聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書22章14節〜23節。
新共同訳新約聖書153ページ〜154ページです。
22:14 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。
22:15 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。
22:16 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」
22:17 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。
22:18 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
22:19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。 わたしの記念としてこのように行いなさい。」
22:20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。
22:21 しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。
22:22 人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」
22:23 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。
「招きに応えて新しく」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
おはようございます。
今日は、最初に一つ質問をしたいと思いますが、皆さんは、主の晩餐って、知ってますか?
実は、今日もこのあとするんですが、通常は、月の最初の礼拝の中で、パンとぶどうジュースを配って、食べたり飲んだりしてるんですが、見たことあるでしょうか?
あれを、私たちは、主の晩餐って呼んでいます。
主っていうのは、イエス様のことです。
イエス様の晩餐、それが主の晩餐なんですが、そこには、どんな意味があるか知っていますか?
私は、小さい頃、主の晩餐が何なのか、知りませんでした。
私が通っていた教会では、クリスチャンだけが、パンとぶどうジュースをもらえることになっていました。
大分教会でもそうですが、幼い頃の私は、それが納得できませんでした。
「何で、僕は取っちゃダメなんだろう。クリスチャンだけずるい!」って思ってました。
配られるパンとブドウジュースを見ながら、「どんな味がするんだろう?きっと、美味しいに違いない!」って、そう思っていました。
そして、「いいなー。僕も早くパンとぶどうジュース飲みたいなー」って思ってました。
そのために、クリスチャンになりたい、バプテスマを受けたいって、そんな風に考えたこともありました。
これは、小さい頃から教会に行っている人にとっては、結構あるあるな話だと思います。
クリスチャンになった私は、いよいよ主の晩餐を受け取る日が来ました。
そして、そこでパンとぶどうジュースを飲んで、知りました。
パンとぶどうジュースは、全然特別じゃない。
パンもぶどうジュースも、特に、美味しいって言うほど美味しいわけじゃないし、むしろ、パンはパサパサしてるし、ぶどうジュースも味わうほど、量がないんです。
聞いてみると、パンもぶどうジュースも、スーパーで普通に売ってるものでした。
食べようと思えばいつでも食べられる。というか、いつも食べてるものでした。
ここで皆に知ってほしいと思いますが、主の晩餐で、パンとぶどうジュースを食べている人たちは、別に、パンとぶどうジュースが特別美味しいから食べているわけじゃないんです。
お腹が空いているから食べてるわけでもありません。
じゃあ、あのパンとぶどうジュースは一体何なのか。
聖書には、なんて書いてあるでしょうか。
まずパンについて、イエス様は、パンを配る時こう言われました。
「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。」
ぶどう酒を配る時も、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血である」って言われました。
イエス様は、パンとぶどう酒を、私の体だ、私の血だって言って配られたんです。
もちろん、パンはパンだし、ぶどうジュースもぶどうジュースです。
でも、イエス様は、それを私の体や、私の血だと思って受け取りなさいって配られたんです。
なんでそんなことされたんでしょう?
配られた弟子たちも、最初は何のこと?って思っていたと思います。
でも、すぐに知ることになります。「あれは、十字架のことだったんだ」って。
イエス様は十字架にかかって、体を傷つけられ、血を流されました。それは、私たちのためでした。
私たちが、赦されて、新しい命に生きることができるように、イエス様は、十字架にかかってくださったんです。
それを弟子たちに教えるために、イエス様は主の晩餐をされたんです。
そして、その大切なことを忘れないようにって、私たちは、今でも主の晩餐を続けているんです。
私たちが、パンとぶどうジュースを受け取るのは、お腹が空いているからでも、美味しいからでもありません。
私たちが、赦されて、新しい命に生きることができるように、イエス様は、十字架にかかってくださった。
そのことを信じて、パンとぶどうジュースを受け取っているんです。
いつか、みんなと一緒に、信じて主の晩餐を受け取る日が来ることを、心から願っています。
お祈りしましょう。
・挨拶
先週は、体調不良で、お休みさせていただきまして、申し訳ありませんでした。
もともと、年末年始から、持病の副鼻腔炎が悪化していたんですが、騙し騙しやっておりまして、そんなことをしておりましたら、先週突然、39度近い熱が出まして、お休みさせていただくことになりました。
そして急遽、前日の土曜日でしたけれども、武宮仁美さんと、光さんと、野田里絵さんに証しをお願いすることになりまして、前日ですから、断られて当たり前と思っていたのですが、3名とも、引き受けてくださいました。
私は、礼拝には出られませんでしたけれども、それぞれの証を読ませていただきまして、本当に励まされました。
こんなことを言ったらあれですが、私にとっては、新年礼拝にふさわしい、大事なメッセージをいただくことができて、本当に感謝でした。
ということで、遅くなりましたが、今年1年も、皆さんどうぞよろしくお願いいたします。
新しい年も、共に、み言葉に聞いて参りましょう。
・主の晩餐
さて、今日は、先週読む予定にしておりました聖書の箇所から、メッセージをさせていただきます。
そこには、イエス様が弟子たちと共に囲まれた、最後の晩餐の様子が記されています。
私たちはこの晩餐を、主の晩餐と呼んでいます。
そして、イエス様が、「このように行いなさい」と言われたことに従って、私たちは、毎月、最初の日曜日の礼拝の中で、主の晩餐式を行なっています。
多くのプロテスタント教会では、月に1度しか主の晩餐式を行なっていませんが、もともとキリスト教会では、毎週礼拝の中で、主の晩餐式が行われてきました。
主の晩餐式は、礼拝の中心だったわけです。
今でも、カトリック教会では、毎週、主の晩餐式、カトリック教会では聖体拝領と言われますが、毎週、行われています。
それだけ、この主の晩餐式は、大事なこととして、受け継がれているわけです。
でも、こういう儀式というのは、得てして、中身が忘れられ、形だけになってしまうことがあります。
ですから、今日は、主の晩餐の起源となるこの箇所から、主の晩餐の意味を、改めて考えてみたいと思います。
・なぜ、過越の食事?
15節から読んでいきたいと思います。
15節イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」
「過越の食事をしたいと、切に願っていた。」と言われています。
この時まで、イエス様は、毎晩、弟子たちと、食事をしていたはずです。
当たり前のように、毎晩、食事を共にしてきた。
でも、そのような食事とは違う。
イエス様が切に願っていたのは、過越の食事でした。
しかも、イエス様にとって、この食事は、人生最後の食事でした。
イエス様は、この直後、苦しみを受け、この世を去っていかなければならないということを、ご存じでした。
この晩の食事が、人生最後の食事になるということも、わかっておられた。
その上で、過越の食事がしたいと言われたんです。
もし、皆さんが、人生最後の晩餐を、好きに選べるとしたら、どんな晩餐にしたいでしょうか。
きっと、多くの人は、好きな人たちと、好きなものを食べたいと思うでしょう。
家族や友人と一緒に、焼肉が食べたいとか、お寿司が食べたいとか、
そんな楽しくて、美味しい食事をしたいと、きっと誰もがそう思うでしょう。
でもイエス様は、違いました。
イエス様が望んだのは、弟子たちと、過越の食事をすることでした。
弟子たちの中には、イエス様を裏切る者もいました。
というか、この後、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げていきます。
イエス様は、そうなることも、わかっておられました。
わかった上で、なお彼らと共に、過越の食事をしたいと願われた。
楽しい食事でも、美味しい食事でもなく、弟子たちと共に囲む過越の食事をしたいと、切に願われた。
なぜでしょうか。
そこには、どんな意味が、あったのでしょうか。
・そもそも過越の食事って何?
そもそも、過越の食事とは、どんな食事なのかということですが、この食事は、旧約聖書の出エジプトの出来事に由来します。
当時、イスラエルの民は、エジプトで、奴隷として酷使されていました。
その苦しみをご覧になった神様は、モーセを遣わし、民を解放されるわけですが、
その時に、10の災いを下されました。
疫病の災いとか、イナゴの災いとか、雹を降らせるというのもありました。
そういった災いを10個、下されたわけですが、その最後に、エジプト中の初子を打つという災いがありました。
ファラオの初子から、家畜の初子まで、国中の全ての初子の命を断つという災いでした。
大変恐ろしい災いですが、その際に神様は、イスラエルの民にだけ、小羊を屠り、その血を家の玄関の柱と鴨居に塗りなさいと言われました。
そして、そのようにしてある家は、過ぎ越し、災いを下さないと約束されました。
これによって、イスラエルの民は、エジプトから解放され、神の民として、歩み出していくことになるのですが、
過越の食事は、その契機となった、神の過越。
神がイスラエルの民の家を過ぎ越された、その救いの出来事を記念し、後の世代に伝えるためになされる食事です。
今でも、ユダヤの人々は、この過越の食事をします。
過越の際に屠られた小羊を食べたりしながら、出エジプトの出来事を思い起こし、神の民としてのアイデンティティを受け継いでいます。
イエス様が願われたのは、そういう食事だったわけです。
・過越の食事から、主の晩餐への転換。
でも、今日の箇所を読んでみますと、そんなことは、一切書かれていません。
エジプトから解放されたということもなければ、過越の小羊も出てきません。
書いてあるのは、「私の体である」と言って、パンが差し出され、「私の血である」と言って、杯が差し出されたことです。
これは、どういうことでしょうか。
これは、明らかに、十字架のことを指しています。
十字架は、キリスト者にとって、救いの原点です。
イスラエルの民にとって救いの原点が出エジプトの出来事であったように、キリスト者にとっての救いの原点は十字架にあります。
十字架を背負うことを通して、イエス様は、すべての人の罪を背負い、赦しと新しい命を与えてくださいました。
主の晩餐は、この救いの出来事を記念し、そこで献げられたイエス様の愛と犠牲を、心に刻むための食事です。
過越の食事を、そのようにすることによって、イエス様は、一つの転換をもたらされました。
出エジプトを救いの原点とするイスラエル共同体から、十字架を救いの原点とする、キリスト共同体への転換です。
もはや、あなた方は、イスラエルの民ではない。
キリストの民である。
キリストの民として、救いの原点となる、十字架の出来事を、心に刻みなさい。
そして、そのために献げられた、イエス様の愛と犠牲を、忘れないようにしなさいと、招かれているのです。
この食卓における過越の小羊は、イエス様ご自身です。
イエス様が、過越の小羊として、ご自身を、十字架に献げられた。
その献身を覚えるようにと、私たちは招かれています。
単に、救われたというだけでなく、そのために、イエス様が、ご自身を献げられたということ。
その献身を覚えることは、とても重要です。
それは、新しい生き方への招きでもあります。
・新しい生き方への招き
イエス様が、私たちのためにすべてを献げられたように、私たちもまた、他者のために、愛をもって、自分を献げていく。
そのような生き方へと招かれているのです。
主の晩餐において、パンと杯を受け取るということは、その招きに対して、従っていきますという応答でもあります。
イエス様が、私たちのために、ご自身を献げられたように、私たちもまた、隣人のために、自分を献げていく。
もちろん、そのような生き方は、簡単にできることではありません。
自分のことで精一杯。
他人のことを想う余裕もない。
そんな想いでこの世界は満ちています。
いよいよ来週、トランプ大統領が、アメリカの大統領になります。
トランプ大統領は、選挙中から、不法移民の大量送還、2000万人を強制送還すると言ったことを、繰り返し主張てきました。
差別を煽るような言い方に、アメリカで移民や難民として暮らす人々は、大きな不安を抱えています。
経済的な課題を背景に、そのような排外主義的な思想が、アメリカだけでなく、世界全体で、起こっています。
もちろん、私たちの国も、そうです。
そんな私たちにとって、隣人のために自分を献げていくということは、決して簡単なことではありません。
でも、そんな私たちのために、イエス様は、ご自身を献げてくださったのです。
この愛と献身を覚えるとき、私たちはその招きに応える力を与えられます。
主の晩餐は、その力を受け取る時です。
主の晩餐を通して、イエス様の愛と献身を、改めて受け取りながら、イエス様が示された愛に生きる者となっていきたいと思います。
他者のために仕え、愛を分かち合うとき、私たちは、さらに深く、イエス様の愛について知ることができるでしょう。
そのことが、さらに私たちの生き方を変え、新しくしていきます。
・結論
この後で、私たちは、主の晩餐式を行います。
今日だけではありません。
毎月、最初の礼拝において、主の晩餐式を行います。
そこで、改めて3つのことを心に留めたいと思います。
一つは、救いの原点が十字架にあるということ。
二つ目は、そのためにイエス様が、ご自身を献げ尽くしてくださったということ。
そして、三つ目、そのことに押し出されながら、イエス様の愛と献身から力をいただきながら、私たちも、誰かのために、自分を献げていくということ。
この三つのことを心に留めながら、主の晩餐にあずかっていきたいと思います。
主の晩餐をただ過去の記憶として受け取るのではなく、私たちの日々の歩みを変える力として受け取り、愛と献身の道へと、共に歩み出していきたいと思います。
繰り返しになりますが、主の晩餐は、新しい生き方への招きです。
私たちは、新しく生きることができる。
自分のことで精一杯な私たちだけれども、イエス様の愛と献身を受け取ることで、私たちも、そのような生き方へと、踏み出すことができる。
そのことを心に留めながら、主の晩餐に、あずかっていきたいと思います。
お祈りします。