2025年1月19日主日礼拝「祈られて」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書22章31節〜34節。

新共同訳新約聖書154ページ〜155ページです。

22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。

22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。

22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

「祈られて」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

皆さんは、お祈りをしたことがあるでしょうか。

神様に向けて、祈ったことがあるでしょうか。

夜、眠る時、ご飯を食べる時、お祈りをするという人もいるでしょう。

悲しいことがあった時、不安なことがある時、お祈りをするという人もいると思います。

私は小さい頃、よく、眠れない時に、お祈りをしていました。

テレビで、怖いドラマとかを見ちゃって、心がザワザワして、夜なかなか眠れない時、神様守ってくださいって祈っていました。

おまじないように、主の祈りを祈っていたこともありました。

そうすると、不思議と心が落ち着いて、眠ることができたなんてこともありました。

それから、不安な時も、よく祈っていました。

明日、学校でテストがある。

ちゃんとできるだろうか。

明日、野球の試合がある。

失敗せずに、できるだろうか。

心が不安な時、ザワザワして落ち着かない時、よく祈っていました。

祈ると、少し心が落ち着いて、不安が軽くなったりもしました。

お祈りをするっていうのは、神様とお話をすることです。

不安とか悩みを、神様にお話しするだけで、心がちょっと軽くなります。

神様は、いつでも、どこでも、どんな話でも、聞いてくれます。

願い事だけじゃない。

私たちの悩みも、不安も、聞いてくれます。

だからぜひ、みんなも、祈ってみてほしいと思います。

祈ってみてほしいというのと、もう一つ、今日はぜひみんなに覚えておいてほしいことがあります。

それは、みんなのために、祈ってくれている人がいるということです。

みんなの中にも、誰かのために祈ったことがあるっていう人がいるかもしれません。

同じように、みんなのことを覚えて、祈ってくれている人がいる。

みんなが風邪をひかないように、祈ってくれている人がいる。

悲しいことがないように、

夜寝る時には、ぐっすり眠ることができるように。

悪い夢を見ないように、良い夢が見られますように、そう言って祈ってくれている人がいる。

私は、いつも礼拝の前に、祈ってもらっています。

恐れずに、メッセージを語ることができますようにって、いつも祈ってもらっています。

さっきのお祈りでも、祈ってもらいました。

だから、こうやって、みんなの前で、メッセージをすることができています。

自分でもお祈りしますが、祈ってもらう方が、何倍も力になります。

誰かが、祈ってくれている。

それだけで、勇気が湧いてきます。

みんなのためにも、祈ってくれている人がいます。

今日は、そのことを覚えておいてほしいと思います。

祈ることよりも、祈られていることを、忘れないでいてほしいと思います。

お祈りします。

今日は、祈りについて、考えたいと思います。

1月は、新しい年の始まりとして、多くの人が祈りを献げる時です。

今年も、新しい年への願いや希望を込めて、多くの祈りが献げられたことだろうと思います。

ただ一方で、私たちの人生には、祈ることができない時もあります。

願いや希望を見出せず、深い闇の中に置かれるような時があります。

そんな時、私たちは、どうすればよいのでしょうか。

今日は、そんなことを、聖書の言葉から、共に、考えてみたいと思います。

先週は、最後の晩餐の場面を読みました。

今日の箇所は、その続きです。

イエス様が十字架に架けられる前に、弟子たちと共に囲まれた最後の晩餐。

そこでイエス様は、弟子のペトロに、語りかけます。

31節「 シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」

シモンというのは、ペトロの本名です。

ペトロというのは、イエス様につけられたあだ名でありまして、「岩」を意味する言葉です。

なぜそのような名前をつけられたかというと、それは、ペトロが、岩のように頑固だったからではありません。

この名前は、ペトロがイエス様に、「あなたこそメシア、生ける神の子です」と告白した時につけられました。

この信仰告白を良しとして、イエス様は、ペトロという名前をつけられました。

そして、イエス様は、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。

「イエス様こそ、メシア、生ける神の子である」そう信じ告白するあなたを、教会の基とすると言われたわけです。

それは、大変名誉なことでした。

でも、イエス様は、そんなペトロの信仰に、危機が迫っていることを、感じておられました。

「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」と言われています。

これは、弟子たちに及ぶ試練を暗示しています。

弟子たちの信仰を、ふるいにかける。

彼らの信仰が、本物であるかどうかを試す。

そのような試練が、あなた方を襲うだろうと、言われたわけです。

これに対して、ペトロは、言いました。

33節「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」

大変立派な言葉です。

「牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」

しかし、イエス様は言われます。

34節「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

残念ながら、イエス様の言葉は、実現してしまいます。

この後、イエス様は、逮捕され、大祭司の屋敷に連れて行かれますが、ペトロは、それを追いかけて、大祭司の屋敷の中庭まで、ついていきます。

でもそこで、「あの男の仲間だ」と言われて、思わずペトロは、「あんな人は知らない」と言ってしまうのです。

そして、イエス様の言葉を思い出し、激しく涙を流すことになります。

ペトロは、試練に耐えることができないわけです。

ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟していると言ったペトロですが、試練に耐えられず、逃げ出すことになります。

でも、イエス様は、そうなることをご存知でした。

その上で言われるのです。

32節「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」

ペトロのように、信仰が試されるような試練を通らされてきた方、

信仰がなくなってしまうほどの困難を経験されてきた方が、皆さんの中にもいらっしゃると思います。

病に襲われた時、災害に襲われた時、大切な人を失った時、信仰が揺らぎ、何を信じたら良いか、わからなくなることがあります。

先日も、ある方から、信じることに疲れたと、言われました。

信じたいと思うけれど、次から次に悪いことが起こって、もう疲れてしまった。

祈ろうと思っても、祈る言葉も出てこないと言われました。

その深い失望、埋めることのできない喪失感を聞かせていただきながら、私自身、どう祈っていいか、言葉もありませんでした。

私たちの信仰というのは、そんなに強いものではありません。

ロウソクの火のように、ちょっと風が吹いただけで、簡単に揺らぎ、消えてしまう、そういうものです。

そして、その度に、私たちは、祈りの喪失を経験します。

祈れなくなる。

祈りは信仰者にだけ与えられた特権ではありません。

誰でも祈ることができますが、しかし、本来祈りは、極めて、信仰的な行為です。

神様が聞いてくださる。

神様が応えてくださる。

そう信じるからこそ、私たちは、祈ることができるのだと思います。

その神様との関係が、壊れる。

信じても無駄。祈ってもしょうがない。そう思う時、私たちは、祈れなくなります。

イエス様はペトロに、そんな日がやってくると知っておられました。

死んでも従うと言ったペトロが、「あんな人は知らない」と言ってしまう。

そんな自分につまずき、涙を流す日が来ると、知っておられました。

だから、イエス様は、言われるわけです。

「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」

祈りは、牧師に託されている働きの一つです。

こんな私のところにも、祈りのリクエストが届きます。

そのリクエストを覚えて、祈らせていただいておりますが、

でも、それ以上に、牧師は、祈られている存在であるということを感じています。

祈る以上に、祈られている。

祈祷会でもそうですし、礼拝でもそうです。

祈られていることを、実感します。

そして、その祈りによって、今日も講談に立つことができていると、本当にそう思います。

もちろん、自分でも祈りますが、祈ってもらう方が、何倍も力になります。

また、私にも、祈れない日があります。

どう祈っていいかわからない時があります。

そんな時、誰かが、私のために祈ってくれている。

それが、どれだけ支えになるか。

イエス様が祈ってくれている。

信仰がなくならないようにと、祈ってくれている。

この祈りが、ペトロの信仰を支えました。

同様に、イエス様は、私たちのことも覚えて、祈ってくださっています。

弱い私たちの信仰を覚えて、祈ってくださっている。

この、祈られているということを、覚えたいと思います。

祈れない時には、無理に祈ろうとしなくてよいのです。

大事なのは、祈ることよりも、祈られていることを忘れないことです。

祈れない自分のために祈ってくれている人がいる。

イエス様が祈ってくれている。

その祈りに委ねながら、生きることです。

祈られる喜びを知る人は、やがて、祈る人になっていきます。

祈られることを通して、私たちは、祈る人になっていくのです。

イエス様は、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。

だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われます。

祈ろう祈ろうとする前に、まず、自分自身が、祈られている存在であることを、覚えたいと思います。

祈れない自分のために祈ってくれている人がいる。

イエス様が祈ってくれている。

そのことが、私たちを、祈りへと、押し出していきます。

私たちにも、時に、祈れない時があります。

そんな時、イエス様が、私のために祈ってくれていることを、思い出したいと思います。

私たちは、祈る者である前に、祈られている者です。

そのことを、忘れないでいたいと思います。

その祈りへの感謝が、私たちを、祈る者としていきます。

祈られ、支えられている者として、私も、誰かのために祈る者となっていく。

そういう祈りの連鎖を、イエス様は、願っておられます。

どんなに、祈れない時も、誰かが、私のために祈ってくれている。

イエス様が、私を覚えて、祈ってくれている。

そのことを、忘れないでいたいと思います。

祈ることよりも、祈られていることを忘れない。

祈られていることを忘れずに生きる時、自然と私たちの心は、祈りへと導かれていきます。

祈れない私たちに、祈りが与えられていく。

落ち込んで、祈れない者も、やがて、誰かのために祈れる日がやってくる。

誰かを力づける存在になる日がやってくる。

それは、大きな希望であると思います。

祈られて、生きていきましょう。

お祈りします。

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