聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書22章47節〜53節。
新共同訳新約聖書155ページ〜156ページです。
22:47 イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。
22:48 イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。
22:49 イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。
22:50 そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。
22:51 そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。
22:52 それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。
22:53 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」
「闇は光に勝たなかった」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・序
みなさん、おはようございます。
先週木曜日より、息子の初と、連れ合いの光が体調不良になりまして、金曜日に病院で検査をしたところ、コロナウイルス陽性と診断されました。
私と充は、特に症状もなく、今のところ元気なのですが、感染していて無症状という可能性もあります。
その場合、誰かに感染させてしまう可能性も0ではありませんので、今日の礼拝出席は控えて、メッセージは、録画したものを流していただくことに、させていただきました。
こうやって、誰もいないところで、一人、カメラに向かってメッセージをするというのは、2020年の緊急事態宣言が出た頃、以来です。
あの頃の緊張感は、もうあまり覚えていませんけれども、正直、今は、ものすごく緊張しておりますし、やりづらさを感じております。
これは蛇足ですが、会衆の顔や、反応が見えないところでメッセージをするというのは、牧師の中でも、良いという人と嫌だという人がいまして、良いという人はですね、反応を気にせずできるという人が多いです。
寝ている人を気にせずにできるとかですね、つまらなさそうに聞いている人とか、明らかに聞いてない、違うことを考えてるなっていう人とかですね、講壇からだと、すごい良く見えるんです。
見たくなくてもですね、そういう人が目に入ってくるんです。
誤解しないでほしいんですが、これは、みなさんが悪いとかですね、そういうことを、言いたいのでは決してありません。
これはもう、説教者の力不足ですから、それはもう、私自身に責任があると思っていますけれども、でもですね、中には、そういう人を見ると、説教の途中から、だんだん凹んでくる人もいるわけです。
そしてもう結論の時には、力尽きてしまう。
説教の中盤くらいから、もう心が折れてしまうなんていう、誰とは言いませんけれども、そういう心の弱い者もおりまして、そういう人にとっては、誰もいないところでメッセージする方が良いということもあるわけです。
私がどうかということについては、あえて言いませんけれども、いずれにせよ、いつもと違う状況でのメッセージということで、非常に緊張しております。
聞き苦しいところがあると思いますが、どうぞ、ご了承ください。
・闇の中で、どう生きていったらよいか
それでは、今日のメッセージの中身に入っていきたいと思いますが、
今日は、先ほど読んでいただきました通り、イエス様が逮捕される場面から、メッセージをしたいと思います。
非常に暗い内容です。
とうとうイエス様が逮捕されるという場面ですけれども、これ内容だけじゃなくてですね、時間も夜ということで、この場面自体、とても暗い中での出来事でありました。
なぜ、祭司長や長老たちは、そんな時間帯に、イエス様を逮捕したのでしょうか。
エルサレムに来て以来、イエス様は、毎日神殿を訪れていました。
祭司長や長老たちとも、幾度となく、論争してきました。
逮捕するチャンスなんて、いくらでもあったはずです。
53節でですね、イエス様がおっしゃっている通りです。
毎日神殿の境内で一緒にいた。
逮捕しようと思えば、いくらでもできたはずなのに、あえて彼らは、夜中に、隠れるようにしてイエス様を捕らえにやってきた。
なぜか。
それは、不正なことだったからです。
イエス様を逮捕することが、正しいことだったなら、神殿の境内で、堂々と逮捕できたでしょう。
そうすることができなかったのは、やましいところがあったからです。
だからわざわざ、闇夜に乗じて、逮捕しなければならなかったのです。
つまり、彼らは、イエス様の逮捕が不正であるということを、知っていながら、そのことを行なったということです。
正しくないとわかっていたのに、逮捕した。
神に仕える権力者たちが、総出で、そのことを行なった。
ここに、夜の暗さ以上に深い闇があるように感じます。
イエス様は、言われました。
53節「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」
闇とは、神がいない、神不在と、そう思えるような現実を指します。
そこには、混沌と混乱があります。
何が正しいのかわからない。
正しくないとわかっていても、止められない。
そのような中で、本来、守られるべき弱い者たちが犠牲にされ、無実の人の血が流されていく。
そのような状況が、闇が力を振るっている状況だと言えると思います。
これは、聖書の話にとどまらない、私たちの生きる現実でもあるでしょう。
正義の名の下に行われている戦争もそうですし、豊かな暮らしを求めた末の環境破壊や搾取もそうです。
遠くで起こっていることのように思うかもしれませんが、私たちも、そのことに、関係ないとは言えません。
より身近なことで言えば、経済格差や、貧困問題もそうでしょう。
貧しいのは、その人が悪い。自己責任だ。そう言って、押し付けられたり、個人の責任にされるような風潮が、私たちの中にはあると思います。
でも、本当にそれで良いんでしょうか。
神不在と思えるような現実ということで言えば、自然災害や、病気もそうです。
それらは時に、悪魔的に私たちから、大切なものを奪っていきます。
神様がいるのなら、なんでこんなことが起こるのか。
そう思えるような現実の中に、私たちは生きています。
こうした闇の中で、私たちは、どのように生きていったら良いのでしょうか。
聖書は、どのように私たちに、語りかけているのでしょうか。
・闇に直面した人々の様々な反応
今日の箇所には、闇の中を生きる人々の、様々な様子が語られています。
先ほども触れましたが、不正だと知っているのに止められない、やめられない、祭司長や長老たちがいます。
そして、その権力者に流されるまま、その不正に、加担してしまっている群衆たちがいます。
さらに、衝撃的なのは、その先頭に、ユダがいるということです。
イエス様の弟子であったユダが、逮捕する者たちの先頭にいる。
しかも、愛情表現であるはずの接吻によって裏切るという、まさに混沌した状況が、語られています。
ここには、闇に飲み込まれてしまった人間たちの姿があります。
それに対して、弟子たちの中には、剣を抜き暴力に訴える者もいました。
剣には剣を、暴力には暴力をもって抵抗する。
一見、正当に見えるかもしれませんが、そこに、なんの希望もないことを、私たちは知っています。
彼らもまた、闇に飲み込まれてしまっていると言えるでしょう。
そんな中で、イエス様はどうされたかというと、逃げるのでも、暴力に訴えるのでもなく、静かに、その出来事を受け止めていかれました。
そういうと、どこか、不正に対して諦めた、泣き寝入りしたというふうに思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、そうではありません。
イエス様は、「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」と言われました。
この「今は」という言葉に、私は、イエス様の信仰があらわれているように感じます。
イエス様は決して、諦めたわけじゃない。
闇が力を振るっている現実を認めながらも、それが、永遠ではないことを信じていた。
信じて、踏み出していかれた。
だからイエス様は、逃げたり、諦めたり、憎んだり、暴力に訴えることもなく済んだのではないでしょうか。
信仰があったからこそ、闇に飲み込まれずに、済んだのではないでしょうか。
・信頼と献身
そりゃ神の子なんだから、私たちとは違う特別なお方なんだから、そうできて当然だと思う人もいるかもしれません。
でも、先週の箇所には、イエス様も、私たちと同じように、恐れや不安を抱く一人の人間だったことが語られていました。
オリーブ山で、「この杯を取りのけてください」と、イエス様は祈られました。
この杯というのは、十字架に至る運命のことを指しています。
十字架に至る運命を、取り除けてくださいと、イエス様は、血が滴るような汗を流しながら、切に祈られました。
しかし、それでもなお「私の願いではなく、御心がなりますように」と、委ねて歩んでいかれました。
恐れや不安がなかったわけでは、決して、ありません。
それを抱きながらも、しかし、神に委ねていくことができた。
それはやはり、信仰のなせるわざだと思います。
どんなに闇が力を振るっても、光がなくなることはない。
今は、闇が力を振るっているけれど、でも、それは永遠じゃない。
やがて、終わりが来る。
そう信じて、イエス様は、歩んでいかれました。
この信仰に学びたいと思います。
・闇は光に勝たない。光を信じて生きる。
最初に言いました通り、私たちが生きているこの世界は、闇で覆われています。
戦争や紛争、環境破壊、搾取。
あらゆるところに不正があり、私たちもその渦の中に置かれています。
何が正しいのかもわからない。
混沌とした現実の中で、私たちも混乱し、諦め、自分のことしか考えられなくなる時があります。
病気や災害に襲われる時もそうです。
大切なものを奪われていく痛み、悲しみ、怒り。
その中で、自暴自棄になったり、周囲の人を傷つけて、孤独を深めたりしてしまう私たちですが、そんな時こそ、イエス様の姿を思い出したいと思います。
イエス様も、暗闇の中で、恐れを感じ、悩み、苦しまれました。
それでもなお、希望を捨てなかったのは、闇の中に輝く光を信じていたからです。
今日の招詞で読んでいただきましたヨハネによる福音書1章5節には、「光は闇の中に輝いている。闇はこれに勝たなかった」と記されています。
光は闇の中に輝いている。
この輝きは、私たちの目には見えづらいものです。
私たちには闇としか見えない。
でも、その現実の中に、確かに光が輝いていると、聖書は教えています。
十字架こそ、その証です。
そこには、イエス・キリストがおられます。
闇の中にイエス様はおられます。
その姿は、弱く、小さく、傷だらけですが、しかし、その命は、今も燃えています。
十字架におられるイエス様こそが、復活の命に生きておられるお方なのです。
そのことを私たちは、忘れないでいたいと思います。
十字架の上から、イエス様は、おっしゃっています。
「今は、闇が力を振るっている。しかし、勇気を出しなさい。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに勝たなかった」。
お祈りいたします。
主なる神様
み言葉を感謝いたします。
今日、私たちは、闇の中に光が輝いていることを、改めて、教えられました。
どうぞ、それを信じる信仰を、お与えてください。
特に今、闇の中を歩んでいる人々に、その信仰が与えられますように。
そして、その信仰を希望へ、希望を愛へと、導いてください。
闇の中にあっても、それに飲み込まれることなく、愛に生きていくことができるように、どうぞ私たちの信仰を、支えてください。
主イエス・キリストの皆によって祈ります。アーメン。