聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書22章39節〜46節。
新共同訳新約聖書155ページです。
22:39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。
22:40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。
22:41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
22:42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
〔22:43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
22:45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。
22:46 イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
「祈り〜神と共に生きるために〜」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日は、お祈りについて話したいと思います。
ちょっと前にも、お祈りについて話しました。
その時には、祈られていることを忘れないでって話でした。
自分のために、祈ってくれている人がいる。
少なくとも、イエス様は、私のことを覚えて、私のために祈ってくれている。
そのことを、忘れないでって話をしました。
それに続いて、今日、みなさんに伝えたいのは、目を覚まして祈ろうってことです。
目を覚まして祈る。
そんなの、当たり前じゃんって、思う人もいるかもしれません。
でも、どうでしょうか?
みなさん、いつも、目を覚まして祈っているでしょうか。
我が家では、食事をする際に祈る習慣があるのですが、以前、次男の充くんが「神様、このお食事を、アーメン」と祈っていたことがありました。
早くご飯を食べたかったのか、祈るのが面倒だったのか、あまりにも、心がどこか別のところに行ってしまっている祈りだったので「ちゃんと祈りなさい」と言いました。
でも、振り返ってみると、自分にも似たようなことがあるなと思いました。
私も、ご飯を食べる時のお祈りは、神様じゃなくて、ご飯に、心を奪われている時が、時々あります。
それから、みんなの前でお祈りをする時には、みんなのことが気になって、ちゃんとしたお祈りをしなくちゃって、神様じゃなくて、みんなの方に、心が向けられている時があるなってことがあります。
そんなふうに、祈っているんだけど、心がこもっていない。
口だけ、形だけになってしまっている。
そんなことが時々、あるように思います。
みなさんはどうでしょうか。
お祈りっていうのは、ひとりごとじゃありません。
聞いてくれている相手がいます。
聞いてくれている相手って誰でしょうか?ーそう、神様です。
お祈りをする時、私たちは最初に、神様って呼びかけます。
そしたら神様は、見えないけど、きっと、フってこちらの方を向いて、何々って聞いておられるんだと思います。
その時に、私たちの心が、別のところに行ってしまっていたとしたら、神様どう思うでしょうか。
呼ばれたから振り返ったのに、なんだ俺じゃないのかよって思うと思います。
それじゃあ、祈る意味がありません。
お祈りは、神様に語りかける行為です。
そして、神様とつながる行為です。
神様は、いつも、私たちの祈りを聞いてくれています。
だから私たちも、お祈りをする時には、ちゃんと神様に心を向けて、心を込めて祈りたいと思います。
そうやって祈る時、私たちは、神様とつながっています。
糸電話で話すように、私たちは、お祈りを通して、神様とつながることができる。
そのことを覚えながら、形だけ、口だけじゃなく、ちゃんと神様に心を向けて、心を込めて祈ってほしいと思います。
お祈りしましょう。
・イエス様、最期の教え
先週に続いて、今日の箇所には、イエス様と弟子たちのやりとりが記されています。
先週は、「敵を愛しなさい」とか、「剣を取る者は、剣によって滅ぶ」と言われた、あのイエス様が、「着る物を売ってでも剣を買いなさい」と言われた箇所を読みました。
でも、これは、武器を奨励するものではなく、迫り来る危機を知らせる警告の言葉でした。
危機が、もう目の前まで迫っている。
イエス様は、そのことを伝えるために、「着る物を売ってでも剣を買いなさい」なんてことを言われたわけですが、しかし、弟子たちには伝わっていなかったようです。
相変わらず彼らの態度には、緊張感が感じられません。
特に今日の箇所には、それが際立って、語られています。
44節「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」と記されています。
血の滴るように、汗が地面に落ちていた。
それほど真剣に、そして懸命にイエス様は祈っておられたわけですが、一方弟子たちは、そのすぐそばで、
石を投げれば届くほどの距離にいながら、眠り込んでいたと、記されています。
私も学生時代、そんなことがあったことを思い出しますけれども、
そんな私でも、流石にこの温度差は、ありえないようにも思います。
石が届くほどの距離で、師匠であるイエス様が、苦しみもだえ、血の滴るように汗を流しながら、祈っておられたのに、弟子たちは、眠り込んでしまっていた。
そんな弟子たちに、イエス様は、「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と語りかけています。
この直後、イエス様は捕えられ、裁判にかけられ、十字架に架けられていくことになります。
ですから、「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」という言葉が、生前、イエス様が弟子たちに向けて語られた、最後の教えとなったわけです。
そう考えると、とても重みのある言葉に思えてきますが、今日は、特に、この言葉に注目しながら、祈りについて考えてみたいと思います。
・起きて祈れ
まず注目したいのは「起きて」という言葉です。
これは単に眠りから目を覚ますことだけでなく、意識をしっかり持ち、心を込めることを意味しているように思います。
子どもメッセージで話しました通り、我が家では、食事をする際に祈る習慣があるのですが、以前息子が「神様、このお食事を、アーメン」と祈ったことがありました。
実は、そう祈る前に、前談がありまして、「充くん、お祈りしてくれる」と頼んだら、「アーメン」とだけ言ったんです。
それで、もうちょっと祈ってよってお願いしたところ、「神様、このお食事を、アーメン」と言ったわけです。
早くご飯を食べたかったのか、祈るのが面倒だったのか、あまりにも、心ここにあらずな祈りだったので「ちゃんと祈って」と言ったわけですが、でも、振り返ってみると、自分にも似たようなことがあるなと思います。
特に、習慣化している祈りというのは、そうなりやすいように思います。
祈りの習慣を作ることは、決して悪いことではありません。
むしろ良いことだと思います。
慌ただしくすぎる日々の生活の中で、特別に取り分けて、祈る時間を作る。
神様と向き合う時間を作る。
それは、私たちにとって、とても大切なことです。
イエス様も、そうでした。
39節40節を見てみますと、「いつものように」「いつもの場所」で、イエス様が祈られたことが記されています。
この習慣は、エルサレムに入られてから、続けられていたことだったようです。
ちょっと戻りまして、21章37節、「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って『オリーブ畑』と呼ばれる山で過ごされた」と記されています。
そうやって、イエス様は、日中は神殿で教え、夜はオリーブ山で祈るというのが、日課になっていたわけです。
このように、イエス様も、祈る習慣を身につけておられたわけですが、でも、そうやって、習慣的に祈っておりますと、無意識的にも祈れてしまうということがあるように思います。
そんなに考えなくても、祈りの言葉が出てくる。
主の祈りなんかは、まさにそうかもしれません。
イエス様が、こう祈りなさいと教えられた、主の祈り。
私も、幼い頃から暗唱してきました。
それゆえに、心を込めず、口だけでも祈れてしまうのです。
このことに、警鐘を鳴らしたのが、宗教改革者のマルティンルターでした。
彼は、主の祈りについて「教会の歴史上、最大の殉教者である」という言い方をしています。
「唱えられることはあっても祈られることがない」。
内容・中身が忘れられ、口だけ、形だけで祈られる。
その度に、主の祈りは、命を奪われているのだと、ルターは言いたいのだと思います。
唱えることと祈ることは、全く質の異なる行為です。
唱えることは、心を込めなくてもできますが、しかし、祈りは、そうはいきません。
祈りで大事なのは、言葉よりも心です。
もちろん、言葉を整えて、準備して祈るということは、とても良いことだと思います。
でも、やはり、決まった言葉を、機械的に読んでも、祈りにはならないのです。
心があるかどうか。想いがこめられているかどうか。そこが肝心なのだと思います。
当時のユダヤ人たちの祈りに対するイエス様の批判もそこにありました。
当時、祈りは、敬虔さ、神に対する信仰深さをはかる、バロメーターになっていたようで、中には、人に見てもらうために、わざわざ、大通りに出て行って、祈る人もいたそうです。
そういう人々に対して、イエス様は、祈りを、演技や、パフォーマンスにしてはならない。
祈りは、人に見せるものでも、人に向けて行うものでもないと、言われました。
大事なのは、祈りの言葉と心が、一致していることです。
「神様」と呼びかける時に、心も体も、神様に向けて祈る。
口だけ、形だけでなく、心を込めて祈る。
それが、「起きて祈る」ということなのだと思います。
当たり前と言えば、当たり前のことですが、とても大切なことだと思います。
・誘惑に陥らぬよう
もう一つ、今日の箇所で注目したいのは、「誘惑に陥らないように」という言葉です。
この言葉には、祈る目的が示されています。
誘惑というのは、心をまどわせ、悪い道へさそいこむことですが、聖書においてそれは、神から私たちを引き離す力として、語られます。
神と繋がって生きようとする私たちを邪魔し、神との関係を引き裂く力です。
それは、聖書においては時に、悪魔の及ぼす力として語られます。
有名な箇所でいうと、イエス様が活動を始められる前に、荒れ野で誘惑を受けられた場面があります。
そこでは、悪魔が出てきまして、世界の国々を見せて、「私を拝むなら、この国々の一切の権力と繁栄とを、あなたに与えよう」と、イエス様に言ったりするわけです。
そうやって、悪魔は、神様とイエス様との関係を、邪魔しようとするわけですが、
このような力というのは、私たちの周りにも、たくさんあるように思います。
そして、そのような力に対して、私たちはあまりに弱く、いとも簡単に神を忘れ、神なしで生きるものです。
自分の想いばかりが先立って、相手を思う余裕もなく振る舞ってしまうことが、多々あります。
昨日、北九州にありますシオン山教会で、連合教会教育委員会主催の研修会を行いました。
テーマは、「会話の仕方」ということで、日常の会話を振り返り、自らと向き合う、そんな研修会でした。
講師は、この教会の教科員である中尾えがおさんだったんですが、研修の最初にえがおさんが、コミュニケーションに関するお困りごとを書き出してくださいって言われて、私たち、こう書き出したわけです。
一方的に話す人がいるとか、こちらの話を聞いてくれないとかですね。
色々書き出した後に、えがおさんが、その主語は誰になっていますか?って言われたんです。
あの人が一方的に話してきて困っている。
この人は、なかなか人の話を聞いてくれなくて困っている。
そんなふうに、コミュニケーションの問題を、相手のせいにしていないか。
相手にだけ、変わることを押し付けていないか。
コミュニケーションは、互いの努力で成り立つものだから、相手のせいにばかりしないで、まずは、自分にできることを考えましょうと言われました。
それを言われて、相手のせいにばかりしている自分に気付かされました。
自分は悪くない、相手が悪いんだ。
ついそうやって、自己中心になってしまうところが、皆さんにはないでしょうか。
自分の願い、自分の想い、自分に飲み込まれながら生きている私たちがいないでしょうか。
そんな私たちが、神との関係に立ち返り、つながりを取り戻すために招かれている行為、それが祈りなのだと思います。
42節でイエス様は、 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈られました。
杯というのは、この後に、イエス様を待ち受けている運命、十字架に至る運命を指しています。
それをイエス様は、取り除けてくださいと祈られました。
しかし、同時にイエス様は、わたしの願いではなく、御心のままにと、祈られました。
自らの弱さに負けず、誘惑に陥らないように、何より、神と共に、神の使命に生きるように、祈られた、イエス様の姿が語られています。
そして、イエス様は、同じように、あなた方も祈りなさいと、呼びかけられておられるのです。
自分の思いや願いに生きる私たちが、神に立ち返っていく。
神とのつながりを回復し、神の御心を求めていく。
そして、神と共に生きていく。
そのためにイエス様は、私たちに、祈りなさいと呼びかけておられるのです。
このことを今日は、心に留めたいと思います。
・
私たちは、何のために祈るのか。
その答えは決して一つじゃないと思います。
でも、今日イエス様が祈りなさいと、呼びかけた意味、目的を、心に留めたいと思います。
誘惑に陥らないように。
サタンの力に負けないため。
自分の弱さに負けないため。
神と共に、神の前に生きるため。
神との関係を取り戻すため。
そのために私たちは、祈るように呼びかけられているのです。
このことを心に留めながら、この一週間、祈りを大事に、歩んでいきましょう。
お祈りします。