聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書24章36節〜49節。
新共同訳新約聖書161ページ〜162ページです。
24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたこ ろ、言っておいたことである。」
24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
「信じられなくても」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日も最初に、子どもメッセージをしたいと思いますが、
今日の聖書の箇所には、復活されたイエス様が、弟子たちを派遣する。
イエス様のことを、全世界の人々に伝えるために、弟子たちを遣わす様子が記されています。
とても大事な場面です。
ここから、イエス様の福音が、全世界に広がっていった。
今日、私たちが聞いているイエス様のお話っていうのは、自然に、広がっていったわけじゃありません。
弟子たちが、広めていったんです。
これは、世界地図ですけれども、イエス様が生まれたのはどの辺かわかりますか?
そう、だいたいこの辺ですね。ユダヤのベツレヘムっていう町で、イエス様は生まれました。
そして、だいたいこの辺りで、活動されました。
今日の場面も、ここ、エルサレムで起こった話です。
ここで、弟子たちは、イエス様から、世界中の人たちに伝えなさいって言われて、遣わされていったんです。
今から、2000年近く前の話です。
まだ、スマホも、パソコンもありません。
飛行機も、車もない。
そんな時代に、弟子たちは、イエス様のことを伝えるために、世界に出て行ったんです。
エルサレムから始まって、ユダヤ、サマリア、ヨーロッパ、海を超えて、世界中へと広がり、私たちの住む、この日本にまで、イエス様のことが、伝えられてきました。
そうやってイエス様のことを伝えた、最初の人たち。
それが、今日の箇所に出てくる、イエス様の弟子たちだったんです。
そう考えると、イエス様の弟子たちって、すごいなって思います。
よく、勇気を持って、伝えて行ったなって思います。
だって、当時はまだ、復活なんて言っても、誰も信じてくれない。
十字架に架けられたイエスが、キリストだなんて言っても、誰も聞いてくれない。そんな時代です。
そんな中、弟子たちは、イエス様のことを伝えていきました。
そのおかげで、今日もこうして私たちは、教会に集まって、イエス様の話を聞くことができるわけです。
だから弟子たちは、本当にすごいなって思うんですが、でも、聖書によると、この弟子たち、最初からすごい人たちだったわけじゃなかったようです。
イエス様が捕まった時には、一目散に逃げ出したし、復活されたって話を聞いても、全然信じようとしなかったって書いてあります。
さらに、今日の箇所には、復活されたイエス様を見て、幽霊だと思って、怖くて震えたって書いてあります。
とてもイエス様のことを伝えていった弟子たちとは思えない。
弱くて、臆病で、情けない人たちだったってことが、書いてあります。
でも、私は、こういう弟子たちの姿を見る時に、ホッとするんです。
ああ、こんなんでもいいんだって思って、ホッとします。
私も、イエス様が目の前に現れたら、怖くて震えると思います。
ピンチになったら逃げますし、勇気もありません。
でも、それでもいいって言ってくださるのがイエス様なんです。
そして、そのイエス様に従っていく時、私たちは変えられていく。
あの臆病で情けなかった弟子たちが、イエス様のことを伝える人たちになっていったように、私たちにも力が与えられていくって、聖書は教えています。
だから、私たちも、イエス様の言葉を信じて、従っていく者になっていきたいと思います。
弱くてもいい、情けなくてもいい。
そのままで、私に従いなさいって言ってくれているイエス様のことを信じて、従っていきましょう。
お祈りします。
・導入
続けて読んできましたルカによる福音書も、今日で最後になります。
最後の場面には、復活されたイエス様が、エルサレムにとどまっていた11人の弟子たちと、その仲間たちの前に現れる様子が記されています。
イエス様は、彼らの真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように」と言われました。
しかし弟子たちは、亡霊を見ているかのように、恐れおののいたと記されています。
私たちにとっては、「亡霊」というよりも「幽霊」と言った方が、わかりやすいかもしれません。
つまり、弟子たちは、「幽霊だ」と思って、恐怖に襲われたわけです。
湖の上を、イエス様が歩かれた時にも、弟子たちは、「幽霊だ」と言って恐れたという話がありましたけれども、そんなふうに、弟子たちは、目の前にイエス様が現れても、なお、受け入れることができなかったのです。
見たら信じるって思ってる人、多いと思います。
奇跡を見たら信じる。
実際にイエス様を見たら信じる。
福音書にも、そういう人たちがたくさん出てきました。
メシアだという証拠を見せろという人たち、見たら信じてやろうっていう人たち、大勢出てきました。
でも、本当に見たら、信じられるんでしょうか、私たち。
弟子たちでさえ、見ても信じられなかった。
亡霊だと思って、恐怖に震えた。
これが、私たちのリアルなんじゃないでしょうか。
信じられない。
受け入れられない。
でも、そんな弟子たちの真ん中に、イエス様は立たれます。
そして、イエス様の方から、弟子たちに、近づいていかれます。
・具体的な交わり
これは、先週の場面と重なります。
エマオに向かう二人の弟子に、イエス様の方から近づき、共に歩まれた。
その中で、二人の目は、開かれて行ったわけですが、今日の箇所でも、イエス様は、弟子たちに近づいていかれます。
恐れ慄く弟子たちに近づいていかれた。
そして、まず、手や足を見せ、触らせたと記されています。
そうすることで、「亡霊なんかじゃない。私だ」ということを、示されたわけです。
しかし、それでも弟子たちは、信じられません。
今度は、喜びのあまり信じられなかったと記されています。
嬉しいけれど信じられない。
「いやいや、そんなはずがない」といったところでしょうか。
そんな弟子たちに、さらにイエス様は、焼いた魚を食べることを通して、ご自分が復活されたことを、示されました。
ここも先週の場面と重なります。
先週は、パンをさいて配った時に、二人の弟子は、イエス様だと分かったわけですが、焼いた魚を食べるというのも、そのことと重なるように思います。
そこには、生前の交わり、イエス様と過ごした日々を、思い起こさせるものがあったと思います。
そうやって、イエス様は、具体的に、弟子たちと交わることを通して、ご自身を示されました。
手や足を見せ、触らせ、焼いた魚を食べてみせる。
そういうことを通して、本当にイエス様が復活されたんだということを、弟子たちに、実感させていったわけです。
・聖書を悟らせ、遣わす
ここで終わりではありません。
さらにイエス様は、弟子たちの心を、聖書の言葉に向かわせます。
46節、47節イエス様は、聖書を悟らせるために、彼らの心の目を開いて言われました。
「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』
前半は、すでに起こったことです。
イエス様が復活された。
そのことを、改めて、御言葉を通して、悟らせたわけですが、後半は、これからのことです。
「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」
誰が、宣べ伝えるのか。
そう、それは、他の誰でもなく、あなた方だと、言われるわけです。
「あなたがたはこれらのことの証人となる。」
「証人となれ」ではなく、「証人となる」と言われています。
「努力して、頑張って、立派な証し人になりなさい」ではなくて、「もうあなた方は、立派な証し人になるんだ。そう決まっているんだ。だから大丈夫、信頼していきなさい」と言われるわけです。
復活の知らせを聞いても「たわ言」と思って信じず、復活されたイエス様を目の当たりにしても、受け入れなかった弟子たちに対して、イエス様は「あなたがたはこれらのことの証人となる。」と言われた。
そして、口だけじゃありません。
その使命を果たすために、「父が約束されたもの、これは、すなわち聖霊のことですが、聖霊をあなたがたに送る」と約束されます。
使命を与えるだけじゃなく、それを果たすために必要な力をも、イエス様は用意されていたということです。
こうして弟子たちは、あらゆる国の人々に、キリストの福音を宣べ伝える者として、整えられていったのです。
・特別じゃなくていい
特別じゃなくていいんです。
相応しくなくてもいいんです。
弟子たちは、宣教者として、相応しいから選ばれたわけではありません。
むしろ、ちっとも相応しくなかった。
彼らは、恐れと疑いに満ちた、普通の人間でした。
子どもメッセージでも言ったように、彼らがしたことは、すごいことでした。
でも、彼ら自身は決して、特別な人間ではなかった。
私たちと同じ、恐れと疑いに満ちた、普通の人間でした。
それでもイエス様は、彼らの只中に立ち、具体的に関わり、信仰の目を開き、聖霊を注ぐことで、彼らを整えていきました。
整った人が、選ばれたのではありません。
何も整っていない。
足りないところだらけの弟子たちが選ばれ、遣わされていくことを通して整えられていったのです。
私たちもそうだと思います。
私たちの信仰も、確信に満ちたものではありません。
試練に遭うとたちまち消えてしまうような小さなものかもしれません。
でもイエス様は、そんな私たちの只中に、今日も立っておられ、それでもいい、そのままで従ってきなさいと招くのです。
疑いがあってもいい。
恐れがあってもいい。
全てを信じられなくても、そのままで従ってきなさいと、イエス様は招くのです。
ですから、自分の弱さや足りなさを理由に、ためらうことはありません。
必要なものは、イエス様が整えてくださいます。
私たちにとって大事なのは、完全になろうとすることではなく、イエス様の招きに、今日、応えていこうとすることです。
唯一、弟子たちがしたのは、このことでした。
相応しい者じゃないけれど、整った者でもないけれど、それでも、イエス様の招きに応えて、踏み出して行った。
その一歩が、彼らの人生を大きく変えていきました。
不完全なままでかまわない。
ありのままの私たちと共に、イエス様は歩み、養い、整えてくださる。
そのことを信じて、イエス様の招きに応えていきましょう。 お祈りします。