聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書22章31節〜34節。
新共同訳新約聖書154ページ〜155ページです。
22:31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
22:32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
22:33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
22:34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
「祈られて」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
皆さんは、お祈りをしたことがあるでしょうか。
神様に向けて、祈ったことがあるでしょうか。
夜、眠る時、ご飯を食べる時、お祈りをするという人もいるでしょう。
悲しいことがあった時、不安なことがある時、お祈りをするという人もいると思います。
私は小さい頃、よく、眠れない時に、お祈りをしていました。
テレビで、怖いドラマとかを見ちゃって、心がザワザワして、夜なかなか眠れない時、神様守ってくださいって祈っていました。
おまじないように、主の祈りを祈っていたこともありました。
そうすると、不思議と心が落ち着いて、眠ることができたなんてこともありました。
それから、不安な時も、よく祈っていました。
明日、学校でテストがある。
ちゃんとできるだろうか。
明日、野球の試合がある。
失敗せずに、できるだろうか。
心が不安な時、ザワザワして落ち着かない時、よく祈っていました。
祈ると、少し心が落ち着いて、不安が軽くなったりもしました。
お祈りをするっていうのは、神様とお話をすることです。
不安とか悩みを、神様にお話しするだけで、心がちょっと軽くなります。
神様は、いつでも、どこでも、どんな話でも、聞いてくれます。
願い事だけじゃない。
私たちの悩みも、不安も、聞いてくれます。
だからぜひ、みんなも、祈ってみてほしいと思います。
祈ってみてほしいというのと、もう一つ、今日はぜひみんなに覚えておいてほしいことがあります。
それは、みんなのために、祈ってくれている人がいるということです。
みんなの中にも、誰かのために祈ったことがあるっていう人がいるかもしれません。
同じように、みんなのことを覚えて、祈ってくれている人がいる。
みんなが風邪をひかないように、祈ってくれている人がいる。
悲しいことがないように、
夜寝る時には、ぐっすり眠ることができるように。
悪い夢を見ないように、良い夢が見られますように、そう言って祈ってくれている人がいる。
私は、いつも礼拝の前に、祈ってもらっています。
恐れずに、メッセージを語ることができますようにって、いつも祈ってもらっています。
さっきのお祈りでも、祈ってもらいました。
だから、こうやって、みんなの前で、メッセージをすることができています。
自分でもお祈りしますが、祈ってもらう方が、何倍も力になります。
誰かが、祈ってくれている。
それだけで、勇気が湧いてきます。
みんなのためにも、祈ってくれている人がいます。
今日は、そのことを覚えておいてほしいと思います。
祈ることよりも、祈られていることを、忘れないでいてほしいと思います。
お祈りします。
・
今日は、祈りについて、考えたいと思います。
1月は、新しい年の始まりとして、多くの人が祈りを献げる時です。
今年も、新しい年への願いや希望を込めて、多くの祈りが献げられたことだろうと思います。
ただ一方で、私たちの人生には、祈ることができない時もあります。
願いや希望を見出せず、深い闇の中に置かれるような時があります。
そんな時、私たちは、どうすればよいのでしょうか。
今日は、そんなことを、聖書の言葉から、共に、考えてみたいと思います。
・
先週は、最後の晩餐の場面を読みました。
今日の箇所は、その続きです。
イエス様が十字架に架けられる前に、弟子たちと共に囲まれた最後の晩餐。
そこでイエス様は、弟子のペトロに、語りかけます。
31節「 シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」
シモンというのは、ペトロの本名です。
ペトロというのは、イエス様につけられたあだ名でありまして、「岩」を意味する言葉です。
なぜそのような名前をつけられたかというと、それは、ペトロが、岩のように頑固だったからではありません。
この名前は、ペトロがイエス様に、「あなたこそメシア、生ける神の子です」と告白した時につけられました。
この信仰告白を良しとして、イエス様は、ペトロという名前をつけられました。
そして、イエス様は、「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。
「イエス様こそ、メシア、生ける神の子である」そう信じ告白するあなたを、教会の基とすると言われたわけです。
それは、大変名誉なことでした。
でも、イエス様は、そんなペトロの信仰に、危機が迫っていることを、感じておられました。
「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」と言われています。
これは、弟子たちに及ぶ試練を暗示しています。
弟子たちの信仰を、ふるいにかける。
彼らの信仰が、本物であるかどうかを試す。
そのような試練が、あなた方を襲うだろうと、言われたわけです。
これに対して、ペトロは、言いました。
33節「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」
大変立派な言葉です。
「牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」
しかし、イエス様は言われます。
34節「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
残念ながら、イエス様の言葉は、実現してしまいます。
この後、イエス様は、逮捕され、大祭司の屋敷に連れて行かれますが、ペトロは、それを追いかけて、大祭司の屋敷の中庭まで、ついていきます。
でもそこで、「あの男の仲間だ」と言われて、思わずペトロは、「あんな人は知らない」と言ってしまうのです。
そして、イエス様の言葉を思い出し、激しく涙を流すことになります。
ペトロは、試練に耐えることができないわけです。
ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟していると言ったペトロですが、試練に耐えられず、逃げ出すことになります。
でも、イエス様は、そうなることをご存知でした。
その上で言われるのです。
32節「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」
・
ペトロのように、信仰が試されるような試練を通らされてきた方、
信仰がなくなってしまうほどの困難を経験されてきた方が、皆さんの中にもいらっしゃると思います。
病に襲われた時、災害に襲われた時、大切な人を失った時、信仰が揺らぎ、何を信じたら良いか、わからなくなることがあります。
先日も、ある方から、信じることに疲れたと、言われました。
信じたいと思うけれど、次から次に悪いことが起こって、もう疲れてしまった。
祈ろうと思っても、祈る言葉も出てこないと言われました。
その深い失望、埋めることのできない喪失感を聞かせていただきながら、私自身、どう祈っていいか、言葉もありませんでした。
私たちの信仰というのは、そんなに強いものではありません。
ロウソクの火のように、ちょっと風が吹いただけで、簡単に揺らぎ、消えてしまう、そういうものです。
そして、その度に、私たちは、祈りの喪失を経験します。
祈れなくなる。
祈りは信仰者にだけ与えられた特権ではありません。
誰でも祈ることができますが、しかし、本来祈りは、極めて、信仰的な行為です。
神様が聞いてくださる。
神様が応えてくださる。
そう信じるからこそ、私たちは、祈ることができるのだと思います。
その神様との関係が、壊れる。
信じても無駄。祈ってもしょうがない。そう思う時、私たちは、祈れなくなります。
イエス様はペトロに、そんな日がやってくると知っておられました。
死んでも従うと言ったペトロが、「あんな人は知らない」と言ってしまう。
そんな自分につまずき、涙を流す日が来ると、知っておられました。
だから、イエス様は、言われるわけです。
「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」
・
祈りは、牧師に託されている働きの一つです。
こんな私のところにも、祈りのリクエストが届きます。
そのリクエストを覚えて、祈らせていただいておりますが、
でも、それ以上に、牧師は、祈られている存在であるということを感じています。
祈る以上に、祈られている。
祈祷会でもそうですし、礼拝でもそうです。
祈られていることを、実感します。
そして、その祈りによって、今日も講談に立つことができていると、本当にそう思います。
もちろん、自分でも祈りますが、祈ってもらう方が、何倍も力になります。
また、私にも、祈れない日があります。
どう祈っていいかわからない時があります。
そんな時、誰かが、私のために祈ってくれている。
それが、どれだけ支えになるか。
イエス様が祈ってくれている。
信仰がなくならないようにと、祈ってくれている。
この祈りが、ペトロの信仰を支えました。
同様に、イエス様は、私たちのことも覚えて、祈ってくださっています。
弱い私たちの信仰を覚えて、祈ってくださっている。
この、祈られているということを、覚えたいと思います。
祈れない時には、無理に祈ろうとしなくてよいのです。
大事なのは、祈ることよりも、祈られていることを忘れないことです。
祈れない自分のために祈ってくれている人がいる。
イエス様が祈ってくれている。
その祈りに委ねながら、生きることです。
祈られる喜びを知る人は、やがて、祈る人になっていきます。
祈られることを通して、私たちは、祈る人になっていくのです。
・
イエス様は、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。
だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われます。
祈ろう祈ろうとする前に、まず、自分自身が、祈られている存在であることを、覚えたいと思います。
祈れない自分のために祈ってくれている人がいる。
イエス様が祈ってくれている。
そのことが、私たちを、祈りへと、押し出していきます。
私たちにも、時に、祈れない時があります。
そんな時、イエス様が、私のために祈ってくれていることを、思い出したいと思います。
私たちは、祈る者である前に、祈られている者です。
そのことを、忘れないでいたいと思います。
その祈りへの感謝が、私たちを、祈る者としていきます。
祈られ、支えられている者として、私も、誰かのために祈る者となっていく。
そういう祈りの連鎖を、イエス様は、願っておられます。
どんなに、祈れない時も、誰かが、私のために祈ってくれている。
イエス様が、私を覚えて、祈ってくれている。
そのことを、忘れないでいたいと思います。
祈ることよりも、祈られていることを忘れない。
祈られていることを忘れずに生きる時、自然と私たちの心は、祈りへと導かれていきます。
祈れない私たちに、祈りが与えられていく。
落ち込んで、祈れない者も、やがて、誰かのために祈れる日がやってくる。
誰かを力づける存在になる日がやってくる。
それは、大きな希望であると思います。
祈られて、生きていきましょう。
お祈りします。