聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書23章26節。
新共同訳新約聖書158ページです。
23:26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。
「先立つイエス様を信じて」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
みんなは、「なんでこんな目に遭わなきゃいけないんだ」って思ったことが、あるでしょうか。
私は、これまで、何度か、そう思うことがありました。
たとえば、中学生の頃、私はバスケ部に入っていたんですが、最後の大会の直前、
もう最後の大会まで、あと一週間ってところで、足首の靭帯を切って、大会に出られなくなったということがありました。
怪我だけはするなって、先生から言われていたし、怪我だけはしないようにって、自分でも気をつけていました。
それなのに、最後の大会の直前で、怪我をしてしまった。
病院で一人、泣きながら「なんで…」って思ったことを、今でも思い出します。
それから、これは、牧師になるための勉強をしていた頃の話ですが、仲間たちで、カンボジアとタイに行ったことがありまして、その時に、私だけ一人、インフルエンザになって、帰れなくなったということがありました。
当時、研修先の教会で、インフルエンザが流行っていたようで、私も感染してしまったんですが、
その時、私も含めて6、7人で行っていたんですが、みんな一緒に行動していたのに、なぜか、私だけがインフルエンザになりまして、10日間ぐらいですかね、タイに取り残されたということがありました。
その時も、「なんでこんな目に」って、思いになりました。
そんなふうに、きっとみんなも、「なんでこんな目に」って思ったことが、あると思います。
実は、今日の聖書の箇所に出てくるシモンという人もそうでした。
シモンさんも、なんでこんな目にって思うような経験をしました。
どんな経験かというと、実はシモンさん、イエス様の十字架を背負わされたんです。
別にシモンさんは、イエス様の弟子でもありませんでした。
何か悪いことをしたわけでもない。
たまたまそこにいたという、ただそれだけの理由で、イエス様の十字架を背負わされたんです。
酷い話でしょ。
絶対に、「なんで俺なんだ!」って思ったと思いますが、歯向かうこともできずに、シモンさんは、十字架を背負って、歩いていきました。
でも、シモンさんは、一人じゃありませんでした。
シモンさんの前には、イエス様が歩いていました。
別に、シモンさん、イエス様と一緒に歩いているなんてつもりなかったと思います。
十字架を背負わされて、無理矢理歩かされて、「辛い」「苦しい」だけだったと思う。
でも、そんなシモンさんの前を、イエス様が歩いておられるって、聖書は教えています。
これは、シモンさんだけの話ではありません。
私たちが、「辛い」「苦しい」って思う時にも、イエス様は、私たちの前を歩いておられる。
そして、「大丈夫、そのまま私についてきなさい。
絶対、『辛い』『苦しい』で終わらないから」って、呼びかけてくださるんです。
その声を信じて、歩んでいきたいと思います。
みんなも、頑張ったのに、いい結果が出なかったり、
なんでこんな目に遭わないといけないのって経験、これからするかもしれません。
そんな時には、イエス様が、自分の前を歩いている。
そして、「大丈夫、そのまま私についてきなさい。
絶対、『辛い』『苦しい』で終わらないから」って、呼びかけてくださっているってこと、思い出してほしい。
そして、そのことを信じて、歩んでいってほしいと思います。
お祈りします。
・導入
時に私たちは、思いもしないような形で、重荷を背負わされることがあります。
突然、病に襲われたり、災害や事故によって大切な人を失ったり、そういう手放したくても、手放せないような重荷、苦しみを、背負わされながら、歩んでおられる方が、皆さんの中にもいらっしゃると思います。
介護や子育て、貧困や差別もまた、人生の重荷です。
そういった様々な人生の重荷を、大なり小なり、背負わされながら、私たちは、生きています。
思いもしないような形で、重荷を背負わされたという意味では、今日の箇所に登場する、キレネ人シモンもそうでした。
彼は、たまたまそこにいたという理由で、イエス様の十字架を背負わされ、処刑場であるゴルゴタの丘まで、運ばされました。
なんて理不尽な話だろうと思いますが、しかし、この話の中には、それ以上に重要なメッセージが語られているように思います。
今日は、そんなシモンを通して、重荷を背負って生きるとはどういうことか、考えてみたいと思います。
・理不尽な重荷を背負わされたシモン
まず、今日の場面がどんな場面なのか、押さえておきたいと思います。
今日、私たちが読んでいる場面は、十字架刑に引き渡されたイエス様が、総督官邸から、処刑場であるゴルゴタの丘まで歩んでいくという場面です。
この道のりを、ラテン語で、ヴィア・ドロローサと言います。
苦しみの道という意味です。
聞いたことがあるという方もいらっしゃるかもしれません。
中には、実際に歩かれたことのある方も、いらっしゃるかもしれません。
聖地エルサレムを巡礼する人たちにとっては、外すことのできない場所となっているそうですが、
その道のりは、全長約1キロほどの坂道で、処刑場のあるゴルゴタの丘につながっています。
通常、十字架刑を言い渡された者は、自分で自分の十字架を背負って、処刑場まで行かなければならなかったそうです。
ですから、イエス様も、途中までは、十字架を背負わされて、その道を歩まれたんだと思いますが、この時すでにイエス様は、暴行や鞭打ちによって、ボロボロの状態でした。
十字架を背負って歩いていくことなど、できないような状態だったのでしょう。
登っていく途中、足が止まってしまいました。
そこで人々は、シモンを捕まえて、彼に十字架を背負わせたのです。
・なんで俺なんだ。しかし、その先にイエス様
このシモンについて、今日の箇所は、ほとんど何も書いていません。
書かれているのは、キレネ人ということだけです。
キレネというのは、北アフリカの都市の名前で、古代ギリシャの植民地だったそうです。
そこには、ユダヤ人も住んでいて、シモンもその一人だろうと言われています。
彼は、「田舎から出てきた」と言われていますが、過越祭のために、巡礼者として、エルサレムに来ていたということか。
あるいは、田舎を離れ、エルサレムに移住していたということか、どちらかだろうと言われています。
いずれにしろ、彼は、たまたま、この場に居合わせた人物でした。
野次馬の一人だったのか、あるいは、通りがかりの通行人だったのか。
イエス様の弟子ではなかったようですが、そんなシモンを捕まえて、人々は、イエス様の十字架を背負わせたわけです。
なぜ、シモンだったのでしょうか。
イエス様の周りには、たくさんの人たちがいたようですが、その中で、なぜこのキレネ人シモンが、選ばれたのでしょうか。
理由は何も書かれていません。
背負わせた人々からすれば、ちょうどそこにいたからということだったのでしょうが、シモンからしたら、たまったものではありません。
「なんで俺なんだ!」って、思ったでしょう。
イエス様の仲間でもなければ、犯罪を犯したわけでもありません。
十字架を背負わなきゃいけない理由なんて、何もありませんでした。
でも、歯向かうこともできず、彼は、イエス様の十字架を背負っていきました。
彼にとってそれは、災難でしかなかったでしょう。
でも、イエス様は、そんなシモンの前を歩んでおられました。
十字架を背負うシモンに先立って、イエス様は歩んでおられました。
ここに、非常に重要なメッセージがあるように思います。
つまり、イエス様は、重荷を背負って歩む者の先を、歩んでおられるということです。
これは、シモンにだけ、言えることではありません。
人生の重荷を背負って歩んでおられる、お一人お一人に向けて、聖書が語っているメッセージです。
・イエス様に従う者とされる
イエス様は、重荷を背負って生きる人々の前を、今もなお、歩んでおられる。
そうである限り、重荷を背負って生きるということは、単なる災難でも、不幸なことでもありません。
それは、イエス様に従う歩みです。
私は、これまで何回も、この場面を読んできました。
そして、その度に、このシモンは、なんてついてない人だろう、なんて可哀想な人だろうって、ずっとそう思ってきました。
でも、今回、この箇所を読む時に、そうじゃないんじゃないかって、思わされました。
シモンこそ、イエス様に従う者である。
重荷を負って生きることこそ、イエス様に従うことなんだと、思わされました。
そして、その歩みにおいてこそ、私たちは、命を救うのだと、イエス様は教えています。
今日の礼拝の最初に、司式者に読んでいただいたルカによる福音書9章23節~24節には、次のように書かれています。
9:23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
9:24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
シモンは別に、イエス様について行っているなんて気持ちはなかったでしょう。
無理矢理、十字架を背負わされ、ただただ、辛い、苦しい、だけだったでしょう。
彼にとっては、災難であり、不幸でしかなかったと思います。
でも、イエス様が、彼の前を歩いておられる。
そうである以上、彼は、イエス様に従っているのです。
彼の歩いている道は、ヴィア・ドロローサ、イエス様の歩む道であり、その道は、苦難で終わりません。
十字架の先に復活があったように、重荷を背負って歩む、その道の先には希望があるということです。
そのように、重荷を背負って歩む時、私たちは、イエス様に従っているのです。
イエス様が、先立って歩んでくださっていることによって、私たちは、イエス様に従う者とされているのです。
そして、その歩みの先には、希望がある。
重荷を背負って歩むというのは、単なる災難でも、不幸でもなく、イエス様に従う歩みであり、そこには希望がある。
シモンを通して、聖書は、そう語りかけているのです。
これは、今、重荷を負って歩んでおられるお一人お一人に向けた、イエス様からのラブコールです。
「大丈夫、そのまま私についてきなさい。
絶対、『辛い』『苦しい』で終わらないから。」
そのように、イエス様は、呼びかけてくださっているのです。
・重荷が使命に変わる時
後にシモンは、キリスト者になったと言われています。
これは、ルカによる福音書には書いていないのですが、マルコによる福音書では、シモンのことを、「アレクサンドロとルフォスとの父」というふうに紹介されていまして、シモンに二人の息子がいたことが、語られています。
特に、このルフォスという人物は、パウロの手紙の中にも出てくる人物で、ローマの教会で、有力な人物であったとも言われています。
そのことから、シモンは、この後、自覚的に、イエス様に従う者となっていったのだというふうに言われているわけですが、
これは、大変、意義深いことだと思います。
つまり、十字架を負わされたシモンは、自ら十字架を背負って生きる者となったということです。
背負わされて生きる人生から、自ら背負って生きる人生へと、歩み出していった。
そんな彼にとって、十字架は、もはや、単なる災難ではなかったでしょう。
背負うべき使命であり、イエス様に従う希望のしるしとなっていったはずです。
そのように、背負わされて生きる人生から、自ら背負って生きる人生へと歩み出していく時、人生の重荷は、単なる災難ではなく、背負うべき使命となり、希望のしるしとなっていくのです。
イエス様が先立って歩んでくださっている。
そう信じることが、私たちに希望を与え、私たちの歩みを前進させていくのです。
そうやって生きることこそ、キリスト者としての姿なのではないでしょうか。
先立って歩まれるイエス様を信じ、重荷を背負って生きていきましょう。
そうやって、歩み出していく時、人生の重荷は、単なる災難ではなく、背負うべき使命となり、希望のしるしとなります。
「大丈夫、そのまま私についてきなさい。
絶対、『辛い』『苦しい』で終わらないから。」
その呼びかけを信じ、重荷を背負って、イエス様に従っていきましょう。
お祈りします。