聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、創世記45章1節〜8節。
50:15 ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。
50:16 そこで、人を介してヨセフに言った。「お父さんは亡くなる前に、こう言っていました。
50:17 『お前たちはヨセフにこう言いなさい。確かに、兄たちはお前に悪いことをしたが、どうか兄たちの咎と罪を赦してやってほしい。』お願いです。どうか、あな たの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください。」これを聞いて、ヨセフは涙を流した。
50:18 やがて、兄たち自身もやって来て、ヨセフの前にひれ伏して、「このとおり、私どもはあなたの僕です」と言うと、
50:19 ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。
50:20 あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
50:21 どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。
「信じて歩み出す」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日もまず最初に子どもたちに向けてメッセージをしたいと思います。
これまで礼拝では、ヨセフさんの物語を、続けて読んできましたが、いよいよ今日で最後になります。
最後の場面には、お兄さんたちとヨセフさんが、話をしている様子が書かれています。
見てみると、お兄さんたちが、ヨセフさんにひれ伏していたって書いています。
この絵は、まさにその場面ですけれども、
お兄さんたちは、こんなふうに、ヨセフさんに、ひれ伏していた。
そして、言うんです。「このとおり、私たちはあなたの僕です。」
僕っていうのは、手下ってことです。
私たちは、あなたにお仕えする手下ですって、そう言ったってことです。
お兄さんたちがですよ、弟のヨセフに、ひれ伏して、そんなことを言ったって・・・なんででしょうか。
ちょっと、3択クイズにしてみました。
なぜ、お兄さんたちは、弟にひれ伏して、「あなたの僕です」なんて言ったのか?
1、弟ヨセフの方が地位が高かったから。
2、弟のヨセフに弱みを握られていたから。
3、弟のヨセフのことが、怖かったから。
どれが答えだと思うでしょうか。
実は、これ全部、正解です。
1番は、ここに書かれている通り、ヨセフさんは、エジプトで、王様の次に偉い人でした。
とっても、高い地位にいました。
2番目もそうですね。
お兄さんたちは、ヨセフさんのことが嫌いで、罠にかけ、商人に売り渡してしまうということがありました。
これも合っています。
でも、今日の場面で、一番、お兄さんたちが、気にしていたことは、実は3番でした。
お兄さんたちは、弟のヨセフが、自分たちのことを恨んでいるんじゃないかって、思っていました。
いつか、仕返しされるんじゃないかって、そのことが怖くて怖くてしょうがなかった。
だから、こんなふうに、ひれ伏して、「あなたのしもべです」なんて、言ったんだそうです。
そのことを知ったヨセフさんは、どう思ったか。
聖書を見ると、涙を流して泣いたって、書いてあります。
ヨセフさんは、恨んだり、仕返ししたりなんて、考えていなかったんです。
むしろ、お兄さんたちのことを、家族として、大切に思っていました。
それなのに、その気持ちが、全然伝わっていなかった。
そのことが悲しかったんだと思います。
お兄さんたちは、ヨセフさんの優しさや愛情を、素直に受け取ることができませんでした。
本当は恨んでいるんじゃないか、本当は、仕返ししようとしているんじゃないか。
そうやって、ヨセフさんのことを疑って、せっかくヨセフさんがゆるしてくれているのに、その気持ちを受け取ることができませんでした。
ヨセフさんのように神様も、私たち一人一人を大切に思ってくださっています。
私が共にいる。だから信じて、生きていってほしいって、言ってくれています。
その言葉を、私たちは信じて、生きていきたいと思います。
何か悪いことが起こるんじゃないか、頑張ってもうまくいかないんじゃないか、そうやって疑いながら生きるのではなくて、
「神様がいるから大丈夫」、そうやって信じる気持ちを大切に、生きていってほしいと思います。
お祈りします。
・導入
先週は、エジプトの首相となったヨセフが、兄たちと運命的な再会を果たす場面を読みました。
その後、ヨセフは、飢饉に苦しむ家族を、エジプトに招き入れました。
ヨセフの家族ということで、エジプトの王ファラオも、国の最良のもの、最上の産物をもって、彼らを歓迎しました。
もう家財道具なども何もいらない。
全てこちらで、最上のものを用意すると言って、馬車を送って、ヨセフの家族を迎え入れました。
もはや国賓級のもてなしです。
もちろんそれは、異例のことでした。
今日の箇所の直前には、ヨセフの父ヤコブの葬儀の様子が記されていますが、それを見ても、どれだけ特別な待遇を受けていたかということがわかります。
50章の2節、3節を見てみますと、ヤコブの遺体を腐らないように処置するため、すなわちミイラにするために、40日を費やしたと記されています。
さらに、エジプト人は、70日の間、喪に服したということも書いてあります。
ある本によると、この70日という喪の期間は、エジプトの王ファラオの場合に相当する期間であったと書かれていました。
つまり、ヤコブは、エジプトの王様並みの待遇をもって、葬られたということです。
しかも、この時、エジプトは、大飢饉の真っ最中でした。
通常時ではなく、緊急事態の真っ最中だった。
そんな時に、70日間も喪に服すって、すごいことだと思います。
おまけにもう一つ言いますと、エジプト人にとって、シリア・パレスティナの牧羊民は、「いとうものであった」と書かれています。
これは、46章の一番最後に書かれています。
農耕民族であったエジプトの人々は、遊牧民であったシリア・パレスティナの人々に対して、嫌悪感を持ち、関わりを避けていたということです。
農耕民と、遊牧民とでは、生活様式も、社会形態も全然違いますから、その違いによる壁があったということでしょう。
しかし、それにもかかわらず、ヤコブの死は、ファラオと同様に取り扱われたというのですから、驚きです。
これもひとえに、ヨセフのおかげ。
ヨセフの家族だったからこそ、彼らは、そんな特別な待遇を受けることができたわけです。
ヨセフがいかに、すごい人であったかということが、伝わってきます。
もちろん、ヨセフの兄たちも、同様に、特別な待遇を受けて、生活をしていました。
飢饉に苦しむこともなく、何不自由ない、幸いな日々を過ごしていたことでしょう。
しかし、父ヤコブの死後、突如として、兄たちは、不安に襲われます。
それはヨセフに対する不安でした。
・兄たちの不安
次のように記されています。50章15節。
「ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しをするのではないかと思った。」
「昔ヨセフにした全ての悪」というのは、父から特別な愛情を受けていたヨセフに嫉妬し、罠にかけ、商人に売り渡してしまったことだと思います。
その罪を、ヨセフは、まだゆるしていないんじゃないか。
自分たちのことをまだ恨んでいるんじゃないか、そう思って、恐れていたということです。
先週読みました再会の場面で、ヨセフは、「自分をエジプトに導いたのはあなたたちじゃなく、神様だ」と、「神様が、家族を救うために、自分をエジプトへ遣わされたんだ」と、そう言っていました。
そこには、もう兄たちのことを恨んでいないという、ヨセフの想いが含まれています。
でも、その想いを、兄たちは、信じることができなかったのです。
これまで、自分たちに良くしてくれたのは、父ヤコブのためだったんじゃないか。
愛する父ヤコブを悲しませないため、良い弟を演じていただけだったんじゃないか。
父ヤコブが死んだ途端、兄たちは、ヨセフを疑い、不安と恐怖に陥ってしまったのです。
兄たちが、そんな心境に陥ってしまったのには、環境的な要因もあったと思います。
最初に言いました通り、当時、エジプトは大飢饉に襲われていました。
兄たちは、国賓級のもてなしを受けて、何不自由なく暮らしていたかもしれませんが、
視線を少し移すだけで、そこには、食べるものもなく、道端で倒れている人たちがいた。
一歩違えば、そこに倒れていたのは、自分たちだったかもしれない。
ヨセフがいなかったら、自分たちも、そうなっていたかもしれない。
いや、今だって、そう。
今も、自分たちの命は、ヨセフにかかっている。
ヨセフに見捨てられたら、生きていけない。
この「ヨセフに依存するしかない」という、そういう状況が、彼らの不安や恐れを、より一層、強いものにしていたのだと思います。
・恐れるな
でも、そんな兄たちの心境を知って、ヨセフは、涙を流します。
ヨセフからすれば、家族のために尽くしてきたのに、自分のことを信じてもらえていないという悲しさもあったでしょう。
あるいは、これだけしてもらってもなお、赦されることができずに、恐れに取り憑かれている。
そんな兄たちに対する憐れみも、あったかもしれません。
そんな兄たちに、ヨセフは、語ります。19節
「ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。」」
まず、兄たちが恐れている「仕返し」、罪に対する「裁き」について、ヨセフは、「あなたがたの罪を裁くのは私じゃない」ということを、語っています。
「わたしが神に代わることなどできるだろうか。できるはずがない。」
その上で改めて、ヨセフは、神の大いなる御業について語ります。
20節・21節
「「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」ヨセフはこのように、兄たちを慰め、優しく語りかけた。」
恐れることはない。どうか恐れないでください。
そう言って、兄たちを慰め、優しく語りかけるヨセフの姿は、イエス様の姿と重なります。
イエス様もまた、弟子たちに向けて「恐れるな」ということを言われました。
マタイによる福音書10章28節で、イエス様はこのようにおっしゃっています。
「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
このイエス様の言葉は、今日の箇所と、とてもつながっているように思います。
イエス様が恐れるなと言ったのは、人間のことです。
人間ができることには限界がある。
体を殺すことはできても、魂まで殺すことはできない。
そんな者どもを、恐れることはないということです。
そして、同時にイエス様は、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われます。
これは、神様のことです。
神こそ、恐れるべきお方であるということです。
ヨセフもまた、そのことを伝えたかったのではないでしょうか。
兄たちは、ヨセフのことを恐れていました。
ヨセフはまだ、自分たちのことを恨んでいるんじゃないか。
いつか自分たちに、仕返しするのではないか。
その不安は、兄たちの強い罪意識と共に、ヨセフなしでは生きていけないという、そういう想いからくるものであったと思います。
ヨセフなしでは生きていけない。
ヨセフによって、自分たちは生かされているんだ。
そういうヨセフに依存する想いが、彼らを、不安にさせていたのだと思います。
そんな兄たちに対して、ヨセフは、そうじゃないと言いたいのだと思います。
あなた方を生かしているのは、私じゃなく、神様である。
神様が、自分をエジプトに遣わすことによって、あなた方の命を救い、養っておられるんだ。
ヨセフのことばかり気にして、不安になっている兄たちに対して、ヨセフは、神を見つめていました。
この視点の違いが、心のありように、大いに影響を及ぼしていたのではないでしょうか。
・視点の転換
良い例えかどうかわかりませんが、私は幼い頃からよく、車酔いをしていたのですが、
そうすると、両親からよく、遠くを見なさいと言われました。
空に浮かぶ雲とか、遠くの山の景色とか、そういうものを見てなさいとよく言われました。
近くのものを見ていると、目が回って、酔いやすい。
遠くのものは、動かないので、視点が安定して、酔いにくくなるということだと思います。
そのことと今日のメッセージは、非常に重なるように思います。
兄たちが見つめていたのは、人でした。
人は、うつろいやすいものです。
気が変わりやすいものです。
ヨセフだって、例外ではありません。
赦していたはずなのに、恨みが再燃して、態度を変えるということが起こりうるわけです。
そんなうつろいやすい人間ばかり見つめていたら、それに合わせて、私たちの心も落ち着きません。
不安になったり、怖くなったりしてしまいます。
それに対して神を見つめるというのは、動かないもの、変わらないものを見つめるということです。
そうすることで、私たちは、変化の激しい世の中にあっても、平安を得ることができると、そういうことだと思います。
ヨセフの兄たちと同じように、私たちも、心を動かされやすいものです。
人を気にして、不安になったり、恐れたりしてしまいやすいものです。
そんな私たちに対して、今日の箇所は、見つめるべきは誰なのか、ということを問いかけているのではないでしょうか。
うつろいやすい人間を気にして生きるよりも、動かされることのない神を見つめ、神を信じて生きていく。
そのような歩みへと、私たちは今日、招かれているのではないでしょうか。
お祈りします。







