聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書23章13節〜25節。
新共同訳新約聖書157ページ〜158ページです。
23:13 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、
23:14 言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの 男には何も見つからなかった。
23:15 ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。
23:16 だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
23:17 (†底本に節が欠落 異本訳)祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった。
23:18 しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。
23:19 このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。
23:20 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。
23:21 しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。
23:22 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放し よう。」
23:23 ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。
23:24 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。
23:25 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
「あなたは誰に従うのか」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日みんなにお話しする聖書の場面は、イエスさまが裁判にかけられる場面です。
みんなは、「裁判」って知ってますか?
裁判っていうのは、人を裁くところです。
あなたのしたことは悪いことか。悪くないことかを、決める場所です。
裁判にも色々あるんですが、よく見るのは、こんなんでしょう。
裁かれる人がいて、裁く人(裁判官)がいて、弁護士がいて、検察がいて、
そして、何度も話し合いをして、最終的に、裁判官が、判決って言って、悪いか、悪くないかを判断します。
イエス様は、この裁判にかけられました。
なにも悪いことなんてしていないのに、十字架に架けられようとしていました。
イエスさまの時の裁判は、こんな感じだったようです。
どの人がイエス様かわかりますか。ーそうです。この人ですね。
すでにボロボロですけれども、
では、裁判官は、どの人でしょう。
そうこの人。名前をピラトさんって言います。
絵を見ると、ピラトさん、なんか言っていますね。なんて言っているんでしょう。
聖書によると、ピラトさんは、イエス様の味方をしていたようです。
「この人がいったいなにをしたというのか」
「十字架にかかるようなことは、何もしていないじゃないか」
すると、そこに集まっていた人たちが言います。
「十字架につけろ!」
次第にその声は大きくなっていきます。
会場中の人たちが、「十字架につけろ!」って叫びます。
その声に押されて、ピラトさん、もう好きにしろって言って、イエス様を引き渡してしまいました。
何も悪いことをしていないって知ってたのに、ピラトさんは、イエス様を十字架につけることを許してしまった。
なんで許しちゃうんだ!って思います。
何も悪いことをしてないってわかってたんだったら、なんで無罪って、言わなかったんだ!って思う。
でも、もし、みんなが、ピラトさんだったら、どうしたでしょう。
大勢の人たちが「十字架につけろ!」って叫んでいても、「無罪」って言えたでしょうか。
たぶん、難しいだろうなって、思います。
みんなが「十字架につけろ!」って叫んでる中で、一人だけ「違う」って言うのって、すごく勇気がいることです。
もしかしたら、「お前もイエスの仲間か!」って責められちゃうかもしれない。
みんなと同じことを言っている方が、楽だと思います。
でも、そうやってイエス様は、十字架に架けられていったんだってこと、私たちは、忘れちゃいけないなって思うんです。
「みんながこう言っているから」って流されそうになる時、イエス様の十字架を思い出したいと思います。
そして、「ちょっと待てよ!」って、考えられる人になりたいと思います。
イエス様だったら、どうするだろう。
イエス様だったら、なんて言うだろう。
一人になって考える時、きっと、するべきことが見えてきます。
そのことを、選び取れる人になっていきましょう。
お祈りします。
・導入
今日の箇所には、イエス様が十字架に架けられることになった経緯が、語られています。
どうしてイエス様は、十字架に架けられることになったのか。
その様子を見ていく時に、私たちの中にもある弱さが、イエス様を十字架に架けていったのだということがわかります。
ローマ総督ピラトや、「十字架につけろ」と叫んだ人々に、今日は、自分を重ねながら、ご一緒に今日の箇所を、読んでいきたいと思います。
・ピラトの裁判
今日の場面は、イエス様を裁く裁判の場面です。
イエス様の裁判の様子は、これまでも続けて読んできました。
まず、ユダヤの最高法院で、イエス様は裁かれました。
そして、その判決を持って、ユダヤの最高法院のメンバー、特に祭司長であったと書かれていますが、彼らは、ローマ総督ピラトのところへやって来て、ローマに対する反逆者として、イエス様を訴えました。
この男は、我が民族を惑わしている。
皇帝に税金を納めることを禁止したり、メシアだと言って、人々を扇動したりしている。
この訴えを受けて、ピラトは、イエス様を、調べました。
しかし、その結果、何の罪も見出すことができませんでした。
それでもなお、祭司長たちが、納得しなかったので、ピラトは、ガリラヤの領主であったヘロデのところへ、イエス様を送りました。
しかしながら、ヘロデも、判決を下すことなく、ピラトのところへ、イエス様を送り返して来ました。
そして、今日の場面。
ピラトのもとで、いよいよ、判決が下されます。
13節から読んでみますと、ピラトの判断は、終始一貫しています。
23:13 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、
23:14 言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。
23:15 ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。
23:16 だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
再度取り調べても、結果は同じでした。
結局ピラトは、イエス様に、何の罪も見出すことができませんでした。
そこで彼は、「鞭で懲らしめて釈放しよう」と提案しました。
罪がないのなら、直ちに釈放すれば良いのですが、それでは、祭司長たちが納得しないだろうと思ったのでしょう。
ピラトは、「鞭で懲らしめて釈放しよう」と提案します。
ここにすでに、祭司長たちの顔色を伺っているピラトの姿が、あらわれているわけですが、
しかし、このピラトの申し出に対して、人々は、一斉に「その男を殺せ」と叫んだと記されています。
ピラトは、改めて説明し、釈放しようと呼びかけました。
しかし人々は、「十字架につけろ」と叫び続けました。
三度、ピラトは、釈放しようと呼びかけますが、それでも人々の叫びが止むことはありませんでした。
むしろ、その声は、どんどん強くなっていきました。
そこでピラトは、彼らの要求通りにする決定を下してしまいました。
・人々を恐れたピラト
本来ピラトは、イエス様をすぐにでも釈放すべきでした。
彼は、その決定権を持っていました。
ピラトは、この場にいた誰よりも偉く、誰よりも強い権力を持っていました。
ですから、イエス様が無罪だと思ったのなら、無罪にすることができたわけです。
誰かに相談する必要もない。
人々を説得する必要もなければ、提案する必要もありませんでした。
無罪なら無罪と、そう言えばよかったのですが、それができませんでした。
なぜか。
それは彼が、人々を恐れたからです。
ピラトは、ローマから派遣された総督として、ユダヤの統治を任されていました。
ローマの植民地であったユダヤを、管理・監督することが、彼に与えられていた仕事でした。
ピラトは、きっと考えたと思います。
もし、自分の下した判決によって暴動が起こってしまったら、責任を問われ職を失うかもしれない。
暴動にならなかったとしても、ローマに悪い噂を流されて、目をつけられるかもしれない。
それで彼は、イエス様が無実であることを知りながら、人々の手に引き渡したのです。
保身からくるところの、人々に対する恐れ。
無実だと言ったら、自分の立場が危ういと、そう思って彼は、無実の人を、十字架につけたのです。
・人々
ピラトを、そこまで追い詰めたのは、人々の叫びでした。
なぜ、彼らは、そんなにも激しく十字架につけろと叫んだのでしょうか。
そもそも、彼らは一体、どのような集団だったのでしょうか。
祭司長たちの仲間だったのか。
それとも、たまたま、そこに居合わせた人たちだったのか。
詳細は、全く語られていませんが、おそらく、その両方だったでしょう。
祭司長たちの仲間もいたでしょうし、偶然、そこにいたという人たちもいたでしょう。
ちょうどこの頃、エルサレムでは、過越祭が行われていました。
町は、人でごった返していました。
当時のエルサレムの人口は、大体3~4万人だったそうですが、過越祭の時には、その三倍、あるいは四倍に膨れ上がっていたと言われています。
そんな時に、イエス様の裁判は行われていました。
もちろん、この裁判のために来た人たちもいたでしょう。
でも中には、たまたま通りかかった人もいたかもしれません。
巡礼のついでに立ち寄ったという人もいたかもしれない。
なにかこう、一つの属性ではくくれない、色々な人たちが、そこには、いたのだと思います。
彼らが、一斉に、「十字架につけろ」と叫んだのです。
一斉にというところに、何かこう不自然と言いますか、人為的なものがあるように思います。
マルコ福音書やマタイ福音書には、祭司長たちが、人々を説得したとか、扇動したということが書かれています。
そのように、祭司長たちに言われて、叫んでいた人もいたでしょう。
中には、お金をもらって、雇われて、叫んでいた人もいたかもしれません。
叫び声が膨らんでいく中では、多数の声に流されて、事の重大さも知らずに叫んでいた人もいたかもしれない。
中には、きっと、おかしいと思った人もいたでしょう。
でも、叫び声の激しさが増していく中で、「おかしい」と言える人はいませんでした。
こうして、イエス様は、十字架に架けられていったのです。
・「あなたは誰に従うのか」
「あなたはどうするのか」と問われているように感じます。
もし、皆さんが、ピラトだったら、どうしていたでしょう。
もし、この場に居合わせた人の一人だったとしたら、どうしていたでしょう。
ピラトは、人々の声に従いました。
ある人々は権力者に従い、またある人々は、多数の声に従いました。
私たちは、誰の声に従うでしょう。
この問いに対して、私たちは、すぐに「神様に従います」と言えるでしょうか。
ピラトのように、自分の立場が危うくなることを恐れて、自分の意見を引っ込めたり、
人々のように、自分の意見を言う勇気が持てず、周りの意見に流されてしまうことが、あると思います。
「長い物には巻かれろ」とよく言われますが、そうやって、強い者に従い、多数の中にいる方が楽でしょう。
でも、そうやってイエス様は、十字架に架けられていったのだということを、私たちは、忘れてはいけないのだと思います。
・バラバ
今日の箇所には、イエス様が十字架につくことによって、その罪を赦され、釈放された、バラバという人が出て来ます。
彼を通して、イエス様の救いの真実が語られていると言われます。
私たちは、イエス様によって担われることを通して、赦され、愛され、生かされていると信じています。
その信仰からいうならば、まさに、このバラバこそ、私たちの姿であると言えます。
・結論
だから、私たちは今日、「あなたは誰に従うのか」という、この問いに向き合いたいのです。
誰の声に聞き、誰に従って生きるのか。
場の空気を読んだり、人の意見を聞いて、自分の主張を変えるというのは、必ずしも、悪いことではありません。
でも、本当にそれでいいのかと、問いかける必要があるのだと思います。
流されるままに決めてしまうのではなく、立ち止まり、静まって、一人になって、イエス様の声に耳を傾ける。
どんなに大勢の中にいても、神の前では一人です。
一人の人間として、神の前に、決断していく。
神の前に、選び取っていく。
その先にこそ、本当に歩むべき道があるのだと思います。
これは、個人の問題だけではありません。
教会の課題であり、社会の課題でもあります。
一人一人が、自分で考え、発言したり、決断したりできるような、教会であり、社会である。
これは、とても大事なことだと思います。
みんなと違う意見を言っても、大丈夫。
責められたり、仲間外れにされたりしない。
そういう信頼関係を築いていくことも、第二第三のイエス様を生み出さないために、大切なことです。
個人の事柄としては、流されるままに決めてしまうのではなく、立ち止まり、静まって、一人になって、イエス様の声に耳を傾けていく。
教会や社会を形成している一員としては、安心して、自分の意見が言える環境を整えていく。
この二つのことを、今日は、心に覚えておきたいと思います。
お祈りしましょう。