聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、フィリピの信徒への手紙2章1節〜9節。
新共同訳新約聖書362ページ〜363ページです。
2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、
2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
「超えていくことをあきらめない つながる喜びを信じて」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日の聖書の箇所には、イエス様が、神という身分を捨てて、人になられたって書いてあります。
イエス様はもともと、神様だったんですね。
神様として、神の世界に住んでおられた。
だけど、その世界を離れて、人になって、私たちの生きる、この世界に来てくださったんだって、そうやって、書いてあります。
今日は、そんなイエス様の姿を通して、出かけていくことの大切さ。
出会っていくことの大切さを、覚えたいと思います。
突然ですが、皆さんは、北海道に行ったことありますか。
私は、北海道の札幌で生まれ育ちました。
大学を卒業するまで、北海道に住んでいましたけれども、北海道といえば、どんなイメージがあるでしょうか。ー広い、寒い、食べ物が美味しい、・・・。
私が、九州に来た時に、最初に言われたのは、「暑いでしょー」でした。
確かに、九州は暑いです。
もう年を追うごとに暑さが増してるように思いますけれども、でも実は、九州(福岡)に来てまず私が感じたのは、「寒い」ってことだったんです。
部屋の中が寒い。
私が引っ越してきたのは4月ごろでしたけれども、北海道の4月ごろって、まだ、ちらほら雪も残ってて、部屋の中では暖房を入れているんです。
もう15年前ですので、今とはちょっと状況が違うかもしれませんが、
だから、北海道の4月の部屋の中は、あったかいんです。
その感覚で、福岡に来たら、むしろ寒くて、引っ越してまず、私は、風邪をひいてしまいました。
で、その時に、「あれ?北海道の人は、寒さには強いんじゃないの?」って言われました。
これも思い込みです。
確かに、寒さに強い人もいると思います。
でも、みんながみんな、寒さに強いわけじゃありません。
そんなふうに、私たちは、間違っているのに、勝手に思い込んだり、「そうだ」って、決めつけてしまうことがあります。
私も、最初に福岡に行く時、「福岡は、どこ行っても豚骨の匂いで臭いから気をつけて」って言われて、信じてましたけど、来てみて、そんなことはないって知りました。
大分にくるまで、大分の人はみんな温泉が好きに決まってるって思ってましたけど、大分の人だからって、みんながみんな、温泉好きとは限らないってことも、知りました。
やっぱり、出会うって大事だって思います。
イエス様が人になって、この世界に来られたのも、出会うためだったんだと思います。
そして、つながるためだったんだと思います。
出会って、話をして、一緒にご飯を食べて、そうやって、お互いに知り合っていって、つながっていく。
そこに喜びがある。そこに幸せがある。
だから、イエス様は、神の国を出て、この世界に来られたんです。
もちろん、出会うって、良いことばかりじゃありません。
世界には、いろんな人がいます。
当然、気が合わない人もいるでしょう。
考えが合わなかったり、好き嫌いが違ったりして、一緒にいて嫌だなって思ったり、喧嘩になったりすることもあるかもしれない。
イエス様だって、そうでした。
イエス様も、嫌われたり、裏切られたり、挙句の果てには、十字架に架けられてしまった。
それでも、イエス様は、人とつながること、共に生きることを、あきらめませんでした。
なぜか。
やっぱりそこに、喜びがあるし、幸せがあるし、平和があるからです。
イエス様は、そのことを、私たちに伝えています。
出会う。それはとても勇気のいることです。
自分の場所を出て、知らない世界に行き、知らない人と出会っていく。
とても勇気のいることです。
それに、良いことばっかりじゃないかもしれない。
でもそこに、喜びがあり、幸せがあり、平和があるんだって、イエス様は教えています。
イエス様を信じて、出会っていくものとなっていきましょう。
お祈りします。
・
改めまして、今日は、オンラインによって、臼杵教会の皆さんと一緒に、礼拝を献げることができますことを、感謝いたします。
これもまた、今日のテーマである「つながる」ということの一つの実践と言えるかもしれませんけれども、本当に嬉しく思います。
共に、イエス様のメッセージに耳を傾けていきたいと思いますが、
さて、今日は、説教題を、「超えていくことをあきらめない。つながる喜びを信じて」とさせていただだきました。
ちょっと長いタイトルですが、この言葉は、先日、参加しました、ミッショントリップin京都で、教えていただいた言葉です。
私たちが加盟しております日本バプテスト連盟には、6つの特別委員会がありまして、現代社会が抱える課題を宣教の課題として、取り組んでいます。
その中の、日韓在日連帯特別委員会と部落問題特別委員会、そして、関西地方連合社会委員会の3者の共催で、今回この旅を企画しました。
私は、日韓在日連帯特別委員会の委員の一人として、実行委員という立場で、この企画に関わらせていただきまして、約1年準備をし、今月14、15、16日と、フィールドワークに参加してきました。
テーマは、「壁を超える」。
被差別の歴史を学び、現場を巡りました。
その中で、差別を乗り超え、懸命に生きる人々の姿から、つながる喜びを信じて、出会い続けていくこと、関わり続けていくことの大切さを、学ばせていただきました。
今日は、そのことにも触れながら、メッセージをさせていただきたいと思います。
旅の詳しい報告については、11月15日に市内連合女性会の学習会がありまして、そこで、報告させていただくことになっていますので、参加いただければと思います。
・
さて、突然ですが、皆さんは、「憎悪のピラミッド」というのをご存知でしょうか。
この図がそれなんですが、これは、先入観や思い込みが、偏見となり、差別となり、暴力となり、そして、ジェノサイド、民族虐殺につながっていくということを教えている図です。
ジェノサイドというのは、ある民族や人種、国民などを、虐殺していく行為です。
戦争が、基本、軍隊と軍隊の戦いであるのに対して、ジェノサイドは、もはや戦いではない。
民族を絶やそうとする殺戮行為です。
ナチスドイツによるユダヤ人虐殺や、ルワンダで起こったジェノサイドについては、皆さんもご存知だと思います。
そういった恐ろしい殺戮行為が、私たちの日常レベルである先入観や思い込みと、無関係ではない。
いやむしろ、地続きでつながっているんだということを、この図は、教えています。
これは、今回の旅を通して、改めて、実感させられたことでもありました。
今回の旅では、京都の東九条、崇仁、ウトロに行ってきました。
その地域には、在日コリアンの人々や、被差別部落の人々が暮らしています。
その人々に対する差別の根底にも、誤った知識による思い込みや偏見があります。
今から3年前、2021年8月ウトロ地区で、放火事件がありました。
倉庫や民家など7棟が全半焼しました。
犯人は、当時22歳の青年でした。
彼がウトロ地区のことを知ったのは、犯行のわずか5日前、インターネットの書き込みによってでした。
そこに記された誤った情報を見て、犯行に及んだということです。
会ったこともない。話したこともない。
直接何か、されたというわけでも、もちろんない。
ただただ、インターネットの情報によって、彼は、在日コリアンに対する憎悪を抱き、膨らませていったということです。
裁判で彼は、「コロナ禍で離職を余儀なくされ、再就職も難しい状況で鬱屈した気持があった」ということを言っています。
その鬱屈した気持ち、つまりストレスを発散する標的を探していたということです。
その時に、インターネットの書き込みを見て、この人たちにはやっていい、やるべきだと、誤った使命感で、反抗に及んだわけです。
ですから、この事件は、彼だけの問題ではない。
在日コリアンに対する差別という問題を抱えている、日本社会の問題であるということです。
今年、甲子園で、京都国際学園が、優勝しました。
韓国語の校歌が歌われて、話題になりましたけれども、学校に電話がかかってきたそうです。
おめでとうの電話も、もちろんあったと思いますが、かかってきたのは、脅迫と抗議の電話でした。
在日コリアンに対する差別の問題は、主に、植民地統治時代に端を発していると言われていますが、それが、戦前・戦中・戦後、そして今に至るまで続いている。
決して、過去のことではない。
今もなお、続いている問題だということです。
・
それでもなお、出会っていくことをあきらめず、つながっていこうとする在日コリアンの人々と、今回、出会うことができました。
その姿に、本当に、心を打たれました。
「出会えば分かり合える」なんて、そんな簡単なものではありません。
在日コリアンの人々の多くは、トラウマを抱えながら生きています。
いつ隣の人が、襲ってくるかわからない。
いつ、標的にされるかわからない。
出かけていくことで、余計、その危険が増すかもしれない。
でも、だからと言って、閉じこもっていても、何も変わらない。
「出会わなければ分かり合えない」「差別を恐れ、閉じこもっていては、つながれない」そう言いながら、踏み出していく姿が、私には、キリストの姿と重なって見えました。
今日の聖書箇所には、次のように記されています。
6節、7節
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
この箇所を含め今日の箇所全体は、キリストのへりくだりにポイントが置かれています。
低くなる、従順になることの大切さに重きが置かれています。
でも、今日は、キリストが、神と等しいものであることに固執しなかった。
神の身分に留まろうとしなかった。手放していった。
そして、人間と同じものになられたということ。
このことを覚えたいと思います。
神の身分に固執し、神の世界に留まっていたら、弟子たちに裏切られるなんてこともありませんでした。
捕えられることも、十字架に架けられることもありませんでした。
でも、イエス様は、この世に来られた。
神と人との間の壁を超えて、この世に来られた。
復活された後も、今も、その歩みを続けておられると、聖書は教えています。
裏切られたのに、十字架に架けられたのに、出会うことをやめない。
なぜ、そこまでして、出会っていかれるのか。
それは、共に生きること、つながることに喜びがあり、幸せがあるからです。
そして、そこに、平和の福音があるからです。
ウトロ平和記念館、副館長のキムスファンさんは、「在日コリアンの人たちの正しい歴史を知り、日本社会にある差別や偏見に気づいてほしいという気持ちは、もちろんあるけれど、でも、それ以上に、差別を乗り越えて、つながっていくことの喜び、共に生きることの喜び。仲良くなるって、こんなに素敵なことなんだって、そのことを伝えるために、この記念館はあるんです」って、おっしゃっていたのが、心に残っています。
あらゆる違い、壁を超えて、つながっていく。
共に生きていく。そこに、喜びがあり、幸せがり、平和がある。
このことを伝えるため、また、このことにあずかるために、イエス様は、この世に来られたのです。
もちろん、出会わなければよかったと思うこともあるわけですが、でも、出会わなければ、道は開けません。
差別や偏見がなくなることはないし、暴力も、戦争もなくならない。
出会わなければ、分かり合えない。
出会わなければ、つながれない。
つながることに喜びがあり、平和があるんだって、そうやって、イエス様は、この世界に来てくださいました。
神の身分を手放して、自分の居場所を離れて、私たちのところに来られたのです。
壁を超えていく。
自分の場所を離れて、出かけていく。
これは、教会の歴史の中で、絶えず、行われてきたことでした。
イエス様が十字架上で息を引き取られた時、弟子たちは、家の戸に鍵をかけて、閉じこもっていました。
でも、復活されたイエス様に押し出されて、その部屋を出ていきました。
この手紙を書いたパウロも、イエス様との出会いによって、異邦人との間にある壁を超えて、世界に出ていきました。
そうやって、自分の居場所を離れて、出かけていく人々の勇気と努力によって、福音は、私たちのところまで、届けられました。
私たちの教会にも、かつて、宣教師がおられました。
ウォーカー宣教師ご夫妻、ベネット宣教師ご夫妻、そういう人々のお働きによって、今の私たちがある。
大分教会があり、臼杵教会があることを、忘れないでいたいと思います。
そして、そういう人々、イエス様に押し出されながら、私たちも、自分に固執せず、壁を超えて、出会っていく者でありたいと思います。
出会わなければよかったと思うことも、きっとあるけれど、それでも、超えていくことを諦めない。
つながること、共に生きることの中に、喜びがあり、幸せがあり、平和がある。
その平和の福音を信じて、
また、私たちも、平和の福音にあずかるために、共に、出かけていきましょう。
お祈りします。