聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、創世記7章1節〜16節。
新共同訳旧約聖書9ページです。
7:1 主はノアに言われた。「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。
7:2 あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。
7:3 空の鳥も七つがい取りなさい。全地の面に子孫が生き続けるように。
7:4 七日の後、わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした。」
7:5 ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。
7:6 ノアが六百歳のとき、洪水が地上に起こり、水が地の上にみなぎった。
7:7 ノアは妻子や嫁たちと共に洪水を免れようと箱舟に入った。
7:8 清い動物も清くない動物も、鳥も地を這うものもすべて、
7:9 二つずつ箱舟のノアのもとに来た。それは神がノアに命じられたとおりに、雄と雌であった。
7:10 七日が過ぎて、洪水が地上に起こった。
7:11 ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた。
7:12 雨が四十日四十夜地上に降り続いたが、
7:13 まさにこの日、ノアも、息子のセム、ハム、ヤフェト、ノアの妻、この三人の息子の嫁たちも、箱舟に入った。
7:14 彼らと共にそれぞれの獣、それぞれの家畜、それぞれの地を這うもの、それぞれの鳥、小鳥や翼のあるものすべて、
7:15 命の霊をもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。
7:16 神が命じられたとおりに、すべて肉なるものの雄と雌とが来た。主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。
「おわりははじまり」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日もまず最初に子どもメッセージからしたいと思いますが、
私たちは今、3週にわたって、ノアの物語を読んでいます。
先週はその第一回目でしたけれども、どんな話だったか、覚えているでしょうか。
先週のお話は、ノアが大きな箱舟を造ったっていうお話でした。
全長150m、幅25mの巨大な箱舟でしたけれども、なんでそんな箱舟を造ったか。
それは、もう直ぐ洪水が起こるからでした。
神様はノアに言いました。
「もう直ぐ大雨が降って、山が覆われてしまうほどの洪水になる。
だから、私の指示に従って、大きな箱舟をつくりなさい。
そうすれば、洪水が起こっても、生きることができる。」
そう言われてノアは、箱舟を造っていきました。
こうやって神様は、命を守るため、命を未来へと繋いでいくために、ノアに箱舟を造らせたわけですが、
今日の箇所には、いよいよ、その箱舟に乗り込んでいく様子が書かれています。
その中で今日注目したいのは、今日の箇所の一番最後に書かれている言葉です。
なんて書かれているか。
「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」って書いています。
「戸」っていうのは、箱舟の扉のことです。
すべての生き物たちが乗り込んで、最後にノアが箱舟に乗った。
すると、ノアの後ろで、バタンと音がするわけです。
振り返ると、箱舟の扉が、閉じられていた。
想像すると、なんかちょっと怖い感じがしますけれども、なんで神様は、そんなふうにされたんでしょうか。
扉を閉めることぐらい、ノアにだってできたと思います。
なんでノアにさせずに、神様が戸を閉じられたんでしょうか。
それは、ノアに、迷いがあったからじゃないかなって思うんです。
ちょっと想像してみてほしいと思いますが、ノアが箱舟に乗り込んだ時、どんな気持ちだったでしょう。
後ろには、これまで生きてきた世界がありました。
思い出の場所があったり、住み慣れた街があったり、友達や仲間たちがいた。
戸を閉めるということは、そういう場所や友達と別れるってことです。
一方で、船の中には、何があったか。
そこには、ノアの家族と一緒に、たくさんの動物たちがいました。
この絵には、何がいますか。
キリン、ゾウ、ライオン、牛、これはカンガルーですかね。
聖書には、鳥もいたし、地を這うものもいたって書いています。
蛇とか、みみずとかでしょうか。
そんな生き物たちと、一緒に生きていかなきゃいけない。
想像するだけで、しんどいなって思いますが、
そんな状況で、簡単に戸を閉じるなんてこと、できなかったんじゃないかなって思うんです。
できることなら、後ろに戻りたい。
仲間と別れるのは辛いし、箱舟の生活に耐えられるかもわからない。
そんなノアにとって、「戸を閉じられた」っていうのは、むしろありがたいことだったんじゃないか。
ノアが、箱舟という新しい世界に入っていくために、必要なことだったんじゃないかって思います。
みんなにも、戸を閉じられるようなことがあるかもしれません。
たとえば、お引越しとか、卒園や卒業とか、新しいクラスになるときとか。
「もう前には戻れない」ってさびしくなったり、不安になることもあるかもしれません。
でも、その先には、新しい出会いや、新しい経験が待っています。
そのために神様は、戸を閉じてくださる。
私たちが必要な道へと進んでいけるように、神様は戸を閉じてくださるんだって、
今日は、そのことを、覚えておいてほしいと思います。
お祈りします。
・導入
先ほども言いましたように、今日の箇所には、ノアがいよいよ箱舟に乗りこむ様子が記されています。
そこには、徹底した神の裁きが語られていますが、同時に、恵みも語られています。
終わりに向かっていく世界の中に、どんな恵みが語られているのか。
ご一緒に聞いていきたいと思います。
・神の裁き
まずは徹底した神の裁きですが、それは、四十日四十夜降り続く雨という形でもたらされました。
私たちは、雨の怖さを知っています。
近年、毎年のように集中豪雨が起こり、大きな被害が出ています。
今年も、ちょうどそういう時期に入っていこうとしています。
大きな被害が出ないことを祈りたいと思いますが、
ただ、今日の箇所で語られています雨は、スケールが違います。
「およそ天の下にある高い山は全て覆われた」と書いてあります。
そんな大雨は、経験したことがありません。
この大雨について、聖書は「大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」と語っています。
これはどういうことかというと、下からも上からも、水が溢れてきたということのようです。
天地創造の場面で、神様は、「水と水を分けよ」と言って、大空の下と大空の上に水を分けさせられました。
「大いなる深淵の源がことごとく裂け」というのは、この下の水が、溢れてくる様子をあらわしていて、
「天の窓が開かれた」というのは、上に分けられた水が、降ってくる様子をあらわしているそうです。
それは、天地創造によって創られた秩序の崩壊であり、天地創造以前の混沌とした世界に逆戻りしていくような、そんな出来事だったということです。
これは、もちろん、自然現象ではありません。
神様の裁きとして語られています。
あまりにも厳しすぎる裁きだと思いますが、でも、元はと言えば、人間の悪がもたらしたものでした。
これは、先週学んだことですが、洪水が起こる前に、すでに「地は神の前に破滅していた」と記されていました。
神様が壊されるよりも前に、人間が壊してしまっていた。
そして、人間は、自ら、滅びの道を突き進んでいました。
ですから、何もしなくても、人間は滅んでいたということになります。
それなのに、神様は、わざわざその世界に介入された。
それは、神様が、単に、滅びを願っていたのではなかったということをあらわしています。
そして、そのことは、箱舟によって、より決定的に示されています。
・清くないものも、つがいで
壊れゆく世界の中で、神様はノアに、箱舟を造らせ、そして、乗りこませました。
そこには、清い動物だけでなく、清くない動物もいたと、語られています。
このことを思う時に、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」というイエス様の言葉を思い出します。
神様は、この世界を、清いものだけで満たそうとはされなかった。
そこに希望を感じます。
確かに神様は、洪水によって、あらゆる生き物の命を奪われました。
それは、先ほど言ったように、徹底したものでした。
でも、それで終わりではなかった。
箱舟に乗り込ませた動物たちは、それぞれつがいで乗り込ませたと記されています。
それは、新しい命を生み出していくためであり、新しい歴史を刻んでいくためです。
ノアの箱舟によって、また新しい歴史が、はじまっていく。
その新しい歴史に、清くないものたちも招かれているわけです。
それは、なんのためかというと、新しく生きるためです。
どんなに罪深い者であっても、神様は、古い自分を捨て、新しく生きるようにと、招いてくださる。
私たちにとって、その招きは、イエス様と結ばれて生きることへの招きです。
パウロは言います。
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
自分の力で、一生懸命、新しくなろうとするのではなく、イエス様と結ばれて生きる時に、新しくされていくんだということが、言われている箇所ですけれども、
ここにも、古いものは過ぎ去るという、一つの終わりが、語られています。
でも、同時に、そこから、新しいものが生まれていくということが、言われているわけです。
古いものを過ぎ去らせるお方は、同時に、新しいものを生じさせてくださるお方である。
世界の終わりは、新しい世界のはじまりにつながっている。
そう、教えられているのだと思います。
このことが、今日の箇所の最後にあります戸を閉ざされるということと、つながっていきます。
・戸を閉ざされた
すべての生き物が箱舟に乗り込んだ後、神は「戸を閉ざされた」と記されています。
それは、ノアにとって、退路を絶たれるような出来事だったと思います。
皆さんにもそのような経験があるかもしれません。
戸を閉じられるような、後戻りできなくされるようなことが、あるかもしれません。
でも、そのようにしてしか踏み出せない一歩もあるのではないでしょうか。
子供メッセージで言いました通り、箱舟に乗りこんだ時、ノアの心には、迷いがあったんじゃないかと思うんです。
一方では、古い世界に対する未練があり、もう一方では、新しい世界に対する不安もあったでしょう。
戸が閉ざされたことによってノアは、その想いを断ち切ることができた。
それによって、新しい世界へと踏み出していくことができたのではないでしょうか。
振り返ってみますと、私が牧師になっていく過程においても、そういうことがあったことを思い出します。
私は、大学3年生の時に、そのことを決心し、自分の母教会である札幌教会で、その想いを証させていただきました。
その時に、もう逃げられないと思いました。
その後、札幌教会で、推薦するかどうかという話し合いがされて、推薦の決議をいただいたのですが、その時も、もう逃げられないと思いました。
その後なんとか受験に合格しまして、神学部に行くことになったのですが、行く直前に、親戚のおじに呼び出されまして、
行ってみるとそこには、親戚一同が集まっておりまして、
その場で、そのおじから、「お前が牧師になることに、私は反対だ。
ここにいる親戚一同、みんな反対だ。
それでも行くっていうんなら、私たちと縁を切るつもりで行きなさい」って言われました。
言われた時は、とても悲しかったし、ショックでした。
私にとっては、まさに退路を断たれるような言葉でしたが、でも、そのことによって、覚悟が決まったといいますか、整えられた部分はあったように思います。
神学部に入ってからも、結婚したり、子どもが生まれたり、そうやって自分の献身が、自分だけのことじゃなくなっていく中で、どんどん退路を断たれていったことを思い出します。
そして、神学生4年目に、この大分教会に招聘をいただきました。
今でもよく覚えておりますけれども、大分教会の牧師になるということが決まった後ですね、神学部のミッションデーというのがありまして、そこに、Uさんご夫妻とT姉妹が来られまして、大勢の人がいる中で、「4月から村田神学生を牧師に迎えます」みたいなことを言われまして、もう決まっていたので別に良かったのですが、まだその時、私は、大学院の2年目で、卒業に向けて修士論文を書いておりました。
そのような状況で、「ちゃんと修論を提出して、卒業できたら・・・」みたいなことを言われたりしまして、ミッションデーの後で、指導教授のA先生から、「もう逃げられないな」と言われたことを思い出します。
でも、私のような弱い人間にとっては、そういうことも、必要なプロセスだったのだと思います。
人間っていうのはそんなに強くありません。
どうしても、誘惑に負けてしまったり、辛いことから逃げてしまう。
しんどいことを後回しにしてしまうということがあると思います。
それは、自分を守るために、時に、必要なことでもあるんですが、でも、進むべき道への妨げになることもあります。
神様が箱舟の戸を閉じたのは、ノアが、進むべき道へと進んでいくためだったのだと思います。
それによって、ノアは、古い世界への未練を断ち切り、新しい世界へと入っていくことができたのです。
・おわりははじまり
今日の箇所に語られている神様は、終わらせるお方であり、戸を閉じられるお方です。
そこには厳しさがあります。
でもそれは、新しい道へとつながっていました。
人生において私たちも様々な「終わり」を迎えます。
「戸を閉じられる」こともあるでしょう。
でもそこには新しい道が備えられている。
死もそうです。
避けることのできない死ですが、死ですら、新しい命の始まりであることを、聖書は教えています。
終わりは同時に、新しい始まりである。
神様は、その始まりのために、終わらせるお方であり、戸を閉じられるお方なんだということを、覚えておきたいと思います。
「終わり」を迎える時も、「戸を閉じられた」と思う時も、信じて踏み出すものとなっていきましょう。
お祈りします。