聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書24章1節〜12節。
新共同訳新約聖書159ページ〜160ページです。
24:1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
24:2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
24:3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
24:4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
24:5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
24:6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
24:8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
24:9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
24:11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
24:12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
「命は、隠れている」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日も、最初に子どもメッセージをしたいと思いますが、
今日は、みなさん、何の日か、知ってますか。・・・そう、イースターですね。
イースターっていうのは、イエスさまが復活されたことをおぼえて、お祝いする日です。
教会にとっては、とっても大切な日なんですが、
この大切な日に、みんなと一緒に覚えたいことがあります。
それは、「いのちは、かくれてる」っていうことです。
さっき、「球根の中には」っていう歌を歌いました。
その歌詞には、こんな言葉があります。
球根の中には 花が秘められ、
さなぎの中から いのちはばたく。
寒い冬の中 春はめざめる。
その日、その時をただ神が知る。
これは、何でしょう。
そうこれは、チューリップの球根です。
なんか玉ねぎみたいですが、この玉ねぎみたいな球根から、綺麗なチューリップの花が咲きます。
では、これは、なんでしょう。
これは、モンシロチョウのさなぎです。
なんか木みたいですけど、でも、このさなぎからも、こんな綺麗な蝶が生まれる。
こんなふうに、球根の中には、チューリップのいのちが隠れてる。
さなぎの中には、蝶のいのちが隠れてる。
そして今日、このあとみんなは「卵さがし」をすると思いますが、卵の中にも、いのちがかくれてます。
そう、卵の中には、ひよこのいのちがかくれています。
そんなふうに、いのちは、隠れてることがあるんです。
これは、イエスさまもそうでした。
イエスさまは、十字架にかかって死んだ後、お墓に入れられました。
イエスさまの時代のお墓は、こんなお墓だったようですが、
イエスさまの仲間たちは、みんな悲しみました。
イエスさまのお弟子さんたちは、すっかり力をなくして、もうおしまいだって思っていました。
でも、イエスさまは、このお墓の中から、生き返られました。
つまり、このお墓の中に、いのちが、隠れていたということです。
どんなにおしまいだって思える状況であっても、いのちが隠れてることがある。
だから、見えないからって、希望は捨てないでって、聖書は、教えているように思います。
「いのちは、かくれてる」。
球根の中、さなぎの中、卵の中、そして、お墓の中にも、いのちは隠れている。
このことを、今日は、覚えておきたいと思います。
それじゃあ、短く、お祈りします。
みんなも、目を瞑って、聞いていてください。
・導入
春になると、あちこちに花が咲き始めます。
庭先や道端、公園や畑、どこを見ても、色とりどりの花が目に入ってきます。
でも、ほんの少し前まで、それらはすべて土の中に隠れていました。
チューリップも、クロッカスも、その鮮やかな姿は、球根の中に隠れていました。
同じように、蝶はさなぎの中に、ひよこは卵の中に、命はしばしば見えないかたちで、隠れています。
まだ、その姿が見えなくても、命はそこで静かに、けれど確かに息づいています。
今日、私たちは、イエス・キリストの復活を記念するイースターを迎えています。
教会にとって、一年の中で、最も明るく、最も希望に満ちた日です。
けれども、この復活の物語は、最初から光に満ちていたわけではありません。
むしろ、すべては深い闇から始まりました。
イエス様が十字架に架かった時、全地は闇で覆われていました。
太陽すら、光を失っていたと、書かれています。
それは、今日の箇所に登場する人々の心も、そうでした。
ガリラヤから従ってきた女性たちは、イエス様が死んでいく様子を、遠くから見ていることしかできませんでした。
イエス様の弟子たちは、見届けることすら、できませんでした。
彼らにとって、希望は完全に途切れたように見えていました。
イエス様の死は、終わりそのものであり、命の気配などどこにも感じられない、冷たい沈黙の中にありました。
けれども、聖書は、「命は、隠れている」という驚くべき真実を語っています。
球根の中に花が、さなぎの中に蝶が、卵の中にひよこが隠れているように、イエス様の墓の中にも命が隠れていた。
そして、その命は、やがて、人間の想像を超える仕方で、姿をあらわすわけです。
今日ご一緒に、聖書の物語をたどりながら、この「隠れた命」に目を向けていきたいと思います。
そして、そのことを通して、信仰を持って生きるとは、どういうことなのか。
ご一緒に、聖書から、聞いていきたいと思います。
・聖書
復活の物語は、女性たちが、墓に向かっていくところから始まります。
聖書には「週の初めの日、明け方早く」とあります。
「夜明け前」と訳している聖書もあります。
それくらい早い時間帯に、墓に行ったということです。
そこには、一刻も早く、イエス様の遺体を処置したいと願う、女性たちの心境があらわれています。
イエス様が亡くなったのは、安息日の前日でした。
しかも、遺体が引き取られたのは、もう間も無く安息日になるという時間帯でしたので、満足な処置もできないまま、墓に葬られました。
女性たちは、その様子を見ていました。
だから、安息日になる前に、香料と香油を準備し、安息日が終わって、明け方ごく早くに、墓に行ったのです。
イエス様の遺体の処置は、自分たちにさせて欲しいと、思っていたのでしょう。
イエス様が息を引き取っていくのも、墓に納められるのも、見ていることしかできなかった。
せめて、遺体の処置は、自分たちにさせて欲しい。
それは、イエス様のためであると同時に、彼女たち自身のためでもあったのでしょう。
彼女たちは、安息日が明け、朝になるのを待っていました。
そして、明け方早くに、イエス様の墓へと行きました。
ところが、行ってみると、墓の入り口は開いており、イエス様の遺体はありませんでした。
途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人が現れて、言いました。
5節から7節「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
この言葉を聞いて、女性たちは、イエス様の言葉を思い出しました。
忘れていたわけではなかったでしょう。
確かに、イエス様がそう言っていたことは、頭の片隅に、覚えていた。
でも、心にまでは、達していなかったのだと思います。
本当に復活するなんて、思ってもいなかった。
空の墓と、輝く衣を着た二人の人の言葉は、そんな彼女たちの心を、揺さぶりました。
彼女たちは、急いで引き返し、このことを弟子たちに告げました。
多くの女性たちが、このことを話しました。
しかし、弟子たちはこの知らせを「たわ言」のように思い、信じなかったと記されています。
それは、彼女たちのことを軽んじたということもあったかもしれません。
それでなくても、女性は、当時、軽んじられた存在でした。
まして、彼女たちが伝えたことは、常識では、ありえないことでした。
彼女たちの知らせは、弟子たちの心を動かすものではありませんでした。
しかし、その中でただひとり、ペトロだけは違いました。
女性たちの知らせを聞いて、心動かされたのでしょう。
彼は、立ち上がり、墓へと走り、中をのぞき込みます。
すると、女性たちの言った通り、遺体はなく、ただ亜麻布だけが残されていました。
ペトロは、それを見て、驚きながら帰っていきました。
・揺さぶり
女性たちと、ペトロは、復活の知らせを聞いて、心を揺さぶられました。
これは、神様による揺さぶりでした。
神様は、人間の常識や価値観を超えて、迫ってきます。
その迫りを受けて、女性たちとペトロは、動揺させられました。
この戸惑いや動揺が、実はとても大切な信仰の入り口なのだと思います。
他の弟子たちは、女性たちの言葉を「たわごと」として、まともに聞こうとしませんでした。
でもペトロは、違いました。
まだ、信じるには至っていなかったと思いますが、少なくとも、心を揺さぶられた。
だから、立ち上がり、墓に行ったのだと思います。
これが、次の驚きへと繋がっていきました。
私たちは、どうでしょうか。
復活の知らせに、心揺さぶられているでしょうか。
イースターといえば、お祝いの日。
そうやって一足飛びに受け入れるのではなく、女性たちやペトロがそうであったように、まず、驚きと恐れをもって、受け止めていきたいと思います。
信仰の歩みは、そうやって、揺さぶられるところから始まっていくものです。
揺さぶられ、突き動かされ、驚かされ、そうやって、信じるものになっていくのです。
心揺さぶられながら、女性たちは、イエス様の言葉を思い出し、復活の知らせを語り伝えました。
ペトロも、信じられない思いを抱えながらも、心動かされて、墓へと走っていきました。
私たちもまた、復活の出来事に心揺さぶられながら、隠れた命を求めて、墓へ走るようにと、招かれているのではないでしょうか。
・命は隠れている
墓は、本来、死者の眠る場所です。
人生の最後にたどり着く、終わりの場所です。
でも、その場所で、復活は、起こされていきました。
女性たちは、イエス様の死を悼み、最後の務めを果たそうと、墓に向かいました。
希望なんてなかったでしょう。
イエス様の死を、受け止めるために、必死の思いで、墓に行ったのだと思います。
しかし、そこで彼女たちが出会ったのは、予想していた死ではなく、想像を超える命でした。
命は隠れている。
墓の中に命が隠れている。
死の中に復活が隠れている。
終わりの中に始まりが、絶望の中に希望が、隠れている。
隠れている以上、目で見ることはできません。
でも、確かにそこに、命は輝いています。
球根だってそうです。
球根も、土の中に埋めてしまえば、目では見えなくなります。
でも、命がなくなったわけではありません。
その命は、見えないところで、確かに育っています。
これは、チューリップの1年間の様子です。
この表を見てもわかるように、11月に植えても、3月までは、見えないんです。
でも、だからと言って、命がなくなったわけではありません。
私たちの見えないところで、命はちゃんと育っている。
先週、私たちは、十字架上で、イエス様が息を引き取った場面を読みました。
闇が全地を覆い、イエス様の叫びだけが、大きく響く。
その間、終始神様は、沈黙されていました。
どんなにイエス様が祈っても、どんなにイエス様が叫んでも、神様は沈黙されていました。
でも、その沈黙の中に、確かに神様はおられた。
神様の姿は見えないし、神様の声は聞こえないけれど、でも神様は、確かにそこにいて、復活の時を備えておられたのです。
復活の命が、人の目にあらわになるには、時間がかかります。
待たないといけない。
それも、いつ芽を出すか、いつ花が咲くかは、わかりません。
でも、その時を信じて、待ち望むようにと、呼びかけられているのです。
今、皆さんの前には、どんな現実があるでしょうか。
その現実は、必ずしも、明るいものではないかもしれません。
人によっては、お先真っ暗という人もいるかもしれない。
でも、その暗闇の中に、光が隠れている。絶望の中に、希望が隠れている。
祈っても祈っても聞かれない。
そんな沈黙の中にも、確かに、神様はおられて、働いておられると、聖書は語っています。
そのメッセージは、闇が深ければ深いほど、受け入れ難いものかもしれません。
でも、女性たちやペトロがそうであったように、そのメッセージに、心揺さぶられながら、生きていきたいと思います。
見えない現実にとらわれず、沈黙の中にも、神様はおられる。
墓の中に命が、死の中に復活が、絶望の中に希望が、隠れている。
そのメッセージを心に留めて、その命があらわになる日を待ち望むものとして、共に、生きていきましょう。お祈りします。