2025年4月6日主日礼拝「あなたは今日、私と共に、楽園にいる」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書23章32節〜43節。

新共同訳新約聖書158ページ〜159ページです。

23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

「あなたは今日、私と共に、楽園にいる」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・導入

おはようございます。

4月になりました。

新年度、またここから共に、新しく、歩み出していきたいと思いますが、

さて、これまで私たちは、イエス様が、十字架に向かって歩まれる様子を続けて読んできました。

そして、いよいよ、今日と来週は、十字架に架けられた、イエス様の様子を読んでいきます。

今日は、その前半ですが、読むと、そこには、イエス様をあざ笑う人々の言葉が記されています。

・自分を救ってみろ

まず記されているのは、議員たちの言葉です。

議員というのは、ユダヤの最高法院、サンヘドリンの議員たちのことです。

イエス様を十字架に追い込んだ、まさにその首謀者たちですが、彼らは、イエス様をあざ笑って言いました。

35節、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

これに続いて、刑を執行するローマの兵士たちも、イエス様を侮辱しながら言いました。

37節「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

さらに、一緒に十字架に架けられていた犯罪人の一人も、イエス様を罵って言いました。

39節「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

「自分を救うがよい」「自分を救ってみろ」「自分自身と我々を救ってみろ」。

同じ言葉が、繰り返されています。

「まず、自分を救え。」

この言葉を聞く時に、私は、今の時代と同じだなと思いました。

「まず自分」「自分第一」「自国ファースト」。

自分というものに囚われている。

そんな自己中心の世界の中で、「自分を救ってみろ」と罵られながら、イエス様は、十字架に架けられていきました。

・「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

ただ一方で、彼らが放った問いは、大事な問いのようにも思います。

「メシアなら、なぜ、十字架に架かっているのか。」

「メシアなのに、神の子なのに、なぜ、イエス様は、十字架に架かっておられるのか。」

確かにイエス様なら、奇跡的な力で、十字架を降りることも、できたでしょう。

それなのに、なぜ、十字架を降りようとしなかったのでしょうか。

この問いに対して、今日の箇所には、とても大事なことが記されています。

それは、イエス様と、もう一人の犯罪人とのやり取りの中にあります。

この時、イエス様は、二人の犯罪人に挟まれていました。

一人は、先ほど言いました、イエス様を罵った犯罪人ですが、彼と共にもう一人、犯罪人がいました。

彼は、イエス様を罵る犯罪人に対して、言いました。

40節41節「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

さらに、彼は言います。

42節「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」

彼は、十字架を受け入れていました。

それだけのことをしてしまったという罪の意識を持っていました。

きっと、後悔もあったでしょう。

「なんでこんなことになったんだろう。

なんであんなことをしてしまったんだろう。」

でも、どんなに後悔しても、過去を変えることはできません。

「全て、自分の責任。自分が悪いんだ。

自分にはもう御国に入る資格はない。

イエスは、御国に行けるだろう。

でも、自分にはその資格はない。」

十字架上で、彼は、自分とイエス様との間に、深い溝があることを感じていました。

十字架に架けられているという状況は同じでも、行く先は、全く違う。

イエス様の行く先には、御国が待っているけれども、自分の行く先には、滅びしかない。

そんな絶望の中、最後の望みを託すように彼は、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願ったのです。

それが、滅びゆく彼の、せめてもの願いでした。

でも、そんな彼に、イエス様は、言われたのです。

43節「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

この言葉を聞いた時、彼は、どう思ったでしょうか。

さぞ、驚いたことでしょう。

きっと、想像もしていなかった言葉だったと思います。

「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

「いつか私と一緒に楽園に行くだろう」ではありません。

あなたは今日、もうすでに、私と一緒に楽園にいると言われた。

どこか遠い、別世界から言われたのでもありません。

同じように、十字架に架けられ、血を流しながら、イエス様は、このことを語られました。

もう何も心配することはない。

あなたが忘れられることもない。

あなたは決して一人じゃない。

御国に入る資格がないなんて、とんでもない。

もうすでにいるじゃないか。

「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

真っ暗だった彼の心に、光が差し込んだような、そんな瞬間だったのではないでしょうか。

・罪人と共にいるため

ここに、「なぜ、自分を救わないのか」という問いの答えがあると思います。

それは、十字架に架けられた彼と共にいるためです。

全てを諦めた。

生きることも、救われることも諦めた。

ただ一つ、せめて忘れないで欲しいと願った、そんな罪人と共にいるため。

そして、その罪人に、「あなたは一人じゃない」と伝えるため。

そのためにイエス様は、十字架に架かられたのです。

自分に囚われ、自己中心の世界に生きる人々は、「メシアなら、なぜ、十字架に架かっているのか」と問います。

なぜ、十字架から降りないのか。

なぜ、自分を救わないのか。

でも、イエス様は、メシアだからこそ、十字架に架かっているのです。

滅びゆく罪人を救うため。

彼に、あなたは一人じゃないと伝えるため。

そのために、イエス様は、十字架に架かっておられるのです。

ここに救いがあります。

救いというのは、苦しみが消えることではありません。

孤独が終わることです。

十字架というどん底にも、イエス様は来てくださる。

そして、共にいてくださる。

その時、そこは、楽園となるのです。

・おわりに

今日、わたしたちは、イエス様が十字架の上で語られた、ひとつの言葉に耳を傾けました。

「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

これは、単なる慰めの言葉ではありません。

これは、イエス様ご自身が、命をかけて罪人に語られた、決定的な宣言です。

全く希望が見えないその場所で、誰にも愛されていないと思っていたその人に向かって、イエス様は「あなたは私と一緒にいる」と言われた。

それは、彼が立派なことをしたからではありません。

何か善い行いを積んだからでも、教会に長く通ったからでもない。

むしろ、彼は、罰を受けるべき罪人でした。

でも、イエス様は、そんな彼と共におられた。

ここに、私たちの救いの原点があります。

救いというのは、私たちが何かを成し遂げたらもらえるというものではありません。

救いというのは、神からの恵みです。

神が、「あなたと共にいる」と言ってくださる。

その恵みによるものです。

十字架に架けられた罪人のように、私たちの人生にも、「こんなはずじゃなかった」と思うことがあるでしょう。

過去の過ち、消したくても消せない傷、

悔やんでもどうにもならないことが、誰にでも一つや二つはあると思います。

でも、たとえそうだとしても、今日、イエス様は、私たちに語りかけてくださいます。

「あなたは今日、わたしと一緒にいる。」

「あなたは決して一人じゃない。私は、あなたと共にいる。」

救いとは、問題がなくなることではありません。

苦しみが魔法のように消えることでもありません。

きっと私たちは、今日も明日も、問題に悩まされながら、苦しみながら歩むのだと思います。

でも、どんな闇の中にも、イエス様が共にいてくださる。

そのとき、そこはもう、ただの暗い場所ではなくなります。

そこに光が灯され、希望が生まれ、

孤独だと思っていたその場所が、

主と出会う場所、主が共にいる場所、すなわち「楽園」となるのです。

そしてこの救いは、誰か特別な人のためにあるのではありません。

十字架に架けられ、滅びゆく罪人に与えられたこの言葉は、今を生きる私たちにも、確かに届けられています。

新年度が始まり、私たちはまた、新しく歩み出していきます。

新しい環境、新しい出会い、新しい責任、新しい不安…

心が落ち着かず、先が見えないという人もいるでしょう。

問題を抱え、悩み、苦しんでいる人もいるでしょう。

希望が見えず、深い闇の中に置かれているという人もいるかもしれません。

でも、どんな歩みの中にも、イエス様は共にいてくださいます。

私たちが気づいていなくても、求める前から、イエス様は隣におられ、

「あなたは今日わたしと一緒にいる」と語っていてくださっています。

この約束を胸に、私たちも歩み出していきたいと思います。

今日、私の隣には、イエス様がいてくださる。

イエス様と共に歩む時、どんな一日も、

どんな苦しみの中にあっても、楽園になる。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

お祈りします。

恵み深い天の父なる神様。

御言葉を感謝いたします。

時に私たちは、自分の罪を突きつけられて、心を押し潰されそうになることがあります。

過去の過ちに縛られ、未来を恐れ、今日という日を不安のうちに歩むこともあります。

でも、そんな私たちに、「あなたは今日わたしと一緒にいる」と語ってくださるイエス様を、心から感謝します。

どうか、私たちがどこにいても、どんな状況にあっても、あなたが共にいてくださることを信じ、

あなたの言葉を支えとして、新しく歩み出していくことができますように。

この一年、あなたと共に歩む者として、整えてください。

私たちの主イエス・キリストの御名によって、祈ります。アーメン。

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