2025年5月18日主日礼拝「顔を上げよ、声を上げよ」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、創世記4章1節〜8節。

新共同訳旧約聖書5ページ〜6ページです。

4:1 さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「わたしは主によって男子を得た」と言った。

4:2 彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

4:3 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。

4:4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、

4:5 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。

4:6 主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。

4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

4:8 カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。

「顔を上げよ、声を上げよ」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

おはようございます。

今日も最初に、子どもメッセージをしたいと思いますが、

今日の聖書の箇所には、カインとアベルっていう兄弟の話が書かれています。

ある時、二人は、神様に献げ物をしました。

カインも、アベルも、自分の用意できる精一杯の献げ物を、神様に献げました。

でも、神様は、アベルの献げ物にだけ目を留めて、カインの献げ物には目を留めませんでした。

そしたらどうなったか。

カインは、怒ったって書いてあります。

カインの怒り、どんな怒りだったと思いますか。

最初はショックから始まったと思います。

一生懸命献げ物を準備したのに、神様に喜んでもらえなかった。

ショック、悲しいって気持ちが湧いてきたと思う。

問題は、その悲しい気持ちが、どういうふうに怒りに変わっていったかってことです。

どんなふうに、怒りになっていったでしょうか。

「一生懸命準備したのに、なんで神様、喜んでくれないの。

なんで、アベルのは喜んだのに、僕のは喜んでくれないの。

おかしいじゃないか、神様。僕のも喜んでよ!」って、そういう怒りだったでしょうか。

どうやら、違ったみたいです。

そうやって怒ったら良かったんだけど、どうやら、違ったみたい。

聖書を読んでみると、カインの怒りは、神様じゃなくて、弟アベルに向けられていました。

弟アベルに対して、カインは、怒ったようです。

さあ、どういうふうに怒ったか。

ちょっと、想像してみてください。

カインは、弟アベルに対して、どんなふうに怒ったか。

「なんであいつだけ。

俺の献げ物は、目を留めてもらえなかったのに、なんであいつの献げ物は、目を留めてもらえたんだ。

むかつく。腹がたつ。

あいつさえいなければ。

あいつさえいなければ、俺の献げ物を、喜んでもらえたのに。

あいつさえいなければ。」

きっと、こんな感じだったと思います。

おかしいよね。

アベル、なんか悪いことした?してないよね。

カインの畑に行って邪魔をしたとかだったら、怒ってもいいと思う。

でも、そんなことは、聖書には書いていません。

カインが選ばれなかったのは、アベルのせいじゃない。

じゃあ、誰が悪いのか。

カインが悪かったのか。

もしカインが悪いことをしたんだったら、選ばれなくて当然です。

もしそうだったら、カインはここまで怒んなかったと思います。

一生懸命献げたのに、喜んでもらえなかった。

そのことが悲しくて、カインは怒った。

とするなら、怒るべき相手は誰か。

そう、神様しかいない。

カインが怒るべき相手は、神様だった。

神様も「顔を上げろ」って言っています。

これは、「文句があるなら私に言いなさい」ってことです。

「私がちゃんと聞くから」っていう、神様からのメッセージです。

神様に怒っていい。

神様に怒りをぶつけられる。

そのことが、私たちの救いになることがあります。

私たちも、生きていると、なんでこんなことが起こるんだ。

どうしてこんなことになるんだってこと、あると思います。

一生懸命頑張っているのに、テストで良い点取れないとか、大事な大会の前に怪我をして、出れなくなるとか。

そういう時、私たちは、すぐに誰かのせいにしたくなる。

あいつが悪いって言ってみたり、あるいは、自分のせいだって思って、自分で自分を傷つけてしまうこともあります。

そうやって、誰かを傷つけたり、自分を傷つけたりして、怒りを発散しようとしてしまう。

そんな私たちに、神様は、「私に言いなさい。私が聞くから」って言ってくださっている。

このことを、ぜひ覚えておいてほしいと思います。

神様に怒っていい。

神様に怒りをぶつけられる。

そのことが、私たちの救いになる日がきっときます。

今日は、そのことを、一緒に覚えておきたいと思います。

お祈りします。

これまで礼拝では主に新約聖書を読み続けてきましたが、旧約聖書も読みたいという要望をいただきましたので、しばらくは創世記から、特に、これまで礼拝で取り扱ってこなかった箇所を中心に、読んでいきたいと思います。

そこで、まず最初に選ばせていただきましたのが、カインとアベルの物語です。

ご存知の通り、この二人は、最初に創られた人である、アダムとエバから生まれた息子たちです。

いわば、人類最初の兄弟であるわけですが、しかし、この兄弟の間で、人類史上最初の殺人事件が起こってしまうという、大変ショッキングな話なんですが、なぜ、そんなことが起こってしまったんでしょうか。

どうしたら、おこらずにすんだのでしょうか。

ご一緒に考えてみたいと思います。

・なぜ、起こってしまったのか

3節から、

4:3 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。

4:4 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、

4:5 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。

ここにありますように、事件のきっかけとなったのは、神様の選びでした。

神様が、アベルとその献げ物には目を留め、カインとその献げ物には目を留めなかった。

このことにカインは激しく怒り、顔を伏せました。

そして彼は、怒りのままにアベルを襲い、殺してしまうわけです。

もちろん、アベルを殺害したということには共感できませんが、カインの怒りには共感できるように思います。

「心からの献げ物を準備した。

それなのに、アベルのものには目を留めて、自分のものには目を留めないなんて、ひどい。

なんでアベルだけ。

なんで自分には、目を留めてくれないんだ。」

私がカインだったら、そう思うと思います。

イエス様のたとえ話に、放蕩息子のたとえというのがありますけれども、あの話でも、そうでした。

放蕩の限りを尽くした弟息子を父親は最大限の歓待をもって受け止めるわけですが、

しかし、その歓迎の場に、お兄さんは怒って入ろうとしませんでした。

なぜか。

お兄さんはこう言うわけです。

「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。

言いつけに背いたことは一度もありません。

それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」

僕はこんなにお父さんに仕えているのに、子山羊1匹すら、くれたことがない。

それなのに、放蕩の限りを尽くした弟には、肥えた子牛を屠っておやりになる。

そんなの、おかしいじゃないかというですが、

こういう怒りは、きっと誰もが経験したことのあるものなんじゃないでしょうか。

私も二人兄弟で、私にも兄がいますが、なんで兄は勉強ができるのに、自分は勉強ができないんだと、妬ましく思ったことがあります。

同じ家に生まれ育ったのに、なんでこんなに差ができるんだと。

育て方、愛情の注ぎ方に差があったんじゃないかと、そんなふうに思ったこともありましたけれども、このようなことは、きっと誰もが経験することだと思います。

兄弟間だけじゃなくて、友人関係でもあるでしょうし、学校とか会社の中でも、起こることだと思います。

なんであの人は評価されて、自分は評価されないんだ。

妬み、嫉妬、そういう感情は、誰もが経験する感情だと思います。

でも、そんなよく経験するような感情が、殺人にまでつながってしまう。

福音書を読みますと、祭司長たちが、イエス様を訴えたのも、妬みのためであったと記されています。

妬みというのは、それだけ恐ろしい感情だということです。

だからこそ、カインとアベルの事件は、他人事では済まされない。

自分ごととして、聞いていく必要があるのだろうと思います。

・どうしたら良かった?①顔を上げろ

では、カインは、どうしたら良かったのでしょうか。

6節7節。

神様は、怒ったカインに言われました。

4:6 「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。

4:7 もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。」

この言葉には二つのメッセージがあるように思います。

一つは、結果が全てではないということです。

確かにカインの献げ物は、神の目に留まりませんでした。

しかし、それで彼の全てが否定されたわけではありません。

結果がどうあれ、精一杯を献げたのなら、顔を上げろと言われているように思います。

妬みの感情の根っこには、愛されていないという想いがあります。

あの人よりも、自分は、愛されていないように思う。

この人の方が、自分よりも、愛されていると思う。

そういう想いが、妬みに繋がっていくわけですが、カインの怒りの根っこにも、そういう想いがあったのだと思います。

神様は、アベルの方を愛している。

それに比べて自分は、愛されていない。

目を留めてもらえなかったということだけで、カインは、そう思ってしまったわけですが、本当にそうだったのでしょうか。

ある注解書にこんなことが書いてありました。

「カイン」という名前は、ヘブル語の「カーナー」という動詞に由来する。

その意味は、「得る」である。

1節の「私は主によって男子を得た」という、この「得た」という言葉かあら、「カイン」は名付けられた。

その名前は、神への賛美として与えられたものである。

カインは喜び祝われた者であり、存分に気にかけられている、と書かれていました。

「カイン」という名前には、神の愛が満ちている。

神の愛によって、彼は、生まれてきたということです。

人と比べたり、一面だけを捉えて、自分は愛されていないとか、自分なんてと思ってしまう。

そういうことが、私たちにもあるのではないでしょうか。

そうやって人と比べたり、一面だけにとらわれると、見えなくなってしまうということです。

カインは、アベルと自分を比較したが故に、見えなくなってしまったんだと思います。

アベルには目を留めたのに、自分には目を留めてくれなかった。

そのことばかりに目が奪われて、愛されていないと思ってしまったのです。

人と比べる時、見えなくなってしまう。

一面だけを捉えても、わからない。

今回は、たまたまそういう結果になっただけで、次に献げものをした時には、違う結果になったかもしれない。

だから、結果がどうであれ、精一杯を献げたのなら、それでいいじゃないか。

顔を上げろと、神様は言われるのです。

・どうしたら良かった?②声を上げろ

でも、そうは言っても、人と比べてしまったり、一つのことにとらわれてしまうのが、人間です。

だから、もう一つ、注目したいことがあります。

それは、「顔を上げる」という言葉です。

この「顔を上げる」という言葉は、「声を上げる」と訳すこともできるそうです。

「顔を伏せるのではなく、声を上げよ」つまり「私に訴えよ」ということです。

神様に怒っていい。

神様に怒りをぶつけられる。

もし、カインが、アベルではなく、神様に怒りをぶつけていたら、結果は違っていたのではないでしょうか。

彼は、怒りを発散する方向を間違えた。

それによって彼は、罪に飲み込まれてしまったのです。

神様に怒っていい。

神様に怒りをぶつけられる。

そのことが、私たちを、罪から救う力になるということを、覚えたいと思います。

「神に訴える」ということは、極めて信仰的なことです。

自分の中にある怒りを、誰かにぶつけるのではなく、神にこそもっていく。

それは、信仰者としての成熟した姿です。

十字架上のイエス様の叫びを思い起こします。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」

十字架上で、イエス様は、その想いを率直に、神様にぶつけました。

私たちは、この叫びがむなしく終わらなかったことを知っています。

神様は、私たちの叫びを聞いてくださる。

そして、その叫びに、応えてくださる。

そのことを信じたいと思います。

今、行き場のない悲しみや怒りを抱え、苦しんでおられる方はいないでしょうか。

行き場のない怒りを、そのままにしていてはいけません。

溜め込んだ怒りは、誤った方向へと発散され、人を傷つけたり、自分を傷つけたりしてしまう。

それだけ恐ろしいものであることを、覚えておきたいと思います。

耐えること、我慢することを美徳するような考え方が、私たちにはあります。

でも、私たちは、そんなに強くはありません。

気づかないうちにも、抑えられず、発散してしまうものです。

ですから、発散する方向を、間違えないでいたいと思います。

話せる人がいるのなら、信頼のできる誰かに、聞いてもらうということも良いと思います。

誰よりも、神様は、「私に訴えよ」と言っておられます。

神様に怒っていい。

神様に怒りをぶつけられる。

そのことが、私たちを、罪から救う力になります。

信じて、神様を見上げ、神様に声を上げていきましょう。

お祈りします。

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