聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、コリントの信徒への手紙一15章54節〜58節。
新共同訳新約聖書322ページ〜333ページです。
15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。
15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。
15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
「苦労は無駄に終わらない」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・序
おはようございます。
今日は、時間の都合上、子どもメッセージと大人のメッセージを分けずに、メッセージをさせていただきたいと思います。
今日の礼拝は、召天者記念礼拝です。
神様の御許に召された方々のことを覚えながら、礼拝を献げています。
この日を覚えて、礼拝に出席してくださっていますご遺族の皆様、本当にありがとうございます。
また、様々な事情で、参加したくてもできない方々もいらっしゃいますが、この礼拝を覚えて、献金やお手紙を送ってくださっている方々もいらっしゃいます。
そういう方々の想いも含めて、今日、こうして召天者記念礼拝を献げられることを、感謝いたします。
毎年、この日には、死や命をテーマにしながら、聖書のメッセージを聞いていますが、今日は、特に、使徒パウロの言葉を通して、死について、またそれに基づいた生き方について、聞いていきたいと思います。
そこには、懸命に生きる私たちへの励ましや慰めが語られています。
・「最後の敵」としての死
まず、パウロが、死について、どう考えていたのかということから、みていきたいと思いますが、パウロは、死のことを、「最後の敵」と呼んでいます。
これは、今日の箇所より少し前の、26節に書かれている言葉です。
「敵」ということは、戦うべき相手であり、倒すべき相手ということになりますが、どうやって死と戦うのでしょうか。
死は、例外なくやってきます。
人は、いつか必ず、死を迎えるわけです。
どんなに抗っても、どんなに死にたくないと思っても、死を避けることはできません。
ですから、死に対して戦ってもしょうがないじゃないかと、もう負けは決まっているのだから、受け入れるべきじゃないかと、そう思うわけですが、パウロは、そうじゃないというのです。
それどころか、54節では、「死は勝利にのみ込まれた」とまで言っています。
これは、一体どういうことでしょうか。
・「死は勝利にのみ込まれた」
「死は勝利にのみ込まれた」。
この言葉を書いたパウロの眼差しは、イエス様の復活に向けられています。
イエス・キリストの復活に基づいて、彼は、「死は勝利に飲み込まれたのだ」と語っているのです。
ですから、パウロの言っている死に対する勝利というのは、復活のことだということです。
死を避けることができたとか、死の恐怖に打ち勝ったとか、そういうことではありません。
イエス様も、確かに、死なれました。
死を逃れることは、できませんでした。
でも、死の淵より、起こされた。
神様によって、復活させられた。
これをパウロは、死に対する勝利だと、そう語っているのです。
・「死のとげ」
もう少し、死に対する勝利の中身を、掘り下げたいと思います。
なぜ、復活が、死に対する勝利になるのでしょうか。
どんな意味で、パウロは、復活を、死に対する勝利だと言っているのでしょうか。
ここで注目したいのが、56節の「死のとげは罪」という言葉です。
「とげ」というのは、恐ろしい部分、恐怖を与える部分のことです。
ですから「死のとげ」というのは、死の恐ろしい部分、怖い部分ということになります。
それをパウロは、罪だと言っているのです。
死の恐ろしいのは、人を罪へと導くことだと、そういうことです。
どうして「死」が、人を、罪へと導くのか。
32節に、こう書かれています。
「死者が復活しないとしたら『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身なのだから』ということになります」。
特に大事なのは、この真ん中の『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身なのだから』という言葉です。
この言葉、太めの鉤括弧でくくられているということは、つまり、引用文なんですが、
どういう場面で語られた言葉かと言いますと、紀元前701年頃、アッシリアによってエルサレムが包囲された時、もう助からないと諦めた民が言った言葉でした。
ただの民ではありません。
イスラエルの民です。
神様によって選ばれ、律法に従って生きるよう招かれていた、イスラエルの民です。
神様に従って、懸命に生きてきた民が、「もう神様に従って生きたって、しょうがない。どうせ明日には死ぬんだから、食べたり飲んだりしようじゃないか。」と、そうなってしまったのです。
ここには、死に飲み込まれ、懸命に生きることを諦めてしまった人々の姿があります。
真面目に生きたってしょうがない、無駄だと、そう思うようになってしまった人々の姿があります。
これこそ「死のとげ」だと、パウロは言っているのです。
これは、パウロの時代もそうでした。
パウロが生きた時代も、迫害の時代で、キリストを信じる人々が、次々に捕えられたり、処刑されたりしていました。
そんな中で、教会を去る人々もいました。
キリストを信じ、キリストに従って生きた先輩たちが、次々に殉教していく。
そんな様子を見ながら、信じることに意味を見いだせなくなってしまった。
信じたって無駄じゃないかと、そう思う人たちが出てきてしまったわけです。
皆さんはどうでしょうか。
もし自分が、あとわずかしか生きられないと言われたら、どうするでしょうか。
どうせ死ぬなら、好きなことだけやって、寿命を使い切りたい。
体にいいものより、ラーメン週5。
毎晩浴びるように、酒を飲む。
「どうせ死ぬなら」で、検索したら、そんな言葉が、出てきました。
好きなことをして生きるというのは、一概に悪いことだとは言えません。
でも、我慢したり、耐えたり、一生懸命頑張ってきたことが無駄に思えてしまう。
苦労してきたことが意味のないことのように感じてしまうとしたら、それは悲しいことだなと思うわけです。
「死のとげ」というのは、そういうことだと思います。
懸命に生きてきたことを、意味のないものにしてしまう。
懸命に生きることを諦めさせたり、自暴自棄な生き方へと導いていく。
そのような生き方は、決して幸せな生き方ではなく、「死のとげ」に犯された生き方だと、パウロは、そう言っているのです。
・復活が死に対する勝利である理由
そして、同時に、キリストの復活は、その「死のとげ」の敗北を意味する。
今や、「死のとげ」は、滅ぼされたのだと、パウロはいうわけです。
なぜそのようにいうのかというと、それは、キリストが復活させられたからです。
キリストこそ、生前、報われない人生を歩んだ者の代表だと言えるでしょう。
人を愛し、人に仕え、人と共に生きられた。
にもかかわらず、人に拒まれ、十字架を負わされ、死んでいった。
神様は、そのキリストを、そのままにはされませんでした。
死の淵より起こされました。
そこに、苦労は無駄に終わらない。
死を超えて、神様は、私たちの苦労や涙に報いてくださるお方なのだということが、示されています。
この復活の信仰に立っていたからこそ、パウロは、最後の最後まで、信仰を貫いて生きることができたのです。
迫害の時代、仲間たちが次々に投獄、処刑されていく中、
また、パウロ自身、日々、命の危機に立たされていく中、
それでもなお、彼が、信じることを諦めなかったのは、キリストが復活されたという信仰に立っていたからです。
58節「主に結ばれているならば自分たちの苦労は、決して無駄にならない」。
死を超えた希望がある。
その希望によって、パウロは、死に飲み込まれることなく、最後の最後まで、懸命に生きることができたのです。
私たちも、この希望を信じて、生きる者でありたいと願います。
・たとえ明日、世界が滅んでも
宗教改革者マルティン・ルターの言葉に、「たとえ明日、世界が滅んでも、今日私は、リンゴの木を植える」という言葉があります。
聞いたことがあるという方も多いと思いますが、私は、今日のメッセージの結論として、この言葉を心に留めたいと思いました。
「たとえ明日、世界が滅んでも、今日私は、リンゴの木を植える」。
おかしな言葉だと思う人もいるでしょう。
明日世界が滅びるのに、なんでリンゴの木なんか植えるのか。
そんなことをしたって、リンゴの実を得ることはできないじゃないか。
その通りです。
明日世界が滅びるならば、リンゴの木を植えたところで、その実を得ることはできません。
でも、それは、決して無駄じゃない。
たとえ、実りが得られなかったとしても、リンゴの木を植えること自体に意味があるのだと、ルターは、そう言いたいのだと思います。
どんなに一生懸命頑張っても、実りを得られないことは、私たちにもあると思います。
仕事、子育て、介護、苦労の割に、実りを得る機会は少ないと思うことが多いのではないでしょうか。
信仰生活もそうです。
キリストを信じれば、悪いことは起こらない。
良いことばっかり起こる、なんてことは、残念ながらありません。
むしろ、キリストに従うが故に苦労しなければならない、重荷を負わなければならないことの方が、多いかもしれません。
生きているうちに、その実りに預かれたら良いですが、イエス様のように、突然、不条理な死に襲われることもあるかもしれません。
しかし、たとえそうなったとしても、私たちの人生は、決して無駄に終わることがない。
死を超えて、神は、その労苦に報いてくださる。
だから、死に飲み込まれることなく、懸命に生きよと、招かれているのです。
死は決して、終わりではありません。
死の向こうに、希望があります。
先に召された方々は、その希望に与っておられる。
生前どんな人生を歩もうとも、いや、報われない人生を歩んだものほど、天においてその報いを受けておられる。
そのことを信じて、私たちも、生きていきましょう。
お祈りします。