聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、エフェソの信徒への手紙2章14節〜22節。
新共同訳新約聖書354ページです。
2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、
2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、
2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
2:17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。
2:18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
2:19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、
2:20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、
2:21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。 2:22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
「キリストはわたしたちの平和〜二つのものを一つに〜」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日は、一冊の絵本を読みたいと思います。
1、「ちいさなしまのだいもんだい」っていう絵本です。
この絵本には、一緒に生きることの大変さと大切さが、描かれています。
読んでみたいと思います。
「ちいさなしまのだいもんだい」
2、昔あるところに、動物村がありました。
羊、ウマ、牛、豚、アヒルやガチョウたちが、それぞれ好きなところに家を建て、めいめい得意な仕事を受け持って、助け合いながら暮らしていたのです。
たまにはもめ事も起こりましたが、いろんな動物がいれば、それはまあ、当たり前。
完璧ではないにせよ、みんなはおおむね、満足でした。
3、アヒルやガチョウたちが住んでいるのは、村の外れの小さな島です。
地面がステキにぬちゃぬちゃしていて、緑の草がこんもり茂り、果物がたわわに実る美しい島でした。
4、けれどある時、一羽のガチョウが文句を言いました。
「ここは僕らの島なのに、どうして羊や豚が、いつもうろちょろしているんだい?」
「奴らは島の美味しい果物をみんな持っていっちまう」
「それにやたらと態度がでかい」
「そのうちに僕らが島から追い出されちゃうんじゃないか!?」
ガチョウたちはぐわぐわ、があがあ、騒ぎ始めました。
5、その夜、ガチョウたちは会議を開き、大きな声で演説をしました。
「諸君!我々の小さな島は、昔はもっといいところだった。
りんごはもっと赤くて、草はもっと緑で、何もかもがもっとずっと美味しかった!」
アヒルたちは、反対でした。
みんな一緒に暮らしたかったのです。
けれど、ガチョウの方が数が多いので、アヒルの意見は通りません。
6、次の朝。ガチョウたちは大きなくちばしで、グイグイと釘を抜いて、橋を壊しました。
これでもう、よそものは島に渡って来られません。
向こう岸では、羊や豚やウマたちが、悲しそうに首を振り、ため息をついていました。
ずっと一緒に仕事をしてきた動物の村の仲間なのに・・・。
7、はじめは、いいことばかりでした。
島は広々。おひさまキラキラ。みつばちブンブン、いいきぶん。
ところがしばらくすると、何だか前より、忙しくなってしまったことに気がつきました。
掃除に料理。畑仕事に家の修理。
苦手な仕事も全部自分たちでやらなくてはなりません。
馬や羊や豚や牛がいれば、手伝ってもらえたはずです。
8、夏が来て、緑の草が伸びました。
ガチョウは満足でした。
草を食べる羊や牛はいません。
草はじきにしおれて枯れてしまいました。
「それでも俺たちは、満足だよね!」
ガチョウたちのおばねはだらりと下がっていました。
秋には果物がたわわに実りました。
実をってくれる馬やヤギはいません。
ガチョウもアヒルもお腹を空かせたままでした。
「それでも俺たちは、満足だよね!」
ガチョウたちのお腹はギュルギュルなっていました。
9、冬になりました。
向こう岸では、いろんな動物たちが集まって、楽しそうに笑っています。
ガチョウたちは寒くてたまりません。
「そででぼおでだち、ばんぞくらよれ!」
ガチョウたちのくちばしは、こおっていました。
次の年は、もっとつらいものになりました。
その次の年は、もっとみじめになりました。
そして、その次の年・・・
10、キツネがやってきたのです。
キツネたちは、小さな島をじっくりとながめました。
キツネが来たことを知らせるおんどりはいません。
ブヒブヒ騒いで邪魔をする豚もいません。
大きなひづめで追いかけてくる牛もいません。
いるのは、おいしそうなごちそうだけ!
こりゃあいいや。かんぺきだね。
キツネたちはニンマリ笑いました。
11、そして、真夜中。しーっ、静かに。
キツネたちは島の様子を伺いました。
しゃぽっ。すーい、すーい。音を立てずに泳ぎました。
そろり、そろり、そろそろり。キツネたちが音もなく忍び寄ると・・・。
ばたばたばた、ばさばさばさ!ガチョウとアヒルたちは、羽を飛びちらせて、逃げ惑いました。
「だれか!助けて!」
12、向こう岸の動物たちは、飛び起きました。
橋がないので、助けに行くことができません。
けれど、それでも諦めずに、あらんかぎりの声でなき、騒ぎ立てました。
「ガンガンガン、ブヒブヒブヒ、モオオー」
そりゃもう、ものすごーい大騒ぎ。
静かにご馳走を食べようとしていたキツネたちは、うんざりして、暗闇の中へするりと消えていきました。
13、朝になると、ガチョウとアヒルたちは、向こう岸の動物たちにお礼を言おうと話し合いました。
そして、一緒に暮らしていた頃のことを、懐かしく思い出しました。
いろんな動物がいて、なんやかんやと揉め事があって、ちっとも完璧じゃなかったけれど、楽しかったよね。
あのころ、あんなに美しかった小さな島は、今はすっかり荒れ果てています。
さあて、そろそろなんとかしなくっちゃ。
そうだよ、まずは・・・、アヒルとガチョウたちは、木切れと、釘を集め始めました。
14、そうして少しずつ、少しずつ・・・ふたたび、橋をかけたのです。
15、やっぱり動物村は、こうでなきゃ!
かんぺき、ってわけではありませんけれどもね。
16、めでたし、めでたし。
「ちいさなしまのだいもんだい」っていう絵本でしたが、どうだったでしょうか。
この絵本を読みながら、私は、橋を壊したガチョウの気持ち、ちょっと、わかるなって思いました。
みんなも、一人になりたいって思うことが、ないでしょうか。
特に、兄弟なんかがいる人は、あると思います。
お菓子もおもちゃも、いつも半分。
ゲームを貸してあげたら、データを消されたりなんかして、悲しくなった経験、ないでしょうか。
私は、どちらかというと、悲しませていた方で、いつも、お兄ちゃんの漫画をトイレで読んでて、怒られていましたけれども、
でも、そんな私でも、一人がいいって、思ったことが何度もありました。
一人になったら、お菓子もおもちゃも、独り占めできるし、部屋だって、広く使える。
喧嘩だって、しなくてすみます。
だから、橋を壊したガチョウたちの気持ち、わかるように思います。
でも、橋を壊した後、どうなったか。
最初は、広々してて良い気分だったけど、だんだん困ったことが増えていきました。
果物はあるけど、取ってくれる馬やヤギがいない。
手伝ってくれる仲間がいないから、やることが多くて、つかれちゃう。
寒い冬には、一緒にあったまる仲間もいない。
そして最後には、キツネがやってきて、ピンチになりました。
そんなふうに、ガチョウたちは、橋がなくなって初めて、その大切さに気づきました。
そして、「やっぱり、みんなで一緒にいるって、大切だ。自分たちだけじゃ生きられない」って思うようになっていきました。
今日の聖書には、「イエス様は、わたしたちの平和です。二つのものを一つにしてくださる」って書いています。
イエス様は、私たちの間に、橋をかけてくださるお方です。
それは、私たちが一人では生きられないからです。
一緒に生きていく時、大変なこともあるけれど、でも、そこに平和が生まれ、そこに幸せが生まれていく。
そのために、イエス様は、繋がりの橋をかけてくださっているんだって、聖書は教えています。
一緒に生きていくっていうのは大変なことです。
その大変さに耐えられない時には、無理に一緒に生きようとしなくていい。
一人になる時間も必要だと思います。
でも、やっぱり私たちは、一人じゃ生きられない。
繋がっていくこと、一緒に生きることが必要です。
そのためにイエス様は、繋がりの橋をかけてくださっている。
そのことを、今日は、覚えておきたいと思います。
お祈りします。
・導入
子どもメッセージでは、「ちいさなしまのだいもんだい」という絵本を読みました。
この絵本の最後には、訳者あとがきとして、次のような文章が書かれています。
この絵本はイギリスのEU離脱をテーマに作られました。
ガチョウは離脱派で、アヒルは離脱反対派です。
皮肉とユーモアたっぷりに問題提起をした本作は「現代のおとぎばなし」として話題を呼び、ヨーロッパ各地で広く読まれています。
あひるとがちょうの小さな島は、大陸と決別するものの、やがてその選択を後悔。
交流を再開することでハッピーエンドになりますが、果たして現実はどうなるのでしょうか。
わたしたち日本人にとってEUの問題は少し遠い話かもしれません。
けれど、日本も小さな島です。
がちょうのきもちも、アヒルのきもちも、察することは難しくないような気がします。
さらに、家の近所や職場、学校、幼稚園など、身の回りでも、同じようなことが起きていそうですね。
ルーツや考え方、個性の異なる隣人と暮らしていくとは、どういうことなのか。
子どもたちといっしょに考えてみたいものです。
あなたは、がちょう?それとも、あひるですか?
と、このような文章ですけれども、イギリスがEUを離脱してから、5年が経ちました。
詳しいことは分かりませんけれども、現実は、絵本のようになっていくのでしょうか。
むしろ、世界では、自分ファーストの国が増え、様々なところで、築かれてきた橋が、壊されているように思えてなりません。
ロシアとウクライナの戦争もそうですし、トランプ関税もそうです。
コロナ以降、そういう流れが、非常に強くなっていることを感じます。
そして、この流れというのは、私たちにも決して無関係な問題ではありません。
この時代の中で、私たちは、どういう道を選び取っていくのか、問われているように思います。
・キリストの平和
今日、与えられております聖書の箇所には、「実に、キリストはわたしたちの平和である」と記されています。
「平和」と、一言に言っても、様々なイメージがあると思いますが、ここで語られている「平和」には、「二つのものを一つにする」。
「双方を御自分において一人の新しい人に造り上げる」。
「両者を一つの体とする」。
「両方の者が一つの霊に結ばれる」など、二つのものが一つに結び合わされていくイメージが、強調して語られています。
先ほどの絵本でいえば、橋をかけるということ。
固い言葉で言えば、和解とか、関係の回復、それが、イエス様の平和だということです。
では具体的に、イエス様は、誰と誰を和解させたのかということですが、手紙には、主に、二つの和解が語られています。
一つは、神と人の和解です。
特に、神と異邦人の和解について書かれています。
先ほど読んでいただいた箇所のちょっと前、11節からの箇所には、こう書かれています。
2:11 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。
2:12 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。
しかし、そんな異邦人であるあなた方が、イエス様によって、聖なる民、神の家族とされたのだ、ということです。
ここに、神と異邦人の和解があります。
そして、この結果、どういうことが起こったかというと、ユダヤ人と異邦人が、共に集って、神を礼拝するということが起こっていきました。
ユダヤ人と異邦人の、混合教会の誕生です。
ここに第二の和解があります。
ユダヤ人と異邦人の和解です。
この両者が、共に、同じ神を見上げて礼拝するというのは、本当に奇跡的なことでした。
かつて、この両者の間には、越え難い壁がありました。
11節にあったように、ユダヤ人は、異邦人のことを、割礼のない者、神の救いの外にいる者と考えていました。
そして、彼らを、律法を知らない汚れた者とみなし、関わりを避けていました。
エルサレム神殿の壁には、「ここから入る外国人は、死をもって罰する」と書いてあり、
実際、使徒言行録21章には、パウロが、エフェソ出身のトロフィモを神殿の境内に連れて入ったということで、ユダヤ当局に逮捕されたということが書いてあります。
このように、ユダヤ人と異邦人との間には、大きな壁があったのです。
でも、パウロは、その壁が、イエス様によって、取り壊されたと語るのです。
実際、エフェソの教会には、ユダヤ人も異邦人も集い、共に礼拝を献げていました。
これこそ、イエス様がもたらした平和でした。
・平和は1日してならず
でも、それで全てが解決したわけではありません。
当然です。
昨日まで、交わることがなかった両者が、いきなり一つになるなんて、無理なことです。
彼らは、一つになるためのスタートに立っただけで、依然として両者の間には敵意があり、壁がありました。
言葉の違い。割礼のあるなし。律法理解の違い。
それぞれが持っているアイデンティティーが、ぶつかり合い、対立しあっていました。
そんなエフェソ教会の人々に、パウロは、両者が共にいることがいかに奇跡的なことか。
そして、そのためにイエス様が、どれほどの犠牲を献げられたか、十字架の重みを繰り返し語っています。
両者が対立したり、排除しあったりすることは、その恵みを無にすることに他なりません。
キリストによって、せっかく一つになる道が開かれたのだから、もう敵意を抱かなくていい。
どっちが神の民に相応しいなんて、いがみあったり、きそいあったりする必要もない。
あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族なんだと、そうパウロは、語るのです。
ユダヤ人と異邦人が、共に集い、礼拝を献げるのは、彼らが、気の合う仲間だからではありません。
むしろ、両者は、いがみ合い、憎しみあっていました。
そんな両者が、それでも共に礼拝を献げるのは、それがイエス様の御心であり、それが教会に与えられた使命だからです。
イエス様が与えてくださった共に生きる道を喜び、キリストの平和を生きていく。
そこに、平和を実現する人々の幸いがあるのだと、イエス様は教えています。
・互いに愛し合いなさい。
でも、どうしたら一つになっていけるのでしょうか。
かなめ石は、イエス様です。
イエス様抜きにして、一つになることはできません。
そのイエス様が、最も大事なこととして、教えてくださっていること、それは、互いに愛しあうことです。
ヨハネによる福音書13:34「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
イエス様は、弟子たちの足を洗いながら、このことを話されました。
愛し合うというのは、互いに足を洗い合うということです。
汚い部分も含めて、受け入れあっていくということです。
それは、決して、綺麗事では済まないでしょう。
傷つくこともあれば、傷つけてしまうこともあるでしょう。
でもそうやって、キリストの平和は実現していくのです。
・教会の大問題
今日、この礼拝の後、大分教会の定期総会が行われます。
その中で、今日読んでいますこの聖書箇所が、年間テーマ聖句として提案されます。
最初、このテーマ聖句を執事会で共有した時、今、大分教会には、エフェソ教会のような問題はないのではないか、と言われました。
確かにそうだなと思いました。
エフェソ教会で起こっていた、ユダヤ人と異邦人の対立のような、大きなものは、私たちの教会にはないかもしれない。
でも、果たしてそれは、良いことなのでしょうか。
対立がないということは、平和だし、一見、良いことのように思います。
しかし、見方を変えれば、教会が、同質の人たちしか集まれない場所になっている、ということかもしれません。
私たちは、気づかないうちに、小さな島になってしまっているのかもしれない。
そうならば、これは、教会の大問題です。
確かに、エフェソ教会には、対立があり、争いがありました。
しかし、それは、異なるもの同士が、一つになっていくためのプロセスだったのかもしれません。
大事なのは、違う者同士が出会い、時にぶつかりながらも、キリストによって一つとされていくということです。
教会は、違う背景、違う考え方、違う性格を持った人たちが、キリストにあって新しくされ、組み合わされていく場です。
そのプロセスにおいては、衝突や違和感が生まれることもあるでしょう。
でも、それを避けて、組み合わされていくことはできないのだと思います。
エフェソ教会のように、対立の痛みを通ってでも、和解と一致を目指していく。
そこに、キリストの平和が現れていきます。
そして、そのプロセスこそが、教会にとっての成長であり、祝福なのだと思います。
ですから、たとえ今、目立った争いがないように見えても、 私たちは「平和だ、平和だ」と言って、安心してはいけないのかもしれません。
むしろ、自分たちがいつの間にか「似た者同士の小さな島」になっていないか、 本当に「異なる者をも受け入れる場所」になっていこうとしているのか、問い続ける必要があるのだと思います。
この教会が、そして、この社会が、キリストの平和を土台として、ますます多様な人が集い、つながり、互いを受け入れ、支え合っていく場所となっていくことを、願います。
そのためにも、今、与えられている一人一人との関係を大切にしたいと思いますし、私たち自身も、橋をかけ、橋を渡っていく者となっていきましょう。
お祈りします。