2025年6月15日主日礼拝「なぜ、神は散らされたのか」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、創世記11章1節〜9節。

新共同訳旧約聖書13ページ〜14ページです。

11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。

11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。

11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。

11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。

11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、

11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。

11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。

11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。

「なぜ、神は散らされたのか」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

おはようございます。

今日も最初に子どもメッセージからしたいと思いますが、先週まで私たちは「ノアの物語」を読んできました。

それに続いて、今日は「バベルの塔」っていうお話をしたいと思います。

「バベルの塔」って、聞いたことあるでしょうか。

どんなお話か、今日もまず、紙芝居で読んでみたいと思います。

1、「バベルの塔」

2、昔々、世界がまだ一つの言語で話していた時代、東の方から大勢の人々が、シンアルの地にやってきました。

3、そこで彼らは話し合いました。

「この場所に、天まで届く塔のある町をつくろう。

そして、私たちがどれだけ力を持っているか、見せてやろう。

そうすれば、バラバラにならず、ずっとこの場所で、暮らすことができる。」

4、人々は、天まで届くほどの、高い高い塔をつくり始めました。

5、その様子を見て、神様は言いました。

「このままではいけない。

彼らの言葉を混乱させ、わからなくしよう。」

6、すると人々は、互いに何を言っているか、わからなくなってしまいました。

7、人々は、塔を建てるのも、町をつくるのもやめて、好きなところに散っていってしまいました。

これが、「バベルの塔」のお話です。

このお話で、今日考えたいのは、なんで神様は、言葉を混乱させ、わからなくしてしまったのかということです。

私は、言葉が一つだったら、どんなに良いだろうって、思います。

言葉が一つだったら、外国の人とも、もっと簡単に仲良くなれる。

外国にだって、もっと気軽に、行くことができる。

もしかしたら、戦争だって起こらなくてすむかもしれない。

だから、なんで神様は、言葉をバラバラにしてしまったんだろうって思います。

なんででしょうか。何がいけなかったんでしょうか。

神様が、言葉をバラバラにした原因。

それは、どうやら、人々が、天まで届く塔を建てようとしたことにあったようです。

聖書を読んでみると、神様は、わざわざ降りてきて、人々が建てた塔のある町をご覧になったって書いています。

そして、このままじゃいけないって思われた。

何がいけないって思ったんでしょうか。

天まで届くほどの高い塔のある町なんて、すごいな、かっこいいなって思ってしまいますが、何がいけなかったんでしょうか。

8、私は、この絵を見たときに、あれって思いました。

塔を建てている人たち、どんな顔をしていますか。なんか苦しそうですよね。

考えてみると、天まで届く塔を建てるって、ものすごい大変だったと思います。

今は、機械がありますが、この時代にはまだありません。

トラックもないし、クレーンもない。

全部、人の力で、つくらないといけない。

そんな中で、とても危険で、大変な作業をしていた人たちがいたわけです。

その人たちは、本当にこんな高い塔をつくりたいって思っていたでしょうか。

当然、「こんな作業したくない。塔なんていらない」って思っていた人たちもいたと思います。

だけど、嫌だって言えない。力づくで、塔をつくらされていた。

そんな人たちのことを見て、神様は、このままじゃいけないって、言葉をバラバラにしたんだと思うんです。

9、言葉がバラバラになった途端、人々は、バラバラになってしまいました。

本当にこの町が良い町だったら、本当に仲の良い町だったら、こんな簡単にバラバラにはならなかったと思います。

言葉がわからないっていうのは、確かに大問題です。

でも、もし、その相手が、大切な仲間だったら、家族だったら、どうしますか。

簡単に離れるなんて、できないと思います。

言葉が通じなくても、体とか身の回りのものを使って、なんとかしようって思うでしょう。

人々がバラバラになったのは、言葉のせいだけじゃなかった。

もともと、バラバラだったんじゃないか、私はそう思います。

それを力ずくで、無理やり、繋ぎ止めていた。

だから、言葉がバラバラにされた途端、みんな離れていってしまったんだと思います。

この物語を通して、今日覚えたいのは、力じゃ一つにはなれないってことです。

つながりつくっていくために必要なのは、力じゃない。

相手を愛すること、大切にすること。

神様のように、人の苦しみとか、痛みを理解すること。

そうやって、私たちは、一つになっていくんだってことを、今日は、覚えておきたいと思います。

お祈りします。

・導入

今、話しました通り、今日は「バベルの塔」の話です。

この話の中で、特に今日、ご一緒に考えたいのは、タイトルにもありますように、「なぜ、神は散らされたのか」ということです。

今年度の大分教会のテーマは、週報の表紙にもありますように、「キリストは私たちの平和~二つのものを一つに~」です。

二つのものを一つに、異なる者どうしを一つに結び合わさてくださる。

そんな和解の神様が、なぜ、民を散らすようなことをされたのか。

そのことを、ご一緒に考えたいと思います。

・なぜ言葉がバラバラに?

物語は、世界中の人々が同じ言葉を使っていたというところから始まります。

先ほども言いました通り、私は、言葉が一つだったら、どんなに良いだろうって思います。

私はこれまで、何度か外国に行ったり、外国人に出会ったりすることがありましたけれども、その度に、言葉が通じなくて、悔しい思いをしてきました。

そして、その度に、言葉を覚えたいと思うんですが、努力できずに、挫折してしまうという、そんなことの繰り返しなんですが、

そんな私からすると、言葉が一つなんて、素晴らしい世界だなと思うわけです。

もうそのままにしておいて欲しかった。

それなのに、神様は、バラバラにしてしまった。いったい何があったんでしょうか。

きっかけは、シンアルの地に移住してきた人々が、天まで届く塔のある町を建てようとしたことでした。

この塔が「バベルの塔」と言われるものですが、注目すべきは、この塔を建てる目的です。

彼らは、何のためにそれを建てようと思ったのか。

目的は二つ記されています。

一つは、有名になるため。もう一つは、散らされないようにするためです。

・塔を建てた目的

まず有名になるということから考えていきたいと思いますが、有名になるために、彼らは、天まで届く塔を建てようと考えました。

重要なのは、それによって、どう有名になろうと思ったのかということです。

天まで届く塔を通して、どう有名になろうと思ったのか。

世界中の人々に、何を、知らせたかったのか。

考えられることとして、一つ思いつくのは、持っている技術の高さです。

彼らは、レンガとアスファルトをつくる技術を持っていました。

それは、当時、最先端の技術だったと言われています。

アスファルトなんていうのは、今も、道路を舗装するときに使われています。

そんな技術が、何千年も前にすでにあったというのが、驚きですけれども、

その技術の高さを知らせることによって、彼らは、自分たちの力を見せつけようと思ったのです。

自分たちが、どれだけ高度な技術を持っているか。

どれだけ、すごい力を持っているか。

そのことを、世に知らしめようと思った。

そうすることで、彼らは、散らされないようにしようと考えました。

この「散らされる」という言葉は、聖書において、よく、戦争に負けて、バラバラにされる描写として使われます。

ちょうど祈祷会で、エレミヤ書を読んでいますけれども、よくこの「散らす」という言葉が出てきます。

それは、具体的には、バビロン捕囚のことをあらわしています。

バビロンによって滅ぼされ、ある人は連れて行かれ、ある人は残される。

そうやって、イスラエルの民が散り散りバラバラにされることを、散らされるという言葉で、表現されているわけです。

しかも、このバベルの塔の物語が編纂されたのは、そのバビロン捕囚の時代だったと言われています。

散らされるということを実際に経験した民が、この物語を編纂したということです。

そんな彼らにとって、「散らされる」というのは、イコール「戦争に負ける」ということでした。

戦争に負けて、散り散りバラバラにされる。

それが、「散らされる」ということの内容だったわけです。

そういうことから考えると、「散らされないように」という言葉には、「戦争に負けないように」というニュアンスも含まれていたと思います。

「戦争に負けないように」、いや、その技術力の高さ、力の凄さを恐れて、攻めてくることもできないように、彼らは、天まで届く塔を建てようと思ったのです。

核兵器を抑止力と考える人たちと、同じ考え方だと思います。

核兵器を持つことで、相手に脅威を与え、攻撃させないようにする。

まあ、実際は、それでも戦争は起こっていますし、むしろ、その核施設が、攻撃の的となっています。

一昨日も、イスラエルがイランの核関連施設を攻撃したということがありました。

ですから、核兵器があれば、戦争を防ぐことができるなんて、そんな単純なものではないということですけれども、

でも、そんなふうに、脅威を与えることで、散らされないようにしようと、バベルの人々は考えたということです。

・降って行って、言葉を乱される神

神様は、そんな人々のところに降って来て、塔のある町をご覧になられました。

この「降って来て」という言葉も、とても大事な言葉だと思います。

バベルの人々は天を目指し、上へ上へと上って行こうとするのですが、それに対抗するように、神様は、下へ下へと降って来られた。

そして、民の言葉を混乱させ、理解できないようにしました。

すると途端に人々は、塔の建設も、町の建設もやめ、全地に散ってしまいました。

神様が散らされたと書いてありますが、実際に神様がされたのは、言葉を混乱させただけです。

確かに、それは、大変なことですが、でも、民の中に、強いつながりがあったなら、簡単にバラバラになることはなかったんじゃないでしょうか。

私たちの群れにも、留学生や、技能実習生の方が、来られていたことがありました。

あるいは、失語症のある方も、いらっしゃいます。

確かに言葉が通じないということは大変なことですが、でも、それでも通じ合おうとしています。

難しいですが、言葉の課題に向き合おうとしています。

でもバベルの人々は違いました。

彼らは、いとも簡単に、バラバラになってしまいました。

それは、そもそもの関係性に問題があったからではないでしょうか。

考えてみれば、同じ言葉を使っていたからと言って一致できるかというと、そんなことはありません。

私たちは、そのことを日々実感しています。

同じ言葉を使っていても、通じ合わないし、一致することも簡単じゃありません。

バベルの人々も、そうだったでしょう。

塔を建てることも、強い国をつくることも、みんながみんな一致していたわけではなかったと思います。

それを力によって支配し、統制することで、一致させていた。

それこそが、この町の真実の姿だったのです。

その中で、虐げられ、こき使われていた人たちがいたでしょう。

反対したがために、抑圧されている人たちもいたでしょう。

今、朝ドラで、戦時中の様子がやっていますけれども、戦争に反対することも許されないし、徴兵を拒むこともできない。

我が子が、兵隊に取られることを悲しむだけで、非国民扱いされ、牢屋に入れられる。

そういう時代が、この日本にもありました。

まさに、バベルは、そういう状況にあったのです。

そういう社会の中で、虐げられている人々。

社会の底辺に置かれている人々のもとへと、神様は降って来られた。

そして、彼らの苦しみや痛みをご覧になられた。

それで、神様は、言葉を混乱させたのです。

言葉が混乱したことによって、指示系統が乱れ、支配体制が崩れた。

それが、ある意味、民を自由にし、その結果、バラバラになったのです。

神様がバラバラにしたのではなく、民はもともとバラバラだった。

その多様性を拒み、力によって、強引に一致させようとした。

その間違いを、神様は、言葉を乱すことによって、お示しになったのだということです。

・力ではなく、愛によって

この物語を通して、私たちが学ぶべきなのは、力による一致はあり得ないということです。

力によって一致させるというのは、支配であり、暴力です。

そこには、必ず、虐げられる人々がいます。

神様は、そのような一致を決してお許しになりません。

神様が求める一致は、愛によるものです。

イエス様が言われた「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」という言葉は、私たちを一致へと導くものです。

異なる者たちが、それでも互いを尊重し、共に生きようと模索する。

その中で生まれる一致こそ、神様の求めておられる一致です。

そのためには、散らされるということも必要なのだと思います。

一つの場所、一つの価値観に留まるのではなく、散らされていく。

そして、異なる者と出会っていく。

そうやって私たちは、真の一致にあずかっていくようにと、招かれているのです。

バベルの塔の話に続いて、12章からは、アブラハムの物語が始まります。

アブラハムの物語は、まさに、散らされていく話です。

バベルの人々が、一箇所に止まろうとしたのに対して、アブラハムは、神の導きに従って、外へと出ていきました。

そのことによってアブラハムは、名もなき寄留者として、大変苦労するわけですが、でも神様は、そのアブラハムを祝福の源とされます。

彼を通して、どのように、祝福が広がっていくのか。

どのように一致が、生まれていくのか。

ご一緒に、読んでいければと思います。

お祈りします。

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