聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書22章54節〜62節。
新共同訳新約聖書156ページです。
22:63 さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。
22:64 そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。
22:65 そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。
22:66 夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、
22:67 「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。
22:68 わたしが尋ねても、決して答えないだろう。
22:69 しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」
22:70 そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」
22:71 人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。
「こころの目をひらいてください」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日は、決めつけや思い込みが、私たちの目や耳を塞いでしまうという話をしたいと思います。
先日、お弁当を食べていると、初くんが、高菜の漬物の中に昆布が入っているって言いました。
私は、そんなはずがないと思って、聞き流していました。
それでも初くんが、しきりに昆布が入っているって言うので、よく見てみると、確かに昆布らしきものが入っていました。
食べてみると、確かに、昆布の味がしました。
その時に、私は、決めつけは良くないなって、思わされました。
それで、このことを今日話そうと思ったので、念の為、私の食べたのが昆布だったのかどうか、お弁当屋さんに、確認の電話をしました。
「いつも、お弁当作ってくださって、ありがとうございます。
うちの息子が、お弁当に入っている高菜の漬物が大好きで、いつも喜んで食べています。
ところで、その漬物の中に、昆布って入ってますよね。
ちょっと、確認したいと思って、電話したんですが。」
そしたら、「ちょっと待ってください」って言われて後、「入ってないです」って言われたんです。
「いや、確かに昆布の味がしたんですが・・・」って言ったんですが、「いや、うちの漬物には、昆布は入ってないですね。きっと、高菜の葉か、きゅうりでしょう」って言われました。
確かに昆布の味がしたように思ったんですが、思い込みは、味覚にまで影響を与えるのかなって、驚くような出来事でした。
このように思い込みとか決めつけというのは、耳を塞ぎ、味もわからなくさせてしまう。
高菜の漬物に、昆布なんて入っているわけがないって決めつけのせいで、初くんの言葉をちゃんと聞けなくなってしまったり、
これは昆布だって思い込んで食べたら、本当は違うものなのに、昆布の味がするように感じてしまった。
イエス様の時代にも、思い込みや決めつけで、本当のことが見えなくなってしまった人たちがいました。
今日の聖書のお話に登場する人たちもそうです。
イエス様を捕まえた人たちや、裁判をした人たちは、イエス様が悪人だって、最初から、決めつけていました。
だから、イエス様が何を言っても、聞くことができませんでした。
何も悪いことなんてしていなかったイエス様を、思い込みや決めつけによって、悪人にしてしまったんです。
せっかく、大事なことを教えてくださっているのに、聞けない。
せっかく、助けてくれようとしていたのに、気づけない。
そうやって、人々は、イエス様を、十字架につけてしまったんです。
思い込みや決めつけが、いかに危険なことか、教えられているように思います。
どうでしょうか。
みんなも、思い込みや決めつけ、していないでしょうか。
やりもしないのに、僕には無理だって、諦めていることがないでしょうか。
聞いてもいないのに、「あの子は僕のこと、嫌いだって思っているに違いない」って決めつけていること、ないでしょうか。
「どうせ僕なんて、いてもいなくても変わらない」って、そんなふうに思い込んでいること、ないでしょうか。
もしそんなふうに思ってしまったら、自分一人で考えずに、誰かに聞いてください。
何よりも、イエス様に聞いてください。
きっと、見えていなかったことが、見えてくるはずです。
きっと、聞くべき言葉に、出会えるはずです。
だから、自分一人で考えない。結論を出してしまわない。
誰かと一緒に考える。
何より、イエス様の言葉を聞く。
その大切さを、今日は、覚えておいてほしいと思います。
お祈りしましょう。
・導入
子どもメッセージでは「思い込みや決めつけが、私たちの目を見えなくさせ、耳を塞いでしまう」という話をしました。
私たちは、気づかないうちにも「こうに違いない」「こうであるはずだ」と思い込んでしまうことがあります。
あるいは、「この人はこういう人だ」「自分はこういう人間だ」と決めつけてしまうことがあります。
その思い込みや決めつけが、私たちの心を閉ざし、大切なことを見えなくさせてしまう。
そんなことを考えながら、昨日、車に乗っていましたら、突然カーナビから、「この惑星の住人は、思い込みが強い」って、流れてきまして、缶コーヒーのCMだったんですが、とても驚きました。
「こうでないといけない」「こうあるべきだ」という決めつけや思い込みが、私たちの目を見えなくさせ、耳を塞いでしまう。
それは、イエス様の時代に生きた人々も同じでした。
神を信じ、聖書を学び、熱心に信仰生活を送っていた人々。
彼らは、メシアの到来を、待ち望んでいたはずでした。
そんな彼らが、思い込みや決めつけによって、イエス様を受け入れることができなかった。
「こんな奴がメシアのはずがない」そうやって決めつけたことによって、イエス様の言葉を聞くことができなくなってしまった。
今日の聖書の箇所には、まさにそんな人々の姿が描かれています。
彼らの姿は私たちに何を問いかけているのでしょうか。
そして、そんな人々、そんな私たちに対して、イエス様は、何を語りかけているのでしょうか。
聖書の言葉に耳を傾けながら、ご一緒に考えていきたいと思います。
・63節~65節
前回は、イエス様が逮捕され、大祭司の屋敷に連れて行かれた場面を読みました。
特に前回はそこで、ペトロが、3度イエス様を知らないと言った話を聞きました。
今日はその続きです。
まず、見張りをしていた人々のことが、書かれています。
イエス様は逮捕された後、裁判が始まるまでの間、大祭司の屋敷の中に、囚われていたようです。
まだ、裁判が行われる前です。
罪人かどうか、まだ、決まっていない。
それなのに、見張りをしていた者たちは、イエス様を侮辱したり、殴ったりしました。
目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言っている様子も記されています。
彼らは、わかっていたのでしょうか。
自分たちがバカにし、殴っているその人が、誰であるか。
何をした人なのか、知っているのでしょうか。
いや、彼らは、何も知りません。
知ろうともしていません。
だから、こんな酷いことができたのでしょう。
彼らは、イエス様のことを、犯罪者と思っていた。
メシアだと嘘をつき、神を冒涜している愚か者だと決めつけていた。
だから、こんなに酷いことができたのです。
今からおよそ100年前、関東大震災が起こった時、多くの朝鮮人や中国人が虐殺されるという事件が起こりました。
きっかけは、朝鮮人が放火をしている、井戸に毒を入れているなどの誤った情報でした。
なんの根拠もない”デマ”だったわけですが、その情報をもとに、政府から戒厳令が出され、各地に自警団が組織されました。
そして、実際に、多くの罪のない朝鮮人や中国人が、殺害されるということがありました。
なぜ、そのようなデマを、人々は信じてしまったのか。
背景には、朝鮮人に対する差別や偏見がありました。
「朝鮮人は、自分たちを憎んでいる」「やらなければ、やられてしまう」そういう思い込みもあったと言われています。
当時、朝鮮半島は、日本の植民地でした。
「脱亜入欧」「富国強兵」をスローガンに、土地を奪い、食料を奪い、言葉、名前、尊厳、そして命を奪っていきました。
朝鮮人虐殺事件の背後には、それらの侵略行為に対する、負い目があった。
「朝鮮人は、自分たちを憎んでいるに違いない」「やらなければ、やられてしまう」そういう思い込みの中で、恐怖が増大し、人々を、虐殺へと駆り立てていったのです。
虐殺に関わったのは、軍隊や警察だけではありません。
自警団の多くは、一般の住民たちでした。
特別暴力的な人々というわけではありません。
ところ変われば、家族を愛し、友人を愛する、私たちと変わらない、一般の人々。
でも、そんな一般の人たちが、こんな事件を起こしてしまうわけです。
きっと、イエス様を殴り、侮辱した見張りの人たちも、普段は私たちと変わらない、普通の人たちだったのだと思います。
そんな人々を、ここまで冷酷に、暴力的にしてしまう。
決めつけや、思い込みというのは、本当に怖いものだと思います。
・66節~71節
66節からは、最高法院での裁判の様子が記されています。
それは、夜明けに行われたと記されています。
なぜ、夜明けだったんでしょうか。
イエス様が逮捕されたのは夜でした。
祭司長たちは、闇夜に乗じて、イエス様を逮捕しました。
それは、おおごとにしたくなかったからです。
民衆たちの中には、イエス様を信じる人たちもいました。
逮捕が公になったら、彼らが、何をするかわからない。
そうやって民衆を恐れたからこそ、祭司長たちは、闇夜に乗じて、イエス様を逮捕したわけです。
それなのに、裁判は、夜明けを待って行われました。
秘密裏にことをすすめたかったのならば、夜中のうちに、裁判を行なってしまえばよかったのにと思うのですが、祭司長たちは、わざわざ、夜が明けるのを待ちました。
なぜでしょうか。
調べてみますと、それは、律法に、「生死に関わる裁判は、日中に行わなければならない」という決まりがあったからだそうです。
「生死に関わる裁判は、日中に行わなければならない」
つまり、イエス様の裁判は、処刑にすることを前提にして、行われたということです。
裁判の様子からも、そのことが伝わってきます。
裁判における争点は、イエスが何者かということでした。
人々は、繰り返しイエス様に、「お前はメシアか」「お前は神の子か」と問いかけました。
これに対して、イエス様は、はっきりとした答えを言っておりません。
「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」というイエス様の答えが書いてありますが、肯定しているのか、否定しているのか、よくわからない答えです。
でも、人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言っています。
彼らは一体何を聞いたのでしょう。
イエス様は、何か、決定的なことを言ったのでしょうか。
実は、非常に似たやりとりが、23:3にも記されています。
そこでは、ローマ総督ピラトがイエス様に聞きます。
「お前がユダヤ人の王なのか」。
するとイエス様は、「それは、あなたが言っていることです」と答えました。
今日の箇所と一緒です。
でも、このイエス様の答えに対して、ピラトは、「私はこの男に何の罪も見出せない」と言っています。
総督ピラトは、同じイエス様の言葉を聞きながら、この男に何の罪も見出せないと言ったのです。
つまり、イエス様の言葉には、決定的なものはなかったということです。
祭司長たちは、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言っていますが、いったい何を聞いたのでしょうか。
結論ありき。
何を言っても、どんなことがあっても、犯罪者として処刑する。
そんな想いで、人の話を聞くなんて、できるはずがありません。
・唯一の救い
このように、決めつけや思い込みは、私たちの目を見えなくし、耳を塞いでしまうのです。
そして、罪なき救い主をも殺してしまうのです。
唯一の救いは、69節「今から後、人の子は全能の神の右に座る。」と言われていることです。
たとえ人々が、思い込みや決めつけによって、見えなくなっていたとしても、聞こえなくなっていたとしても、それでも、人の子は、全能の神の右に座る。
どんなに人々が、イエス様を拒み、侮辱し、捨てたとしても、それでもなお、光が消されることはない。
希望が絶たれることはないんだと、言われているように感じます。
・結論
聖書は、みんなから拒まれ、侮辱され、十字架に架けられたイエス様に、神の右の座が与えられたと語ります。
当時の人々の誰が、そんなことを、考えたでしょうか。
考えもしない。
想像もしない。
でも、私たちは、そのことを信じています。
神の働きかけ、聖霊の御業によって、そのことを信じ告白しています。
十字架に架けられたイエスを、救い主だと信じ告白する私たちだからこそ、思い込みや決めつけで、物事を判断することをやめたいと思います。
一方的に流されるテレビやインターネットの情報、噂話、自分の中に刷り込まれている思い込みや決めつけを、鵜呑みにせず、見るべきものを見、聞くべき声に耳を傾ける者でありたいと思います。
先日、充くんから、「父ちゃんは、初君に強い」って言われました。
「強いってどういうこと?父ちゃん、初君に、厳しすぎってこと?」って聞くと、「うん」って言われました。
「そうか、わかった。父ちゃん、初君に優しくするね。」と言うと、「いい感じ」って言われました。
親子の些細な会話ですが、こういう日常の会話、聞こえてくる小さな言葉を、大事に、謙虚に、聞いていく者でありたいと思います。
思い込みや決めつけに支配されず、見て、聞くことができるように、なっていきましょう。
お祈りします。