2025年11月23日主日礼拝「わたしは必ずあなたと共にいる」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、出エジプト記3章1節〜14節。

3:1 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。

3:2 そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。

3:3 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」

3:4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、

3:5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」

3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。

3:7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。

3:8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。

3:9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。

3:10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

3:11 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」

3:12 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

3:13 モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

3:14 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

「わたしは必ずあなたと共にいる」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

おはようございます。

今日も最初に子どもメッセージをしたいと思いますが、

今日は、モーセさんの話をしたいと思います。

皆さんは、モーセさんって知っていますか。

これがモーセさんです。

なんか魔法使いみたいですけれども、

上の絵は、エジプトで苦しめられていた人たちを引き連れて、海をわたる場面です。

モーセが手を上げると、海が真っ二つに分かれた。

そうやってモーセは、人々を導いたって書いています。

下の絵は、神様から、十戒っていう石の板をもらう場面です。

モーセは、神の民を代表して、この石の板を受け取りました。

これも、有名な場面ですけれども、

こんなふうに、モーセは、とてもすごいことした人なんですが、

ただ、最初からこんなにすごい人だったわけではなかったんです。

今日の聖書の箇所には、その最初の様子が書かれています。

そこには、なんとも情けないモーセが出てきます。

情けないって、どういうことかというと、

モーセさん、なかなか神様に「はい」って言わないんです。

神様は、モーセさんに言います。

「モーセよ、わたしは、苦しんでいる人たちの苦しみを見た。

助けを求める人たちの叫びを聞いた。

行って、彼らを助けなさい。

わたしはあなたを、彼らのもとにつかわす。」

そしたらモーセさん言いました。

「えー、なんでですか。

どうして僕なんですか。

そんなこと僕、できないですよ。」

それでも神様が、行けって言うと、今度は、「こうなったらどうするんですか、ああなったらどうするんですか」。

「わたしは話すのが苦手だから、誰もついてきませんよ。

わたしじゃなくて、もっと他の人にしてくださいよ」って、全然行こうとしないんです。

そんなモーセに、とうとう神様は怒っちゃうっていう、そんな場面もあるんですが、

それぐらい、モーセさんは、なかなか行くって、言わなかったんです。

なんでそんなに行きたくなかったのか。

それは、自分には無理って思ったからです。

苦しんでいる人たちを助け出すなんて、自分にはできない。

そんな力、わたしにはないって、そう思ったからです。

まさか、この後、こんなことをするなんて、モーセさん自身、思ってもいなかったんです。

そんなモーセさんに、神様は言います。

「モーセよ、わたしがあなたと共にいる。

力がなくても大丈夫。話すのが下手でもかまわない。

わたしがいるから、信じて出かけていきなさい。」

この言葉に押し出されて、モーセさんは、出かけていきました。

自信もないし、力もないし、話すのも下手だけど、神様が一緒にいる。

それだけを信じて、出かけて行きました。

大切なのは、何ができるかよりも、誰がいるかです。

どんなに私たちが弱くても、私たちは決して一人じゃありません。

私たちには神様がいるし、仲間がいる。

きっと、この先みんなにも、無理って思えることがおこるでしょう。

わたしなんか、毎日のようにそんなことがありますが、でもそんな時、「わたしには神様がいる。仲間がいる。

だから大丈夫」って信じて、無理って思えることにも、挑戦していく人になっていってほしいと思います。

お祈りします。

・序

間があきましたけれども、11月第1週から、モーセ物語を読んでおります。

前回は、モーセが生まれた時の話でしたが、今日の話は、モーセが80歳の頃の話です。

だいぶ間が飛んでしまっていますが、

そこには、モーセが、神様から遣わされていく様子が記されています。

アブラハムが神様に遣わされたのは75歳だったと書かれていますが、モーセはさらに遅い80歳で、神様から遣わされていきました。

そのように神様は、いつ何時、私たちを用いられるかわかりません。

神様の召し、神様が私たちを呼ばれるのに、年齢は関係ないわけです。

どんなに高齢になっても、どんなに自分は引退だと思っても、神様は私たちを用いられます。

今日は、そんなモーセの召命の場面から、特に、神様のおられる場所、神様はどこにおられるかということについて考えたいと思います。

神様の姿は、私たちには見えません。

どこにおられるかということも私たちにはわかりません。

でも、今日の箇所にはそのヒントとなる3つの言葉が記されています。

この3つの言葉を手掛かりに、神様はどこにおられるのかということについて考えてみたいと思います。

・道をそれたところに神はおられる

一つ目に注目したい言葉は3節の「道をそれて」という言葉です。

3:3 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」

モーセは、燃え尽きない柴に引き寄せられるように、道をそれて、近づいていきました。

そして、その先で、神様の語りかけを聞くわけですが、

本来この、「道をそれて」という言葉は、ネガティブな意味で用いられることが多いように思います。

道を「外れる」とか、道を「ずれてしまう」。いわゆる「コースアウト」を意味する言葉です。

レースで言ったら、もう失格なわけですが、それはまさにモーセの人生そのものでした。

前回読みました通り、モーセが生まれた時代、イスラエルの民は、エジプトで奴隷として虐げられていました。

エジプト王ファラオは、これ以上イスラエルの民が増えないようにするために、「生まれた男の子は一人残らずナイル川に放り込め」と命じました。

それでモーセも、生まれて間もなく、ナイル川のほとりに置かれるわけですが、エジプトの王女にひろわれ、王の養子として、つまり王子として育てられることになります。

命の危機から一転して、王子としての道が開かれるわけです。

でも、モーセは、その道をそれてしまいます。

ある時、モーセは、同胞のイスラエル人が、エジプト人に打たれているのを目の当たりにし、我慢できず、そのエジプト人を殺してしまいます。

その事件はすぐにファラオの耳に入り、ファラオはモーセを処刑しようとします。

それでモーセは、ミディアンの地に逃げて行き、そこで逃亡者として、また寄留者として、生きていくことになるわけです。

そのようにしてモーセは、王子としての道をそれてしまいました。

せっかく勝ち組の人生が開かれていたのに、そのレールから彼は、外れてしまった。

まさに、道をそれてしまったわけですが、でも、そこに神様はおられたのです。

私が神様と出会ったのも、道をそれたところだったなと思います。

大学受験に失敗し、浪人してもうまくいかず、行きたかったところとは違う大学に進学しました。

正直その時には、人生終わったぐらいに思っていましたけれども、

でも、そこに大切な人たちとの出会い、神様との出会いが与えられて行きました。

道をそれていなかったら、今の自分はいないと、そう思わされます。

私たちが生きるこの社会は、一度道を踏み外すと、なかなか戻ってこれないような厳しい場所かもしれません。

でも、聖書は、道をそれたところに神がおられると教えています。

道をそれたところに、神様はおられる。

まずそのことを、覚えておきたいと思います。

・救いの手の届かないような奥深く、試練の只中に神はおられる

次に注目したいのは、1節2節に記されています「荒れ野の奥の、燃える柴の中」という言葉です。

この言葉も、とても大事な言葉であると思います。

聖書において「荒れ野」は試練の場所であり、誘惑の場所です。

バプテスマのヨハネは、自らを律するために、荒れ野に行きました。

イエス様も、宣教の旅に旅立つ前に、荒れ野で試みを受けました。

神様は、そんな荒れ野の奥深く、燃え盛る炎の中から語りかけられました。

これは、救いの手の届かないような奥深く、燃やし尽くされてしまうような厳しい試練の只中に神はおられるということをあらわしています。

先ほども言いました通り、当時イスラエルの民は、エジプトで奴隷として虐げられていました。

「彼らが従事した労働は、いずれも過酷を極めた」と記されています。

神は、そんな民の只中におられました。

そして、その苦しみをつぶさに見、叫び声を聞き、痛みを知ったと記されています。

人の痛みというのは、なかなかわからないものです。

どんなにわかろうと思っても、本人にしかわからない痛みというのが必ずあるわけですが、神様は、その痛みを知ったと言われる。

なぜか。

それは、その人と一緒に、燃え盛る炎の中におられるからです。

私たちが痛む時、神様が共にいる。

そして、私たちの痛み、苦しみを知ってくださり、助けを与えてくださるのです。

神様は、救いの手の届かないような奥深く、厳しい試練の只中におられる。

これが、神様の第二の居場所です。

・わたしは必ずあなたと共にいる

最後に注目したいのは、12節「わたしは必ずあなたと共にいる」という言葉です。

これは、子どもメッセージでも言いました通り、神様の呼びかけを拒むモーセに対して与えられた言葉です。

モーセは、「わたしは何者でしょう」と言って、神の召しを断ろうとしました。

それは、当時のモーセのことを考えると、当然のことだったかもしれません。

先ほども言いました通り、モーセはこの時、逃亡者でした。

同胞のイスラエル人が苦しめられているのを知りながらも、何もできなかった。

逃げ出すことしかできなかった。

だからモーセは、「私は何者でしょう」って言ったのだと思います。

自分には何もない。何者でもない。

そんな自分が、誰かを救うなんて、できるはずがない。

そう思っていたモーセに、神様は「わたしは必ずあなたと共にいる」と言われたのです。

神様は、弱さを覚える人々と共におられるということです。

・履物を脱いで、それぞれの荒れ野へ

5節で、神様はモーセに「履物を脱ぎなさい」とおっしゃっています。

この「履物を脱ぐ」というのは、古代イスラエルにおいて、権利を渡す証しでした。

つまり、神様は、主導権を手放し、委ねなさいと言われたということです。

自分の力の無さに、神の召しを拒否しようとしたモーセでしたが、そのままで良かったのです。

力なんてなくていい。

「わたしが必ずあなたと共にいる。」

だから、弱いままで、委ねて従ってきなさいと、言われているのです。

大切なのは、自分に何ができるかよりも、誰が共にいるかということです。

私たちが今日、旅立っていく場所も、荒れ野のような試みの場所かもしれません。

モーセのように、自分の力ではどうしようもできない現実に、向き合わされることが、あるかもしれません。

でも、神様は、その場所で「わたしが必ずあなたと共にいる」と語りかけてくださるのです。

・結論

今日は、モーセの召命の場面から、神の居場所について、聞いきました。

神様は、道をそれた先におられる。

神様は、試練の只中におられる。

そして神様は、弱さを覚える人々と共におられる。

どんなに道をそれても、試練に襲われても、神様が共にいる。

そのことを覚えたいと思います。

また時に、私たちは、モーセのように、試練の中にある人々のところへと遣わされていくことがあります。

先日は、佐賀関で、大規模な火災が起こりました。

170件以上の家屋が被災し、多くの人々が帰る場所を失いました。

私たちの生きるこの社会の中には、そんな厳しい現実の中を生きている人々がいます。

そして私たちは、時にそういう方々と出会わされることがあります。

そんな時、自分の弱さや無力さに、逃げ出したくなることがあるかもしれません。

でも、そんな私たちに、神様は、「わたしが必ずあなたと共にいる」と言われます。

何ができるかよりも、神が共におられる。

そのことを心に留めて、モーセのように履物を脱ぎ、自分を委ねて、従っていく者となっていきましょう。 お祈りします。

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