聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書24章13節〜35節。
新共同訳新約聖書160ページ〜161ページです。
ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
「見えないけれど、共にいる」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日もまず最初に、子どもメッセージをしたいと思いますが、二週間前に、イエス様が復活された話をしたの、覚えているでしょうか。
今日は、その続きで、復活されたイエス様が、弟子たちの前にあらわれたっていうお話です。
今日は、そのお話を、紙芝居で、読んでみたいと思います。
1、イエス様が十字架にかけられてから三日目。
死んだはずのイエス様が復活されたという噂が、広がっていました。
しかし、二人の弟子たちの心は沈んだまま。
復活なんてあり得ないと思っていたのです。
「復活なんて、そんなことあり得ない。
でも、墓が空っぽだったって、どういうことだろう。」
二人は、話しながら、エマオへの道を歩いていました。
2、するとその道中、一人の人が近づいてきて、言いました。
「何の話をしているんですか。」
二人のうちの一人が答えました。
「イエス様のことです。
エルサレムで何があったか、知らないのですか。」
3、もう一人の弟子も加わって、言いました。
「信じていたイエス様が、十字架に架けられて、死んでしまったのです。
もう望みはないと思っていました。
でも、復活されたなんて噂が広がっていて、戸惑っているんです」
すると、一人の人が言いました。
「ああ、心の鈍い人たちだ。
イエス・キリストは、苦しみを受けて、復活されるって、言っていたじゃないか。」
そう言って、聖書の話をされました。
二人は、その話に聞き入っていました。
4、エマオの村に近づいた頃、日が暮れてきたので、二人の弟子は言いました。
「もうすぐ暗くなります。
今日はどうぞ、泊まっていってください。」
一人の人は、泊まっていくことにしました。
5、夜、ご飯を食べていた時のこと。
一人の人は、お祈りをして、パンをさき、二人に分けました。
するとその時、「あなたはイエス様!。」
二人の弟子たちは、その人が、イエス様であることに気づきました。
6、ところが、その途端、イエス様の姿は、見えなくなってしまいました。
でも、二人は、嬉しくてたまりません。
「本当にイエス様は、復活されたんだ。」
「イエス様が、一緒にいてくださっていたなんて。
みんなに知らせよう!」
7、二人は、急いで、仲間たちのところに行き、復活されたイエス様が、一緒に歩んでくださったことを、伝えました。
これが、今日のお話ですけれども、この中で、今日覚えたいのは、気づかない時にも、イエス様は一緒にいるってことです。
二人のお弟子さんは最初、一緒に歩いている人がイエス様だって、気づかずにいました。
でも、気づいていなかっただけで、本当はずっと、イエス様は、いっしょにいました。
心が暗い時、悩んでいる時、祈っている時も、ご飯を食べる時も、イエス様は、ずっと一緒におられた。
そんなふうに、イエス様は、私たちとも、一緒におられるって、聖書は伝えているんだと思います。
私たちにも、心が暗くなる時があります。
不安になったり、怖くなったりすることがあります。
でも、そんな時、イエス様が一緒にいてくださる。
そのことを、思い出してほしいと思います。
どんな時も、イエス様は共にいる。
そのことを信じて、またここから、新しく、出発していきましょう。
お祈りします。
・導入
二週間前、私たちは、イースターを喜び祝いました。
その時には、隠れた命に目を向けました。
墓の中に命がある。
絶望の中に希望がある。
隠れているけれども、確かにある光に、心を向けました。
今日はその続きですが、テーマはとても重なっているように思います。
今日のテーマは、「見えないけれど、共にいる」です。
「隠れているけど、確かにある」と、「見えないけれど、共にいる」。
共通しているのは、私たちの目には映らないということです。
その目には映らないものを信じる信仰へと、私たちは招かれているのだと思います。
聖書を通して、ご一緒に、その招きを受けていきたいと思います。
・目が遮られていた弟子たち
今日の場面は、イエス様が十字架に架けられ、埋葬されてから三日目。
女性たちが、復活の知らせを弟子たちに告げた後の場面です。
墓の中に隠れていた命は、今や、はっきりと、あらわになりました。
復活されたイエス様は、エマオへ向かう二人の弟子たちの前に、姿をあらわされました。
でも不思議なことに、彼らはそのことに気づきません。
目の前にイエス様がいるのに、そのことが、わからないのです。
聖書には、彼らの目が遮られていたと記されています。
何が、彼らの目を遮っていたのでしょうか。
一つには、死んだ人がよみがえるはずがないという思い込みがあったのではないでしょうか。
三日前に死んだイエス様が、目の前にいるなんて思えないということです。
彼らは、イエス様が復活されたという女性たちの話も、”ざれごと”だと思って、信じませんでした。
真剣に語る女性たちの言葉を、”ざれごと”だなんて、酷い扱いだと思いますが、でも、それぐらい、ありえない話だと思うのは、よくわかります。
この”ありえない”という想いが、彼らの目を閉ざしていたのだと思います。
もう一つ、注目すべきは、彼らの沈んだ心です。
イエス様と出会った時、二人は、暗い顔をしていました。
そこには、大きな失望がありました。
21節にあるように、彼らは、イエス様に、「あの方こそイスラエルを解放してくださる」と望みをかけていました。
当時、イスラエルは、ローマに支配されていました。
その前はシリア、その前はエジプト、その前はマケドニア・・・。
イスラエルの民は、いつも、大国に支配されていました。
その中で、神の民であるという誇りも、傷つけられていました。
そんな辛く、苦しい状況が、いよいよ終わる。
イエス様こそ、大国の支配から、自分たちを解放してくださるメシアだと、そう信じて、彼らは、従っていたのです。
それなのに、十字架に架けられ、死んでしまった。
その失望感が、彼らの心を暗くし、彼らの目を遮っていたのです。
・共にいるイエス様
そんな二人の弟子たちに、イエス様は、近づいていかれます。
イエス様の方から近づき、一緒に歩き始められたというのが、とても大事なところです。
弟子たちがイエス様を見つけたのではありません。
イエス様が彼らを見つけ、歩み寄っていかれたのです。
そして、聞かれます。
「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」。
この問いに対して、クレオパは、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」と答えます。
ちょっと嫌な言い方ですが、でも、心が暗い時というのは、出てくる言葉もキツくなるものです。
しかし、さらにイエス様は、「どんなことですか」と尋ねます。
すると今度は、もう一人の弟子も加わって、二人で話し始めます。
言いたかったんじゃないでしょうか。
誰かに聞いて欲しかったんじゃないでしょうか。
トゲトゲした言葉ですが、イエス様は、悲しみや怒りも含めて、彼らの言葉を聞かれました。
でも、聞いて終わりではありません。
イエス様は、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言って、聖書全体を通して、ご自身のことを説明されました。
苦しみを受けて終わりではない。
苦しみを受けて、栄光に入る。
その言葉が、弟子たちの沈んだ心を熱くしていきます。
そして、食事をしている時、二人の目は開かれます。
イエス様がパンをとり、賛美の祈りを唱え、パンを割いてお渡しになった。
その瞬間、彼らは、一緒にいるのがイエス様であるということに、気づきました。
暗くなっていた心が熱くされ、やがて遮られていた目が開かれる時が来たのです。
・見えないけれど
この二人の弟子たちのように、私たちにも、希望が見えなくなることがあります
悲しみや失望、不安によって、心が覆われてしまう時があります。
そんな時、イエス様は近くにいてくださり、共に歩んでくださっている。
私たちの苦しみや悲しみを聞きながら、「そんなあなたが栄光に入れられるのだ」と語りかけ、沈んだ心に、希望の火を灯してくださるのです。
その姿は、私たちには見えません。
試練の只中を歩んでいる時には、尚更です。
大切な人を失った悲しみの時、病気や孤独と向き合う日々の中で、「主が共におられる」と言われても、全然響かない。
頭ではわかっても、心に響いてこない。
信じていればいるほど、そのことに苦しむわけですが、しかし、今日の箇所には、イエス様が弟子たちを見つけ、歩み寄っていかれたと書かれています。
私たちが見つける前に、イエス様が見つけてくださる。
そして、共に歩んでいてくださるのです。
こういうことは、「あとから」わかるものなのだと思います。
渦中にいる時には、なかなか気づけないし、見えない。
あとになって、振り返ってみると、守られていたとか、支えられていたとか、見えなかったことが見えてくることがあります。
イエス様が共にいるということも、そうだと思います。
その時には、気づけないし、見えない。
でも、確かにイエス様は共にいる。いつか、そのことに目が開かれる日が来るのです。
・信じて歩む
だから、「見えないこと」に落胆する時も、「信じること」によって歩んでいきたいと思うのです。
礼拝を献げている時も、祈りの時も、誰かとの出会いの中にも、「見えないけれど共にいる」、そのイエス様を信じて歩んでいきたい。
二人の弟子が、パンを裂く中でイエス様の存在に気づいたように、私たちの何気ない日常の中にも、イエス様は共におられます。
特に、心が沈み、先が見えない時こそ、イエス様は最も近くにいてくださる。
私たちがイエス様を探し出すのではなく、イエス様の方が、見えない私たちを見つけ、近づいてくださる。
そして、共に歩んでくださる。
これが、福音です。
この福音が、私たちの足元を照らし、日々の歩みに力を与えてくれます。
・見えないけれど、共におられると信じて
弟子たちの目が開かれたように、私たちの目も、やがて開かれる時が来ます。
見えないイエス様の語りかけと、共にいてくださる恵みによって、少しずつ開かれていくのでしょう。
見えない中でも、信じて歩むとき、やがて私たちも「確かにあの時、主は共におられた」と気づく日が来るのです。
「見えない」けれど「共にいる」。
そのことを信じて、またここから新しく、歩み出していきましょう。
見えないけれど、確かに共におられる主が、今も私たちと共に歩んでくださっています。 お祈りします。