2025年7月13日主日礼拝「天の国の評価制度」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、マタイによる福音書20章1節〜16節。

20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。

20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。

20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、

20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。

20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。

20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、

20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。

20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。

20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。

20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。

20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。

20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。

20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

「天の国の評価制度」と題して、中尾えがお姉に、メッセージをしていただきます。

・メッセージ

私の住む玖珠町には美味しい焼きそば屋さんがあります。80歳を超えたおばあちゃんが一人で切り盛りをされているお店です。私はもともと大の焼きそば好きなので、玖珠にいる日のお昼ご飯をよくそのお店で焼きそばの持ち帰りをしています。

何度か通っているうちに、おばちゃんとも仲良くなるのですが、先日、おばちゃんから「ところであなたは何屋さん?」と聞かれました。この「何屋さん?」という質問は、私にとってはとても難しい質問です。

私の仕事は、企業の組織づくりや人材育成の仕事をしています。みんなでよって集って、協力して知恵を出して稼ぐために、何ができるのか、また会社が稼ぐことで、みなさんが自分の人生を豊かにすることができるように、どのようなことができるだろうかということを考えて、経営者と一緒に組織づくりや人材育成に取り組んでいくのが私の仕事です。

時々、ビジネスの世界に嫌悪感を示される方もおられますが、本来、ビジネスというのは、社会の困りごとを解決することでお金をもらっています。ということは、ビジネスがうまくいくということは社会の困りごとが解決されているということなので本来は喜ばしいことなのです。しかしながら、一部の企業ではやはり営利に走りすぎてしまって、自社の利益しか考えられないような行動をとっていたり、正しいビジネスが行われていたとしても、私たちが収めた税金が間違った方法で使われてしまっていることもあります。今、行われているロシアとウクライナの戦争、イスラエルのガザへの侵攻は、決して、私たちと無関係のことではありません。どのような形であっても「日本」という国が、何かしらの形で「支援」をしているのであれば、それは私たちもその戦争に加担しているのだということを忘れずに、次の選挙で、正しい判断ができる人を選ぶ必要があり、選んだ後にお任せではなくて、常に政治に対しても声をあげていく必要があると思っています。

話を戻しましょう。私は何屋さんか、という話でしたが、私が仕事の依頼を受ける時には、このような感じです。

若者の退職が止まらずに困っています、どうすればいいでしょうか。

これからもっと会社を成長させたいと思っていますが、どのように組織づくりをすればいいでしょうか。そのような様々な悩みを伺います。

もしかするとこんな悩みもあるかもしれません。

「いや、実はね、会社で雇った人がいるんだけど、給料に不満があるみたいなんですよ。会社としては約束通りの給料を払っているんですよ。でも、あの人のほうが私より短い時間しか働いてないのに、なぜ同じ給料なんですかって不満が出てるんです。会社としては約束通りなんですが、どうすればいいんですかね」

どこかで聞いたことがある話ですね。そうです。今日の聖書の箇所として読んでいただきましたぶどう園の喩えです。

改めて、今日の聖書箇所を確認していきましょう。ぶどう園の主人が、労働者を雇うために夜明けに町に出ていきます。そしてまだ夜明けだというのにそこには仕事を求める人がいました。その人たちに「一日1デナリオン」の約束でぶどう園で働いてもらうことにします。1デナリオンというのは、健康な成人男性労働者の平均的な日当であると書かれていました。成人男性一人の日当ですので、家族を養うには足りない金額であったと思います。主人は、その後も9時、12時、15時と町に出ていき、人を雇っていきます。そして、その日の17時にも出て行って人を雇います。さて、仕事が終わって、賃金をもらう時に問題が起きます。最後に来た人から賃金をもらうことになり、17時に来た人が1デナリオンを受け取りました。それを見た夜明けから働いている人は、もっと多くもらえるだろうと期待していました。しかしなんと同じ賃金です。

聖書には

20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。

20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

と怒りと不満を主人にぶつけます。夜明けから働いている人にとっては、とんでもない話かもしれません。その怒りに対して、主人はなんと答えたでしょうか。

20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。

20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

と、ますますとんでもない驚く答えです。

さて、今回の説教に際し、もし私がこのぶどう園の経営者から仕事の相談を受けたらどのような対応をするだろうかと考えてみました。

まずはぶどう園のヒアリングを行います。本当に約束通りの支払いがされているのか、それぞれの時間に来た人はどのような仕事をしているのか、十分な聞き取りをしてから、きっと経営層にはこんな話をします。

「やはり給料の不満は大きなモチベーション低下につながります。給与を明確にして、働いた分、正しい評価ができる制度にしましょう。頑張って働いてくれた人を正しく評価して、たくさんの給料を払うようにしましょう。誰がどのくらい働いているかを「見える化」して、わかりやすい評価制度を作りましょう」と。評価制度というのは、従業員の給料を決めるわかりやすいルールのことです。多くの企業ではこの評価制度を入れることで、従業員の働く意欲を高めています。

もちろん、同時に労働者への研修も行います。そのようにして、毎月、定期的にぶどう園を訪問して、3年くらいかけて、組織を変えていきます。しっかり働く人が正しく評価される評価制度も取り入れ、また研修も続けることで、みなさん働きやすくなると思いますし、ぶどう園の事業拡大も期待することができます。

実は、私は長い間、この聖書箇所を読むたびに強い違和感を感じていました。最後に来た人と夜明けから働いている人が同じだなんて、頑張っているのに、それはひどいんじゃないかという違和感であり不満です。

では、もし、天の国も、この世のように、わかりやすい評価制度があり、その人の働きに応じていただける恵みが変えられる場所であったらどうでしょうか。

クリスチャン歴の長さに応じて神様からの恵みの量が変わる。教会での働きに応じて、もしくは献金額に応じて、与えられる恵みに差が出る。たとえば、私の主人のカツオは、クリスチャンでもないですし、献金額も多くありません。また、みなさんがご存知通り、2017年の8月に脳梗塞で倒れ、それ以来、失語症です。そのため、上手に主の祈りを祈ることはできません。もちろん、教会での働きはほとんどありません。そうすると、彼への恵みはほとんどない、ということになりそうですね。

もし天の国にもこのような評価制度があると、もっと教会で仕事をしないと評価されない、もっと良い働きをしないと救われない、献金額を増やさなければ、1500万円のツボを買わなければ救われない、、、そんなことになるかもしれません。そんな天の国に行きたいでしょうか。そして私たちが信じている神様はそんなにケチな神様なのでしょうか。

先月、六月末に私の誕生日旅行で神戸に行ってきました。今回の神戸旅行では、「神戸バプテスト教会」の礼拝出席をするということを一つの目的にしました。神戸バプテスト教会には私が少年少女時代にお世話になった井形英絵牧師がおられまして、先生にお会いできることをとても楽しみにしておりました。

その日の夜、井形牧師と食事をさせていただく機会を与えられたのですが、先生はこんなことを言ってくださいました。「主の祈りの時に、カツオさんの声が聞こえてきて、あぁ声が聞こえるなぁ。嬉しいなと思っていました。」と。神戸教会はとても大きな礼拝堂ですので、井形先生が立っておられる講壇とカツオの席はとても距離がありましたが、カツオの声が聞こえたとおっしゃいました。

もし神様がそれぞれの働きによって恵みを変える神様だったとして、カツオには十分な恵が与えられないと分かったら、きっと私は神様にこうお願いすると思います。「いえいえ、カツオはとても心を込めて主の祈りを祈ってくれています。スラスラ言えなくても、心を込めて祈っています。もちろんまだクリスチャンではないですが、毎朝、起きて一番に聖書も読んでいます。私よりずっとたくさん聖書を読んでいます。朝食ではカツオがお祈り担当ですが、祈りに覚える方々のお名前を一人一人丁寧に声に出しながら祈ってくれています。だからカツオにも同じ恵みを与えてあげてください」。どうでしょう。私たちが信じる神様は、そんなことをいちいちお願いをしなければならないような神様なのでしょうか?

改めて、この聖書を見直してみたいと思います。みなさんは、なぜ最初の人が怒りと不満を持ったのかを考えたことがありますか?恥ずかしながら、今回、初めて、じっくりとこの聖書と向き合う時間を与えられたときに、私は初めてそれを考えてみました。

不満が出た理由はとてもシンプルでした。最後に来た人から給与の支払いがされて、夜明けに来た人が、最後に来た人の給与を知ってしまったからです。もし、夜明け前に来た人が、最初に賃金をもらっていたなら、この不満は出ていないはずです。

夜明け前に来た人たちは、最初から不満を持っていたでしょうか?きっとそんなことはないはずです。この人たちは夜明け前に町に出ています。きっとそれは「人より早く町に行かないと仕事にありつけないかもしれない」という不安があったからかもしれません。他の人に仕事を取られてしまう前に、自分の仕事をもらうために必死だったのかもしれません。そして、予定通り、夜明け前にぶどう園の主人に出会い、朝から仕事に行くことができ、給料も保証されて、確かに労働は過酷だったかもしれませんが、あぁよかったとなっていたでしょう。もしかしたら「なんとか家族に合わせる顔ができた」と思った人もいたかもしれません。夜明けから働き、約束通りの賃金をもらい、彼らの望み通りになっているはずでした。しかし、賃金をもらう時に、最後に来た人が自分と同じ給料をもらっていることに気づいて不満が出ました。つまり自分と人を比べた時に、不満が出たのです。

私たちはいつも自分と人を比べています。自分の幸せがどの程度の幸せなのかを自分ではない誰かと比べています。比べることで私はあの人よりたくさん持っている、あの人より少ないと自分の持ち物を判断しています。今まで十分だと思っていたものが急に「足りない」と思えるもの、自分と人を比べた時です。そして時には、今の自分と過去の自分を比較します。他人と比べずに自分の過去と比べて、自分は今、こんなにできなくなった、少なくなった、と気持ちが沈んだり、不満が出たりするのです。

ぶどう園の主人を大きな愛を持った神様だと考えた時、聖書にはこう書かれています。

20:13 『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。

20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

私はこの「自分の分を受け取って帰りなさい」という言葉を「すでにあなたには十分に私の恵は与えられている」というメッセージだと感じました。誰とも比べなくていい、あなたにはすでに十分に与えられていると。分け隔てなく「みんなが大事」とおっしゃる神様は「最後のものにも同じようにしたい」とその大きな愛を示してくださいます。

そして同時に覚えておきたいのは、私たちが自分たちの「働き」を考える時は、それはいつも「人間の持つ尺度」でしかないということです。私たちの持つ尺度は、私たちが持つ尺度でしかなく、神様の尺度ではないということです。良き働きというのは、私たち側が決めることではないのだと思います。そしてもちろん、誰かと比べるものでもないということです。私の母は、教会が大好きな人で、いつも楽しそうに教会での奉仕をしています。日曜日の夕方は「今日も疲れた〜」といいますが、「疲れるならやめれば?」と私がいうと「だって、教会楽しいもん。ぜんぜん嫌じゃないもん」といいます。それは最近になって子育ても終わり、時間ができたからではなく、私が幼い頃からずっとそうでした。子育ても仕事も一番忙しかった時期であっても、母が教会の奉仕に関して、不満を言う姿や嫌々やる姿は見たことがありません。もちろん、誰かとその働きの量を比べることもしたことはありません。

確かに、私たちの世界では、頑張る必要があります。今、この瞬間も、働かなくては生活ができないという方もおられます。ビジネスの世界では、冒頭にお伝えした通りに頑張った人が評価される制度があります。いつも誰かの働きと自分を比べていますし、比べられています。しかし、本日の聖書箇所は、20:1 「天の国は次のようにたとえられる。」と書かれています。つまり、天の国では、これまで見てきたような、それぞれの働きに応じて恵みが変えられる、もしくは、誰かと比べられて評価される、そのような場所とは正反対であると教えてくださっています。

その働きや時間の長さに応じない恵みをいただける場所、そのような天の国があることに気づけた時に、私たちは心底安心できるのではないでしょうか。

私たちの神様は私たちを無条件に愛してくださっています。人間が勝手に決めた尺度でいう「仕事ができる人」も「できない人」も関係なく、変わりなく同じように愛してくれるのです。上手に話ができる人も、話ができない人も、動きが早い人もゆっくりな人も、そもそも、そのような「働き」という尺度なんてなしに、その人の存在そのものを愛してくださる。神様の目で見れば、私たちが働いているか、働いているかは関係なく、そこに存在していることを「良し」としてくださっている。そして、与えられているその恵みは誰とも比べる必要がないものです。

私は天の国に、ビジネスの世界にある評価制度がなくてよかったと思います。その視点でこの聖書を読み直して見ると、この物語は、不公平でも何でもなく、なんて、嬉しい譬えだろうかと思えるのです。何も心配しなくていい、誰とも比べなくていい、あなたには十分に恵が与えられている、そしてそれが約束されている、ということを教えてくれています。

私たちに与えられているのは、誰が多い、少ないと、人と比べる必要のない愛であり、恵みです。今、この瞬間に、私たちには十分に愛が与えられています。今、ここで受けている愛を喜びいっぱいに受けて、この1週間に歩み出したいと思います。

お祈りします。

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