聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書22章54節〜62節。
新共同訳新約聖書156ページです。
22:54 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。
22:55 人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。
22:56 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。
22:57 しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。
22:58 少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。
22:59 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。
22:60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。
22:61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
22:62 そして外に出て、激しく泣いた。
「倒れても大丈夫、しなやかにしなる竹のように」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日も最初に子どもメッセージからしたいと思いますが、
今日、皆さんに伝えたいのは、「大木を目指すのではなく、しなやかな竹になろう」ってことです。
ここに木と竹の絵があります。
強い風に吹かれていますけれども、どちらの方が、頑丈に見えますか?・・・そうですね、木の方が頑丈に見えます。
一方で、竹はどうでしょうか。・・・弱そうに見えますか?
確かに、木に比べると、竹は、頑丈ではありません。
でも、竹は、柔らかく、しなることができます。
しなるってわかりますか?・・・この絵にあるように、柔らかく、曲がることができるってことです。
この柔らかさで、竹は、どんなに強い風が吹いても、元に戻ることができます。
木は硬い分、一回、曲がっちゃうと、もう元には戻れませんが、竹は、その柔らかさで、また元に戻ることができます。
ここが竹の良いところです。
この竹みたいに、どんな困難にあっても、起き上がれる人になろうっていうのが、今日の聖書のメッセージです。
今日の聖書の箇所に出てくるペトロさんは、最初、大木になろうとしました。
「何があっても絶対に負けない。
どんなことがあっても、死んでも、イエス様に従います」って、そうやって言っていました。
でも、実際はどうだったかというと、そうはできなかったんです。
イエス様が逮捕された時、「お前もあいつの仲間だろ」って言われて、とっさにペトロさんは、「違う。あんな人は知らない」って言ってしまいました。
「絶対に裏切らない」って言っていたのに、「あんな人は知らない」なんて言ってしまった。
ペトロさんは、大木になることはできませんでした。
強い風に吹かれて、見事に倒れてしまった。
でも、ペトロさんは、ずっと倒れたままだったでしょうか。
そうじゃ、ありませんでした。
ペトロさんは、再び立ち上がり、イエス様に従う人になっていきました。
どうやって立ち上がったかということですが、ペトロさんを、再び立ち上がらせたのは、イエス様でした。
実は、イエス様、ペトロさんが裏切ることを知っていました。
困難に耐えられないことを知っていました。
それでも、なおイエス様は、ペトロさんのことを、見捨てなかったんです。
「ペトロなら大丈夫、きっと起き上がれる、きっと立ち直れる」そう言って、励まし続けたんです。
このイエス様の赦しと励ましを受けて、ペトロさんは、再び起き上がることができました。
大事なのは、倒れないように頑張ることじゃありません。
倒れても大丈夫、また起き上がれば良いって思うことです。
私たちは、頑丈な木にはなれません。
強い風が吹けば、揺れるし、倒れます。
でも、イエス様は、絶対にまた立ち上がることができるって、言ってくださっています。
私たちは弱いけど、でもまた立ち上がることができる。
まさに竹のように、風が吹けば、揺れたり、曲がったりするけれど、必ずまた、立ち上がることができる。
このことを信じて、竹のように、柔らかく、しなやかに、生きる人になっていきましょう。
お祈りします。
・序
皆さんは、現実を突きつけられ、ショックを受けたことがあるでしょうか。
先日、久しぶりに体を動かそうと思って、軽くジョギングをしたのですが、足が鉛のように重く、すぐに息が上がってしまいました。
軽いジョギングぐらい楽勝だろうと思っていましたが、とてもショックでした。
今日の箇所に登場するペトロもそうでした。
ペトロは自信に満ちあふれていました。
イエス様の一番弟子として、どこまでも従う覚悟があると、そう思っていました。
しかし、現実は違いました。
大祭司の家の中庭で「お前もあの人の仲間ではないか」と言われた時、彼は怖くなって「知らない」と言ってしまいます。
しかも、3度も、繰り返してしまいます。
その現実を突きつけられて、ペトロは、激しく泣きました。
死んでも従うと言っていたのに、そうできず、ショックでペトロは泣きました。
私たちにも、時に、このようなことがあるのではないでしょうか。
思うようにできない。
「強くありたい」「正しくありたい」「信仰深くありたい」、でも、そうできない。
そういう現実に直面して、ショックを受けること。
自分の弱さや小ささを知って、自信をなくしたり、落胆したりすることが、きっとあると思います。
それは辛い経験ですが、そこにこそイエス様の眼差しが向けられていると聖書は教えています。
今日は、ペトロを見つめるイエス様の眼差しに注目しながら、メッセージを聞いていきたいと思います。
・ペトロの否認
まずは、そこに至る、ペトロの歩みを見ていきたいと思いますが、
イエス様が捕えられた後、多くの弟子たちは逃げて行ったようですが、唯一ペトロだけは、遠くから、イエス様についていきました。
そして、大祭司の屋敷の中庭まで入っていきました。
イエス様が逮捕され、今まさに裁判にかけられようとしているその屋敷の中庭まで入っていった。
すごいことだと思います。
イエス様の弟子だってバレたら、ただじゃ済まないような場所です。
そこにペトロは、大胆にも、入って行った。
すごい勇気だなと思います。
この時はまだ、死んでもイエス様に従っていくという気持ちがあったのでしょう。
私たちは、何日もかけながら、少しずつ聖書を読んでいるので、わからなくなってしまうところがあるのですが、聖書の時間で言うと、今日の場面はまだ、最後の晩餐を行った日の夜です。
イエス様にですね、「ご一緒なら、死んでも良いと覚悟しています」って言った、ほんの数時間後の出来事です。
ですから、まだペトロも、強い気持ちを持っていたのだと思います。
どんなことがあっても、イエス様についていく。
イエス様なら、きっと、またいつものように、何か起こしてくださるに違いない。
奇跡を起こしてくださるに違いない。
そう信じながら、身を潜めて、待っていたのだと思います。
でも、その信仰は、一人の女中の言葉によって、一気に、揺らがされていくわけです。
「この人も一緒にいた。」
「この人も、イエスの仲間だ。」
そう言われてペトロは、自分のいる場所が敵陣のど真ん中だということに気づくわけです。
ばれたら逮捕される。自分の命も危ないかもしれない。
一気に、不安が高まっていく。心が恐怖に支配されていく。
絶対見捨てないって、そう決心したはずなのに、逃げないとやばいという気持ちが生まれていく。
でも、不思議とペトロは、すぐには逃げませんでした。
「この人も一緒にいた」って言われますが「あんな人は知らない」と言って、その場にとどまりました。
そうすると、また「少したってから」言われるわけです。
「お前もあの連中の仲間だろ」。
これにもまた、ペトロは「いや違う」と言って、その場にとどまりました。
そして、3度目に「お前も一緒だった」と言われるわけですが、この間、1時間ほど時間があったって、聖書に書いています。
逃げようと思えば、いくらでも逃げられたと思いますが、ペトロは、そこにとどまりました。
なぜでしょうか。
通常の精神状態ではなかったというのは、間違いないと思います。
かなり追い詰められていたはずです。
見つかったら、自分まで逮捕されてしまう。
でも、変に逃げても、正体がバレてしまう。
どうしたら良いのか。考えている間に、時間が過ぎていってしまったのではないでしょうか。
イエス様を見捨てないとかいうよりも、逃げることもできない精神状態だったというのが、ペトロの置かれていた状況だったんじゃないかと思います。
もう、イエス様のことなんて、考えている余裕もない。
この場をどう乗り切ったら良いのか。
そのことで一杯一杯になっていたのだと思います。
そんな中で、運命の場面がやってくるわけです。
3度目に「言っていることがわからない」と言った瞬間、鶏が鳴き、イエス様が振り向いて、ペトロを見つめられました。
その時、ペトロは、ふと我に帰ったようにして、イエス様に言われた言葉を思い出します。
「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」
この言葉を思い出し、ペトロは、外に出て、激しく泣きました。
「絶対にイエス様を離れない。
イエス様と一緒なら、牢に入っても、死んでも良いと覚悟しています」と、そう言っていたのに、できなかった。
「自分はなんてダメな人間なんだ。弟子失格だ。」
自分の弱さ、小ささを突きつけられて、悲しくて、悔しくて、彼は激しく泣きました。
・イエス様の眼差し
この時のペトロにとって、イエス様の視線は、どういうものだったのでしょうか。
きっと、痛くて、辛い視線に感じただろうと思います。
「ほらみろ!言ったじゃないか!お前はそういう奴なんだ!」自分の罪を、責め立てられるような、そんな眼差しに感じたと思います。
私も、野球の試合で、エラーをした時、そういう眼差しを受けたことがあります。
視線が痛いってよく言いますが、本当に、痛い。
逃げられるならば、逃げたいと思うような、そんな経験をしたことがあります。
ペトロもそうだったんじゃないでしょうか。
「イエス様、もう見ないで!ごめんなさい!」っていうような、そんな気持ちだったと思います。
でも、イエス様は、本当にそんな想いで、ペトロを見つめていたんでしょうか。
「ほらみろ!」なんて、そんな想いで、ペトロを見つめていたんでしょうか。
違うと思います。
この時、イエス様が伝えたかったのは、「私はお前を知っている。わかっている。お前の弱さも、欠けも全部知ってて弟子にしたんだから、大丈夫。もう泣かなくて良い。」って、そういうことだったんじゃないかって思うのです。
ペトロは、「自分はなんてダメな人間なんだ。弟子失格だ。」って言って、激しく泣いたわけですが、そんなこと、イエス様はとっくの昔に知っておられた。
知っていてなお、自分の弟子として、愛情を注いでこられたのです。
「今日、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うだろう」って言われた時も、同時にイエス様は言われています。
今日の招詞で読んでいただいた箇所ですが、
「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。
だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
「信仰がなくならないように祈った。
だから大丈夫。あなたはきっと立ち直れる。
立ち直ったら、今度はお前が、兄弟たちを力づけてやりなさい」って、イエス様は、そう言われたのです。
ですから、イエス様の眼差しというのは、失敗を責めるような、そういう眼差しではなくて、ペトロの弱さを知りつつも、信仰が失われないようにと願う、愛の眼差しだったということです。
この眼差し、この愛の中で、ペトロは、再び立ち上がっていきました。
泣き崩れて終わりではなくて、再び立ち上がり、初代教会のリーダーにまでなっていきました。
このことを、今日は、覚えたいと思います。
ペトロは確かに、イエス様を知らないと言い、裏切って、逃げていきました。
でも、そんなペトロが、初代教会のリーダーにまで、なっていった。
これは、復活信仰にも通じる信仰だと思います。
どんなに倒れても、それで終わりじゃない。
どんなに倒れても、また立ち上がることができる。
どんなに失敗しても、またやり直すことができる。
これは、ペトロが、そしてイエス様が、身をもって教えてくれた信仰です。
どんなに私たちが弱くても、起き上がらせてくださる神様がいる。
だから、倒れても大丈夫。また起き上がれば良いって、そう考えることができる。
倒れないように、倒れないようにって、頑張るよりも、倒れても大丈夫。
また起き上がれば良いって、そう考えられる。
きっと神様が起こしてくださるって、そう信じることができる。
その信仰が、私たちを、竹のようにしなやかにしていくのです。
子どもメッセージでも言いましたように、大木を目指すのではなく、しなやかな竹になっていきましょう。
どんなに強い人も、いや、強い人ほど、折れる時はポキっと折れます。
そして、ポキっと折れてしまうと、起き上がるのに、とても苦労します。
テレビで「私失敗しないので」ってお医者さんのドラマがやっていましたが、そういう人ほど、失敗した時、立ち直れないものです。
人間というのは、失敗せずにはいられない生き物です。
聖書が、まさにそのことを教えています。
そのことを受け入れて、倒れないように頑張るのではなく、むしろ自分は必ず倒れる。
でも、倒れても必ず起き上がらせてもらえると、そう信じる。
そうすることによって、私たちは、どんなに強い風に吹かれても、竹のように、しなやかに生きていくことができるのです。
・結論
大切なのは、倒れないことではありません。
倒れても大丈夫、倒れても必ず起き上がらせてもらえると、信じることです。
私たちは、どんな風にも倒れない頑丈な木になることはできません。
皆さんの中には、そういう自信家はいらっしゃらないかもしれません。
でも、自分の弱さや小ささを、どこまで自覚できているかと問われると、どうでしょうか。
ペトロのように、きっと私たちの中には、まだまだ気づいていない、
うっすら気づいていても、受け止めきれていない自分というのがいるのだと思います。
私などは、毎朝、鏡の前に立つたびに、自分の姿に驚いています。
写真は、もっと驚きます。思ってたのと違う。縦と横のバランスがおかしい。こんなはずじゃない、そうやって、ショックを受けています。
もっとショックを受けるべきなのかもしれませんが、そんなふうに、私たちは、自分の弱さや小ささ、あるいは、罪深さに対して、無自覚に生きているものです。
そして、そのことに気づかされる経験というのは、やっぱり、とても辛いものでしょう。
でも、そういう経験を通らされることは、私たちにとって、決してマイナスばかりではありません。
むしろプラスであると思います。
自分の弱さや欠けを知ることを通して、私たちは砕かれ、柔らかくされていきます。
そして、竹のように、しなやかになることができるのです。
だから、失敗や挫折を恐れずに、むしろ、失敗する者として、生きていきたいと思います。
イエス様は、仰っています。
「失敗しても大丈夫。必ず、立ち直ることができる。
立ち直ったら、今度はお前が、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
この言葉を信じる時、私たちは、竹のようにしなやかに生きていくことができます。
倒れないように、倒れないようにって、頑張るのではなく、倒れても大丈夫、倒れても必ず起き上がらせてもらえる。そう信じて、歩んでいきましょう。
お祈りします。