2025年4月13日主日礼拝「委ねられる幸い」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書23章44節〜49節。

新共同訳新約聖書159ページです。

23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。

23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。

23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。

23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。

23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

「委ねられる幸い」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

おはようございます。

今日もまず最初に、子どもメッセージからしたいと思いますが、

みなさんは、夜、眠る時に、お祈りすることがあるでしょうか。

わたしは、小さい頃、夜、なかなか眠れない時に、よくお祈りをしていました。

怖いテレビを見てしまったり、運動会の前日とか、ドキドキして、なかなか眠れないことがあって、そんな時に、よくお祈りをしていました。

みなさんも、そういうことがあるでしょうか。

今日の聖書には、イエスさまが十字架にかかって、亡くなられるときのことが、書かれています。

ちょっと怖い話に聞こえるかもしれないですが、そこには、大事な言葉が書かれています。

イエスさまが十字架で最後に言った言葉です。

どんな言葉を言ったかというと、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」って言葉でした。

実はこの言葉、昔のユダヤ人の子どもたちが、夜、寝る時にお祈りしていた言葉だそうです。

「神さま、わたしのいのちを、あなたにまかせます」っていうお祈りです。

昔のユダヤ人の子どもたちは、そうやってお祈りをして眠っていたそうです。

イエス様も、死ぬ直前、その言葉で、お祈りをしました。

痛い気持ち、苦しい気持ち、死んだらどうなるんだろうって怖い気持ち、あったと思います。

でも、そういう気持ちを全部、神様に任せますって、そうやってお祈りをして、死んでいかれました。

みんなにも、怖い時や、不安な時が、あると思います。

テストが近い時とか、大事な発表がある時とか、新学期、学校に行くのが不安だったという人もいるかもしれません。

そういう一人一人にイエス様は、「神様に任せますって、祈ってごらん。

きっと、安心するから。きっと、勇気が湧いてくるから」って言ってくださっているんだと思います。

みんなも、夜、お父さんやお母さんが、「おやすみ」って言いながら、そばにいてくれたら、安心して眠れるでしょ。

イエスさまも、まさにそんな感じで、神様に身を任せていったんだと思います。

そばにいる神さまに、「おやすみなさい」って言うみたいに、すべてをまかせて、神さまのところにいったんだと思います。

神様は、そんなイエスさまのお祈りを、しっかり聞いていました。

そして、イエスさまを、しっかり受け止めました。

任せられるって、ありがたいことだなって思います。

私たちは、なんでもできるわけじゃありません。

できることもあれば、できないこともあります。

どんなに頑張っても、天気を変えることはできないし、地震を防ぐこともできません。

でも、天気に合わせて、着るものを調整したり、地震が起こった時に備えて、避難訓練したりすることはできます。

できないことは、神様に任せて、できることに、力を注いでいく。

そのためにも、今日は、イエス様が神様に「お任せします」って祈ったこと、心に覚えておきたいと思います。

お祈りします。

・導入

子どもたちと一緒に、イエスさまの「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という祈りの言葉を覚えました。

夜寝る前に「神さまに任せます」と祈る、その小さな信頼の祈りが、実は、イエスさまご自身が十字架上で祈られた、いのちをゆだねる祈りとつながっているんだと、今、改めて思わされています。

・暗闇の中で

今日は、「委ねられる幸い」ということをテーマに、メッセージをしたいと思います。

先ほども言いましたように、今日の箇所には、イエス様が十字架上で息を引き取られる様子が記されています。

その情景は、闇に覆われています。

44節45節「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた」と記されています。

まるで、世の光であるイエスさまの命が絶たれようとしている、その悲しみと絶望が、世界を覆っているような描写です。

神の御子が人に見捨てられ、嘲られ、血を流し、命を絶たれていく。

それは、イエスさまの物語の中でも、もっとも重く、悲しい場面と言えるでしょう。

しかし、そんな暗闇の中にも、希望の光が輝いていることを、聖書は語っています。

・大声で叫んだ

注目したいのは、イエスさまが、息を引き取られる直前に言われた言葉です。

46節、「イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。」と記されています。

ご存知の方も多いと思いますが、イエスさまが息を引き取られる直前に言われた言葉は、福音書によって、違いがあります。

マルコによる福音書とマタイによる福音書には、「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで息を引き取られたと記されています。

また、ヨハネによる福音書には、「成し遂げられた」と言って、息を引き取られたと記されています。

このように、福音書によって、異なる伝承が採用されているわけですが、これは、どれが正しいかと考えるよりも、十字架から発せられるメッセージが、それほどに多様であると、受け止めるのが良いと思います。

多くの方は、マルコとマタイに記されています「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで息を引き取られる場面を記憶されているのではないでしょうか。

それに比べると、ルカによる福音書に記されている「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」という言葉は、とても穏やかで、信頼に満ちた言葉に、感じます。

そのせいか、わたしは、この箇所に、「大声で叫ばれた」という言葉が記されていることに、今まで気づかずにおりました。

私はずっと、ルカによる福音書のイエスさまは、静かに、穏やかに、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と言って、息を引き取って行かれたんだと、勝手に思い込んでおりました。

でも、そうではありませんでした。

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」という言葉を、イエス様は、「大声で叫ばれた」のです。

きっと、死の間際、残された力を振り絞るようにして、そう叫ばれたのだと思います。

そのことから考えるに、これは、全てを知り尽くしている者の、余裕のある言葉ではありません。

恐れや不安を抱える者の叫びです。

死を前にして、イエス様もまた、恐れや不安を抱えていたということです。

なんの保証もない。

ただただ、信じるより他ない。

そういう中で、イエス様は、恐れや不安を抱えながら、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と、そう言って、その命を、神の御手に委ねていったのです。

・幼子のように

このイエス様の最期の言葉は、今日の招詞で読んでいただいた、詩編31編6節の言葉でもあります。

この言葉は、ユダヤ人の間では「夕べの祈り」として、よく知られた祈りの言葉でした。

子どもメッセージでも言いましたように、この言葉は、母親が子どもに教える最初の祈りで、夜寝る時に祈られていたそうです。

当然、イエスさまも、幼い頃に教えられて、祈ってきたはずです。

その祈りの言葉を叫んで、息を引き取られた。

まるで、幼子のように、神様に向き合っておられる、イエスさまの姿が、ここにはあるわけです。

それは、「父よ」という呼びかけによって、さらに強調されています。

つまりイエスさまは、息を引き取られる場面で、幼子のように無力な者として、神様にすべてを委ねていかれたということです。

それはまるで、お父さんの懐に、全体重を任せて、飛び込んでいく、そんな幼い子どものように、イエスさまは、全てを神様に委ねて、いかれたのです。

・委ねられる幸い

この委ねるという姿勢こそ、この場面から受け取ることのできる、大きな希望です。

私たちもまた、生きる中で、自分の力ではどうにもならない壁に、ぶつかることがあります。

そんな時、委ねる先があるということは、とても幸いなことだと思います。

皆さんは、「ニーバーの祈り」と呼ばれる、祈りの言葉をご存知でしょうか。

説教でも、たびたび、紹介してきましたが、そこでは、こう祈られています。

「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」

非常に、大事なことを、教えてくれる祈りであると思います。

人間には、限界があります。

どんなに考えても、わからないことがあります。

どんなに努力しても、変えられないことがあります。

大事なのは、変えることのできないものと、変えることのできるものを識別し、変えることのできるものに、力を注ぐことです。

そのためには、委ねるということが、必要なのだと思います。

以前、ある方が、ご家族の病気のことで、相談の電話をくださいました。

自分の家族が、今、病気に苦しんでいる。

どうしたら、いいだろうか。

祈ったらよくなるだろうかと、聞かれました。

その時に私は、この「ニーバーの祈り」を思い出していました。

そして、「人間には、限界がある。

できることもあれば、できないこともある。

今、できることに力を注ぐために、できないことは、神様に任せましょう」と言いました。

そうやって、一緒に祈った後、電話を切る直前に、その方が、「自分にもできることがあると思いました」と、そう言われました。

「自分にもできることがある。」

委ねたからこそ、与えられた気づきであったのだと思います。

繰り返しになりますが、私たちには、限界があります。

なんでもできるわけではありません。

どんなに時間をかけ、努力しても、どうにもならないことがあります。

学生時代、わたしは、野球部に入っていました。

試合になると、わたしは、いつも緊張していました。

失敗したらどうしよう。エラーしたらどうしよう。試合前は、いつも不安でいっぱいでした。

でも、今考えてみると、試合前からそんなことを考えても、どうしようもないわけです。

そんなことを考えるよりも、目の前のやるべきことに集中すべきだったなと思います。

実際に、試合でエラーをしてしまった時もそうです。

エラーをして落ち込んでいる時、よく仲間から、切り替えろと言われました。

どんなに落ち込んでも、エラーをした過去を変えることはできません。

落ち込んでいるよりも、切り替えて、目の前のことに、集中しなきゃいけない。

でも、なかなか切り替えられずに落ち込んでいると、そういう時に限って、またボールが飛んでくるわけです。

そして、また、エラーを繰り返してしまう。

考えたってわからない。

悩んだって無駄だって、わかっていても、悩んでしまう。

そんなことがあるんじゃないでしょうか。

だからこそ、委ねるということが大事なんだと思います。

できないことは神様にゆだね、できることに心を尽くして生きていく。

そのために信じて祈り、委ねるということが大事なんだと思います。

神様は、その信頼に応えてくださいます。

・終わりじゃなかった

その証拠に、イエス様の死は、終わりではありませんでした。

イエス様は、死を通して、新しい命に与っていきました。

来週、私たちは、イースターを迎えます。

イースターは、イエス様の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という祈りに対する、神様からの応えです。

「御手にゆだねます」という信頼の祈りに、神様は、必ず応えてくださる。

そのことを、心に留めながら、できないことは神様に委ね、できることに心を尽くして、生きていきたいと思います。

お祈りいたします。

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