聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書23章1節〜12節。
新共同訳新約聖書157ページです。
23:1 そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。
23:2 そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」
23:3 そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。
23:4 ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。
23:5 しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。
23:6 これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、
23:7 ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。
23:8 彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと 望んでいたからである。
23:9 それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。
23:10 祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。
23:11 ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。
23:12 この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。
「沈黙はやがて」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日は、「聞く」ということについて考えたいと思います。
「聞く」というのは、とても大事なことです。
たとえば、学校で先生が、「明日テストをします」と言ったのに、聞いていなかったらどうなるでしょう。
テストの準備ができなくて、良い点が取れなくなってしまいます。
友達と一緒に遊ぶ約束をする時もそうです。
友達が、「何時にどこどこ集合ね」って言ったのに、聞いていなかったら、どうなるでしょう。
集合場所も、集合時間も分からなくて、友達と遊べなくなってしまいます。
皆さんはどうでしょうか。
ちゃんと人の話を聞くことが、できているでしょうか。
「聞く」というのと、「聞こえる」というのとは違います。
「聞こえる」というのは、ただ音が耳に入ってくることを言います。
聞こうとしなくても、勝手に音が耳に入ってくる。それが、「聞こえる」です。
「エアコンの音が聞こえる」とか、「車の音が聞こえる」とか、
「鳥の鳴き声が聞こえる」というのもそうです。
そうやって、一生懸命聞こうとしなくても、勝手に音が耳に入ってくることを、「聞こえる」って言います。
それに対して、「聞く」っていうのは、頑張んないといけない。
「聞くぞ」って思わないと、いけません。
ぼーっとしてたり、他のことを考えていたら、聞くことはできません。
聞くためには、集中しないといけない。
どうでしょうか。
皆さんは、ちゃんと聞くことができているでしょうか。
ゲームをしながら、お家の人の話を、聞いていること、ないでしょうか。
友達とおしゃべりしながら、先生の話を聞いているってこと、ないでしょうか。
そういうのを、「ながら聞き」っていうそうですが、そういう聞き方は、良いでしょうか。悪いでしょうか。ーそうですね。良い聞き方とは言えません。
やっぱり聞くためには、やっていることを一旦やめて、聞くことに集中する必要があります。
特に大事なのは、静かにすることです。
静かにしないと、人の話を聞くことはできません。
これは、神様の言葉を聞く時も一緒だと思います。
私たちが読んでいる聖書の箇所には、イエス様が十字架にかけられていく様子が、書いてあります。
その中で印象的なのは、何も話さないイエス様の姿です。
あれだけ、たくさんの言葉を語ってきたイエス様が、十字架に向かう歩みにおいては、ほとんど何も話しません。
なぜか。
それは、神様の言葉を聞くためだったんだと思います。
苦しい時、悲しい時、辛い時、神様の声が聞きたくなることがあるでしょう。
神様なんでこんなことが起こるんですか。
どうして、こんなことになるんですか。
そんな時、心鎮めて、一生懸命聞こうとした、イエス様の姿を思い出したいと思います。
私たちも、心鎮めて、一生懸命、聞きたいと思います。
きっと神様の語りかけが聞こえてくるはずです。
お祈りします。
・イエスの沈黙
今日は、十字架に向かうイエス様の歩みを通して、沈黙することの大切さを心に留めたいと思います。
先週に続き、今日の箇所にも、イエス様が裁判にかけられる様子が記されています。
先週は、ユダヤの最高法院において、イエス様が裁かれる様子を読みました。
それに続いて、今日の箇所では、ローマ総督ピラトとガリラヤの領主ヘロデが、イエス様を裁く者として登場しています。
しかし、彼らの様子を見ると、本当に裁くつもりがあるのだろうかという気持ちになります。
裁くというのは、法に基づいて、良し悪しを判断することですが、彼らは何にも判断していません。
無罪なら無罪と言えばいいのに、それを言うこともできない。
終始、訴える人々の叫び声ばかりが響いているという、混乱した様子が記されているわけですが、そんな中、印象的なのは、裁きの座に立たされながらも、沈黙するイエス様の姿です。
訴える者たちから、言いたい放題言われているのに、イエス様は、何も言われません。
反論することもなければ、自己弁護することもない。
これまで、幾度となく論争をしてきたイエス様ですが、なぜ、この場面では、沈黙されているのでしょうか。
そこには、大きく二つの要因があるように思います。
・聞く気のない人々
一つは、誰も聞く気がなかったということです。
これは、先週の箇所ですが、67節で、ユダヤの最高法院の人々は、イエス様に、「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言いました。
これに対して、イエス様は、「私が言っても、あなたたちは決して信じないだろう」と答えられました。
その通りでした。
彼らは、裁判の前から、イエス様を、偽メシアだと決めつけていました。
そして、その影響力が増していくことに危機感を持ち、一刻も早く亡き者にしたいと思っていました。
そんな彼らにとって、裁判は、処刑するための口実を得る手段でしかなかったのです。
何を言っても受け入れない。
自分たちに、都合の良いようにしか聞かない。
そんな人々に、何を語っても、意味がありません。
ローマ総督ピラトは、イエス様の話を聞き、「私はこの男に何の罪も見出せない」と言いました。
彼は、ちゃんとイエス様の言葉を聞いたのかと思いきや、そうではありませんでした。
「何の罪も見出せない」と言いながらも、彼は、無罪と言うことができませんでした。
それは、彼が、イエス様を訴える人々を、恐れていたからです。
無罪と言ったら、彼らが、暴動を起こすかもしれない。
そんなことになったら、統治者としての責任を問われるかもしれない。
彼は、ローマから派遣された総督として、ユダヤを統治することを任されていました。
ですから、暴動が起こったり、反乱が起こったら、困るわけです。
管理能力を問われることになるのです。
それで彼は、「何の罪も見出せない」と言いながらも、無罪と言うことができなったのです。
結局彼も、イエス様の言葉より、人々の顔色を優先するような人であったということがわかります。
ヘロデはどうでしょうか。
彼は、ずっと前から、イエス様に会いたいと思っていたと書いてあります。
でもそれは、イエス様が起こす奇跡を見てみたいという、好奇心からくる想いでしかありませんでした。
ヘロデにとって、イエス様は、いわば、好奇心を満たすための娯楽でしかなかったのです。
どんな奇跡を見ても、きっと彼は、手品や占いの類にしか、受け入れなかったでしょう。
だからイエス様は、ヘロデの尋問に対して、何もお答えにならなかったし、何の奇跡も起こされなかったのです。
・沈黙すること
彼らを通して、聞く姿勢が問われているように思います。
どんなにイエス様が、親切丁寧に教えたとしても、心を閉ざしていては、聞くことはできません。
たとえ奇跡を起こしたとしても、受け入れる意思がなければ、無意味でしょう。
そのような人々に、イエス様は、何もお語りにはならないのです。
イエス様の言葉を本当に聞きたいと願うならば、私たちこそが、まず沈黙しなければならないのだと思います。
沈黙とは、黙ることです。
自分の考えや主張を脇に置くことです。
いうなれば、それは、空っぽのコップになることだと思います。
水でいっぱいのコップに、いくら新しい水を注いでも、受け入れることはできません。
新しい水を受け入れるためには、その余地を残さなければなりません。
これは、私たちの心も同じです。
自分の考えや思いがぎゅうぎゅうに詰まっていたら、イエス様の言葉を受け入れることはできません。
イエス様の言葉を聞きたいと思うなら、自分の考えや思いを黙らせる必要があります。
忙しさや、慌ただしさで、心がザワザワしている時も、同じです。
そんなときは、心鎮める必要があるでしょう。
それがまさに、沈黙の時間なのだと思います。
先週の金曜日、この教会で、市内連合女性会による世界祈祷日礼拝が行われました。
今年は、クック諸島の女性キリスト者たちの呼びかけに沿って、礼拝を献げたのですが、その式文の中で、沈黙という時間がありました。
リーダーの呼びかけに従って、沈黙した時、自分が、こんなにもたくさんの音に取り囲まれているのだということに気づかされました。
沈黙しなければ聞こえない音があり、声があるのだということです。
イエス様の言葉も、その一つだと思います。
これは、イエス様が沈黙された、第二の要因にもつながります。
・
イエス様が沈黙された、第二の要因。
それは、誰よりも、イエス様ご自身が、神の声を聞こうとされたからです。
イエス様が沈黙されたのは、単に、語っても誰も聞かないからではなく、神の声に耳を傾けるためであったのだと思います。
人々の思惑が渦巻く中、また、自分の内側からも、様々な想いが湧いてくる中で、イエス様は、御心を求めて、沈黙されたのです。
なぜ自分が、弟子たちに裏切られなければならないのか。
なぜ、裁判にかけられ、こうも激しく訴えられなければならないのか。
なぜ、こんな目に遭わなければならないのか。
いくつもの「なぜ」が湧いてくる、その中で、イエス様は、その答えを、神様に託し、沈黙されたのです。
それは、忍耐と信仰のなせるわざです。
神などいないと絶望したり、神に見捨てられたと自暴自棄になったりするのではなく、いつか、わかる時が来る。
いつか、御心が示される時が来る。
そう信じて、自分で結論をつけず、その時を、待ち望んだのです。
私たちも、イエス様のように、御心が示される時を信じて、待ち望む者でありたいと思います。
私たちにも、御心がわからず、思い悩む時があるでしょう。
そんな時、忍耐と信仰を持って、沈黙しましょう。
イエス様に、復活の日が与えられたように、私たちにも、いつか、示される時が来る。
その時を信じて、沈黙し、待ち望む者でありたいと思います。
私の連れ合いの光さんが好きな讃美歌に、「球根の中には」という讃美歌があります。
その一節に、「沈黙はやがて歌に変えられ、深い闇の中、夜明け近づく」という言葉があります。
今日の説教題は、この歌詞から、取りました。
沈黙はやがて歌に変えられる。
今は、沈黙するしかなかったとしても、やがて、歌に変えられる時が来る。
その日、その時を信じて、待ち望む者でありたいと思います。
イエス様は、沈黙して、待ち望む人々と、共におられます。
お祈りします。