった喜びであると思います。
思い通りにいかない。
思い通りにならない。
もはや神の言葉が、全く心に響かなくなってしまった。
そんなサラだったからこそ、経験することのできた喜びであり、笑いだったんだと思います。
・結論
この話を通して覚えたいのは、神様が、私たちの想いや計画を超えて働かれるということです。
時にそれは、私たちのつまずきにもなります。
アブラハムとサラは、そのことに苦しみました。
思っていたようなタイミング、思っていたような時期に、子どもが与えられなかった。
二人のタイミングと、神様のタイミングは、大きくずれていました。
それによって二人は、信じることができなくなってしまった。
信仰の挫折を経験してしまったわけですが、
でも、神様が、私たちの想いや計画を超えて働かれるということの中には、希望もあります。
もし神様が、私たちの想いの中にとどまるお方だったら、私たちが絶望する時、どうやって、私たちを立ち上がらせることができるでしょうか。
どうやって希望を、与えることができるでしょうか。
私たちの想いや計画を超えて働かれるからこそ、私たちは、どんな絶望の中にあっても、希望を持って歩むことができるのだと思います。
私たちは、思い通りにいくことを求めます。
そして、そうならないと苛立ったり、落ち込んだりするものです。
受験で失敗したり、思うような仕事に就職できなかったり、災害にあったり、病気になったり、思うようにいかないことが起こると、私たちの心は暗くなり、絶望感でいっぱいになります。
でも、それで終わりじゃない。
思い通りにいかないことの先に、神の想いがあり、神の計画がある。
神様は私たちの想いや計画を超えて働かれる。
そう思えば、思い通りにいかない歩みの中にも、希望を見出すことができるのではないでしょうか。
昨日の夜中、まだ説教の原稿が完成していなかったんですが、とりあえず寝て、今日の朝やろうと思っていたのですが、その計画が打ち破られることがありました。
寝ようと思って、牧師室を出た時のことでした。
夏の風物詩であるGが出まして、数分格闘したんですが、そしたら、一気に目が覚めてしまいました。
せっかく寝ようと思っていたのに、みるみるうちに、頭が冴えて行ってしまいました。
しょうがないので、机に座って、改めて書きかけの原稿を眺めていましたら、意外と集中できまして、
煮詰まっていたのが嘘のように、説教ができていきました。
そのときに、私たちの想いを超えて働く神様って、こういうことかと思わされました。
適切な例かどうか分かりませんけれども、でも、そんなふうに、思い通りに進まないからこそ、開かれる道もあるのだと思います。
ここ数年、私たちは、コロナウイルスに悩まされ、思い通りにならない日々を通らされてきました。
集まって礼拝することが、できない時もありました。
声を上げて、讃美歌を歌うことができない時もありました。
それは、私たちにとって、大変苦しい時でありましたが、
しかし、そのことを通して、新たに、開かれたこともありました。
毎年クリスマスに行われるようになったコミュニティーコンサートもそうですし、
集まって礼拝することができないというところから、苦肉の策で始めた、礼拝メッセージのオンライン配信でも、それによって、繋がることができた方、
それをきっかけに、教会に来てくださる方もいらっしゃいました。
思い通りにいかなくても、神の計画がある。
私たちの計画はついえても、なお神の計画は終わらない。
神の働きは起こされる。
そして、そこにこそ、想像を超えた喜びがあり「笑い」があるんだということを、今日は、心に覚えたいと思います。
そして、信じて、またここから歩み出していきたいと思います。
思い通りにいかなくても、人生捨てたもんじゃありません。
思い通りにいかないことの先に、神の想いがあり、神の計画がある。
そして、そこにこそ、想像を超えた喜びがあり「笑い」がある。
そのことを信じて、歩み出していきましょう。
お祈りします。







