聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、出エジプト記3章1節〜10節。
新共同訳旧約聖書96ページ〜97ページです。
3:1 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。
3:2 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。
3:3 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」
3:4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、
3:5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」
3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。
3:8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモ リ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。
3:9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。
3:10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
「燃え尽きない柴」と題して、エイカーズ愛牧師に、メッセージをしていただきます。
おはようございます。今日このようにして皆さんと共に礼拝を捧げることができることを神さまに感謝します。先ほどの子供メッセージにありましたように、モーセは事情があってエジプトから離れてミディアンというところで新しい人生をスタートしていました。ミディアンに移って数十年が経ち、もう、ここで安心して暮らせる、エジプトには大好きな両親と兄弟と世話になった人たちもいるけれども、もう、そのことを忘れよう。ということを恐らく考えていた頃、神さまは不思議な形でモーセの前に現れました。そしてそれは、モーセが義理の父や妻といるときではなく、彼が一人で山の方に羊の群れを追いかけて行ったときのことでした。エジプトの王ファラオに命を狙われる危険は、ここではない。と彼は安心していたと思います。モーセがエジプトから出るきっかけになった事件は、モーセと民族的に同じだったヘブライ人のひとりが、エジプト人から打たれているのを見て、これは、何とかしなければ。という使命感に駆られて、彼は人が見ていないことを確認して、その加害者であるエジプト人を殺してしまいました。それを知ったエジプトの王ファラオはモーセを捕まえて攻撃しようとしますが、モーセはギリギリ逃げることができました。周りで人が見ていないということを確認した上でと聖書には記されていますので、モーセは人を殺すことが悪いことだということは知っていました。それでも、悪の息の根を自分が止めなければ!と自分が、その点をコントロールする使命感が強い人でした。モーセは自分の妻の実家で義理の父の羊の世話をするということをしていました。もちろん生き物相手なので、責任は伴いますが、それでも、たとえば野獣に襲われて羊が亡くなったり、崖から一匹落ちて見失ったとしても、モーセの損失にはならず、モーセの義理のお父さんの財産が一部失われるということになります。モーセはもちろん今の生活に満足していましたし、何よりファラオから命が狙われる可能性が低い遠いところにいましたので、それが大切なポイントだったと思いますけれども、本来は人の財産の管理をするとか、人の所有物である羊の世話をするということよりも、むしろ、自分が責任者となり、色々と大切な判断をし、行動するということの方が好きだったのではないかと思います。
今日の説教題を「燃え尽きない柴」と、しました。昨年3月に静岡の東山荘で全国小羊会キャンプが行われました。久しぶりの対面開催ということで、スタッフ一同、最高のキャンプにしたいという思いが強く、気候などあまり考えずにキャンプファイアーをしました。3月末とはいえ、静岡の山の中で夜は寒くなかなかの経験となりました。子どもたちは、暗い山の中で明るい赤いキャンプファイアーの炎を見ながら講師の松藤先生のお話しを聞いたり、講演が終わるとみんなでマシュマロを棒に刺して火であぶって食べたりと楽しかったと思いますが、わたしたちスタッフは、かなりドキドキしていました。プログラムが思っていた以上に長くかかり、くべている薪が切れてしまうと、火が消えてしまう。火が消えてしまうと、ここ半年ほどかけて企画してきていた炎を見つめながら聖書のお話しを聞く、マシュマロをその後に焼くということが、台無しになってしまう。ということがありました。しかし、悩ましいことに、薪を一束使うごとにいくら。と代金がかかってしまいます。松藤先生がお話しをしている間に、スタッフの先生方が、火がこのままいくと、お話しの途中で消えてしまいます。どうしましょうか、と相談に来てくださり、追加で燃やしましょう。子どもたちのために。と言って高価な薪を沢山くべていただきました。
関係ないような話が長くなりましたが、モーセが義理の父の羊の世話をしていたとき、山の方に行くと燃えても、燃え尽きない不思議な柴を見かけました。近づいて行って、様子を見てみよう。と、なった訳です。モーセもこの頃にはベテランの羊飼いでしたから野宿をして、自ら焚き火をする時もあります。ですから、誰も枝も葉っぱも、くべていないのに燃え続けるとは、どういうことか。と自分の専門分野なだけに、とっても気になったのでした。神さまは、そういうことをなさるお方です。大事なことをわたしたちに伝えようとされる時には、最善のタイミングを見極め、そして、わたしたちが「これはどういうことですか」と思うようなことを近くに置いて、そこから語りかけてくださるのかもしれません。
神さまはモーセに、ご自身がエジプトに降って行く、と宣言されました。エジプトにいる人たちの叫びが、わたしの元に届いた。彼らが虐げられている様(さま)、彼らを追い使う者たちの様子がわたしには分かる。と言われたのです。モーセが若い頃、恐らく20歳前後だったのではないかと思いますが、殺人を犯してしまった。その原因は何だったでしょうか。あのエジプトで、エジプト人がヘブライ人、もしくはイスラエルの民と呼ばれる自分と同じ人種の人たちのことを虐待していた。それが許せなかった。そこが彼の、いわば一番許せないことでした。そのことも、よ~く知っておられた神さまは、あれから何十年経った今も、あなたは平和に暮らしているかもしれないが、彼らは相変わらず苦しんでいる。叫んでいる。と状況をモーセに知らせます。そして、今、あなたはエジプトに向かいなさい。と命じられました。
モーセと言えば、皆さんはどんな場面を思い出されるでしょうか。わたしは出エジプト記17章に登場する、アマレクとの戦いの場面が大変印象的です。エジプトを出て荒野での40年にわたる旅路を歩んでいたイスラエルの民にアマレク人という遊牧民の人たちがイスラエル人と戦いました。そのときに、ヨシュアというモーセよりも若いリーダーが戦いの最前線で指揮をとり、モーセは、自分の兄弟アロンと、また自分の義理の兄弟フルと一緒に丘のてっぺんまで登り、モーセが手を上げている間は、イスラエルの民の方が優勢でした。でもモーセが疲れて少しずつ手が下がってくると、イスラエルの民は負けそうになるのでした。そんなとき、アロンとフルがモーセが疲れてきているのを見かねて、石を運んできてモーセが座れるように工夫をして助けたり、また、アロンとフルがモーセの両側にそれぞれ立って、一人はモーセの右手を、そしてもう一人はモーセの左手を支えた、と聖書には書いてあります。わたしが見たことのある、この場面の絵画では、クタクタに疲れ果て、髪の毛もボサボサになっているモーセが倒れそうになっているところを二人の男性がその両脇を抱えて、まるで倒れた人をもう一度立ち上がらせようとしているかのように、彼の両腕を抱え込んで全力で支えている。そんな絵でした。わたしは北海道に住んでおりますが、数年前に20数年ぶりにスキーに行きました。学生時代にはいつも修学旅行や合宿授業でスキーに行っておりましたので、頭の中では何となくスムーズに滑れるだろう。止まるときは、スキー板をハの字にして、ぎゅっと止まれるだろうと思っていました。しかし少し山の斜面を滑り始めましたけれども、すぐに転んでしまいます。そして、また、どこに手をついて、どこに力を入れて起き上がれば良いのか、その感覚がまだ分からず、ゲレンデで頑張って起きあがろうとするにも、なかなか上手くいきません。それでも、上からはどんどんスキーをしている人たちが滑って来ますので、そこで諦めて座っておくことはできませんので、起きあがろうと頑張りますが、なかなかどうして良いか分かりませんでした。すると、一緒にスキーに行っていた友人二人が近くに来てくれて、先ほどの出エジプト記17章の倒れそうなモーセの両脇を抱えて助けたアロンとフルのように、文字通りわたしの両脇をそれぞれ右側と左側に分かれて抱え込むようにして引き上げてくださり、ようやくまた立ち上がることができました。
大人になると、なかなか人から表立って助けてもらったり、失敗したことを見られる、知られる、ということが少なくなり、「大丈夫だから」と、意地を張って、平静を装ったりすることが多くなるかもしれません。その点、子どもたちは多くの場合、何か「違うよ」と指摘をされたり、人に助けてもらったら、すぐに「あ、そっか」と言ったり、「ありがとう」と言って、淡々と次へ、次へと足取り軽く進んでゆくことが、本当にすごいと思うことが多くあります。
今日の説教題を「燃え尽きない柴」としました。燃え尽き症候群という言葉があるように、まさにモーセは、アマレクの戦いでも、そして、完全に燃え尽きそうになっていました。問題は何でしょうか、それは、モーセ自身が「自分が」という責任感が強すぎるあまり、役割分担を上手くできていなかったこと。自分が一番物事を総合的に理解、把握しているのだから、自分がすべてのことに責任をもって、やり遂げる。という考えを持っていたからでした。神さまが、あの山の上で不思議と、燃え尽きない柴をモーセに見せながら命じられたことは、どういうことだったでしょうか。それは、神さま御自身がエジプトで苦しんでいる、虐げられている人たちのところへ降って行かれる。ということ、そして、その大前提の上で、神さまがモーセをエジプト王ファラオのもとに遣わし、人々を解放してください。と、交渉をして人々をエジプトから導き出しなさい。ということだったのではないでしょうか。
モーセは自分では、神さまが自分のことを人々のリーダーとして立ててくださったのだから、何が何でも、自分はいつも全力疾走で、神さまのために人々のために、走り続けなければいけない。と思い込んでいましたが、そうではありませんでした。
神さまが、あの燃え尽きない柴の場面を通してモーセに示されたことは、結構単純なことかもしれません。それは、神さま御自身が、一番困っている、助けを必要としている人たちのもとに御(おん)自ら、降って行かれ、働かれる。ということです。その、確かなレールの上に、モーセとアロンという二人の人たちが、まるで電車に乗って「行ってきなさい」と、言われている。でも、同時に、レールがないところは電車は走れないように、神さまが必ず共にいて、モーセとアロンが遣わされる先々に既に、先立って道を拓いていてくださる。ということです。神さまがすでに、その一番大変なところはしてくださっています。わたしたちは、神さまから受けとった、良い知らせを両手で受け取り、そしてそこにいる人たちに心を込めて、祈りながら届けて分かち合ってゆく、そのことが求められています。自分の限りある財産を削り出して、ひねり出して、困っている人を無理やり助けなさいとは神さまは言われません。イエスさまがあの五千人以上の人たちがいたところで、イエスさまではない、ひとりの誰か他の人が持っていたパンと魚を、一度借りて、それを手にとり祝福して裂いて、それが人々の心と胃袋を満たしていったように、イエスさまも、父なる神さまが既にそこに備えてくださった助け手の持っていたものを一旦預かる、もしくはイエスさま御自身が、神さまからの祝福の通り良い、管として、用いられたのでは、ないでしょうか。
戦前から、東北に送られて来ていたタマシン・アレンという宣教師をご存知でしょうか。このタマシン・アレンさんという方は、当時、多くの宣教師が東京や仙台にあるキリスト教学校で先生をしていた時代、しばらく自らも東京や仙台で教えた後に、岩手県の久慈という場所に行きました。それは、彼女が日本に来て出会った人たちからの話を聞く中で、岩手は特に貧しく、食べるものがない子どもたちや、貧しい大人が亡くなっている。という信じられないことを聞いたからでした。彼女は導かれるようにして、岩手の決して交通の便(べん)が良いとは言えない、ひたすら歩いて移動しないといけないようなところへと赴(おもむ)いたのでした。教会学校、礼拝以外にも、英語教室、幼稚園、学校も開始しました。そして、久慈で食糧難がひどいときには、アメリカから食糧を輸入したりして、それを無償で配り歩いたのでした。彼女自身の財産を切り崩してことではなく、このような助けが必要です、と普段から彼女の日本での働きをおぼえ、祈って捧げてくださっている人たちに、その必要を知らせるなかで、必要な物資が満たされ、それらを配布する。タマシン・アレンさんの優れたところは、周りの人たちを巻き込んで、一緒にその働きにあたり、自分が亡くなっても、その良い働きが続いていくようにと後継者を励まし育てていったことです。
冒頭に賛美をした「何もできない」という曲の歌詞の最後は、「何もできないけど、イエスさまが共にいる、喜びが溢れてくる」というものです。自力では、わたしたちの力には、限りがあります。わたしたちは、心は燃えていても肉体は弱いのです。という御言葉のように、思いはあっても託されている体力と時間には限りがあります。しかし、神さまが、イエスさまが、聖霊さまが、わたしたちと共におられ、しかも、わたしたちの目には未だ見えないところへも先立って進んでいてくださり、人々の痛みを知り、涙を見て、それらを放っておくことはなさいません。神さまは約束通り、救い主イエスさまをこの世に送ってくださいました。このイエスさまは、もはや、わたしたちが自力ですべて頑張るのではなく、イエスさまという世界で一番通り良い管を通して、わたしたちすべての者に祝福と赦しが注がれている。そのことを意味しています。 わたし、ではなく、神さまが、今日、豊かに働かれる、その御業を見せていただきましょう。わたしたちのような、体力や時間や気力にも限りがある存在を通して、しかし無限に豊かに、驚くほど美しく働かれる神さまがおられます。ガリラヤで漁師をしていた弟子たちは、教育も受けてないのに、なんで外国語で、しかも意味が通じる外国語で世界中から来ていた人たちに神さまのなさった大きな業を証しできてるんだ。と人々が驚き、神さまは、すごい。となったように、わたしたち自身は弱くても、神さまには力があり、神さまは尽きない愛の光を注ぎ続けてくださっている。そのことが、さらに明確に今日も、表されて参りますようにと願います。