聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書19章37節〜48節
新共同訳新約聖書147ページ〜148ページです。
20:1 ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、
20:2 言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」
20:3 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。
20:4 ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」
20:5 彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
20:6 『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」
20:7 そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。
20:8 すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
「よって立つべき力」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・はじめに
先週は、台風10号が、日本列島を襲いました。
大分県内でも、100棟を超える住宅で床上浸水などの被害が出ています。
橋の崩落や道路が土砂で塞がっている箇所もあり、孤立状態の地域もあるということです。
被災されている方々に、必要な助けが与えられるよう祈りたいと思います。
一方で、我が家は、台風に加えて、もう一つ、別の脅威にも襲われておりました。
先週、子どもたちがマイコプラズマに感染したという話をしましたけれども、次男は、順調に回復して、今日、教会にも来てくれていますが、長男は、思うように回復せず、病院に連れて行きましたところ、マイコプラズマに、川崎病を併発している可能性があるということで、先週の月曜日から入院することになりました。
今も、病院で過ごしています。
入院しても、しばらく良くなりませんで、心配しましたけれども、ようやく一昨日ごろから熱が下がってきまして、昨日は、食事も摂ることができるようになりました。
このまま順調に回復してくれればと願っています。
皆さんの中にも、色々なものを抱えながら、今日この礼拝に、参加されている方がいらっしゃると思います。
そのお一人お一人に、神様が共にいてくださっていることを、まず心に覚えたいと思います。
そして、その神様によって生かされていきたいと思います。
神様から力をいただいて、神様に促されて生きていく。
これが、今日のメッセージの結論です。
・「何の権威でこのようなことをしているのか」
今日の箇所には、イエス様と、祭司長や律法学者、長老たちとの短い対話の様子が記されています。
きっかけは、祭司長や律法学者、長老たちが、イエス様に「何の権威でこのようなことをしているのか」と言ったことから始まります。
「何の権威でこのようなことをしているのか」。
「このようなこと」というのは、神殿におけるイエス様の振る舞いのことを指しています。
先週、私たちは、イエス様一行が、エルサレムに着いた場面を読みました。
エルサレムに着いたイエス様は、神殿の中に入り、まず最初に何をしたかというと、神殿の境内で商売をしている人たちを、追い出されました。
「神の家は、祈りの家だ。強盗の巣にするな!」そう言って、イエス様は、神殿で商売している人たちを追い出されたわけです。
これは、当時の人たちにとって、相当、衝撃的な出来事であったと思います。
それだけではありません。
その後も、イエス様は、毎日のように神殿を訪れて、神殿の境内にいる人々を教え、福音を告げ知らせていました。
その様子が、これから、ずっと続いていきますけれども、そんな自由な振る舞いに、祭司長たちは、黙っているわけにはいかなかったのです。
「何の権威でこのようなことをしているのか」
「誰に許可を得て、こんなことをしているんだ!」と、そう言って、イエス様に詰め寄ったわけです。
・祭司長、律法学者、長老
そう言いたくなる気持ちもわかります。
なぜなら、彼らは、神殿を管理・運営する立場にあったからです。
「祭司長、律法学者、長老」というのは、当時、ユダヤの司法・行政・宗教を司っていた最高法院を構成する人々でした。
今の時代は、三権分立といって、司法、立法、行政の三つの権力が、「分立」、分かれて立っていることによって、力の均衡が保たれるようになっていますが、当時のユダヤ社会は、そうではありませんでした。
すべての権力が、最高法院に集中しておりました。
その最高法院のメンバーであったのが、今日の箇所に登場する、「祭司長、律法学者、長老たち」であったわけです。
彼らにとって神殿は、いわば、自分たちの城。
そんな場所で、自分たちの許可も得ずに、勝手なことをしているイエス様に、彼らは、怒っていたのです。
・祭司長たちの権威
そんな彼らに対して、イエス様は、こんな言葉を返しました。
4節「では、わたしも一つ尋ねる。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」。
質問に対して、質問で返す。
しかも、ヨハネの洗礼に関する問いという、一見すると、「何の関係があるの?」と思ってしまうような質問ですが、
しかし、結果からすると、この問いは、祭司長たちがよって立っているものを明らかにする、非常に大事な問いとなりました。
イエス様のこの問いに、祭司長たちは、「わからない」と答えました。
でも、本心では、「神からのものではなく、人からのものだ」と思っていました。
ルカによる福音書7章に、「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもそのバプテスマを受け、神の正しさを認めた。
しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」と記されています。
そのように、彼らは、ヨハネのバプテスマを拒んだ、認めなかったわけです。
ですから、イエス様の質問には、当然、「神からのものではなく、人からのものだ」と、
ヨハネは、自分の想いで、勝手にバプテスマをやっていたんだと、そう思ったでしょう。
でも彼らは、そう言えなかったのです。
なぜか。
それは、民衆がヨハネの洗礼を支持していたからです。
もし、『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。
そう思って、民衆を恐れて、明言を避けたのです。
最高法院という、当時のユダヤ社会の中で、最も大きな権威を持っていた彼ら。
本来であれば、民衆を指導し、導く立場にあった彼らですが、民衆の顔色を気にして、主張を変えたわけです。
民衆を恐れて、言いたいことを、変えた。
つまり、民衆に負けたということです。
権威権威と言っていた彼らですが、所詮彼らの権威なんていうのは、そんなものだった。
民衆の顔色を気にしなければ、言いたいことも言えないような、そんな権威、そんな力しか持っていなかったということです。
これが、彼らの権威の正体でした。
・イエス様の権威
それに対して、イエス様はというと、ご自身がよって立つところの権威について、「あなた方がわからないと言うなら、私も言うまい」と、そうおっしゃって、お答えになりませんでした。
でも、その答えは、明らかだと思います。
イエス様こそ、神の力によって語り、行動されたお方だった。
それによって、民衆たちや、祭司長たちの想いに囚われず、彼らの顔色を気にせず、大胆に語り、行動することができたのです。
地上にあるどんな権威、どんな力よりも大いなるもの、神の力に生かされていた。
だから、イエス様は、誰よりも自由に、大胆に、行動することができたのです。
神殿から商人を追い出すこともできたし、神殿の境内で福音を語ることもできたわけです。
・私たちは
このように、何の権威に立つか。
誰の権威によって生きるかということで、生き方が変わってくる。
選び取りが変わってくる。
今日の箇所は、そのことを、私たちに教えています。
そして、問いかけています。
あなたは、何の権威に立っているか。
誰の権威によって、生きているか。
そのことが問われているように思います。
皆さんは、この問いに、どう答えるでしょうか。
日々の歩みを振り返って、自分の行動や、選び取りが、何に基づいて行われているか。
皆さんは、どんな力に生かされているでしょうか。
どんな力によって、選び取っているでしょうか。
そのことを考える時、私自身、祭司長たちと同じように、世間の目から、決して自由とは言えない。
むしろ、囚われて生きている自分がいることに、気づかされます。
たとえば、外食に行く時。
皆さんは、どのようにして、行くお店を選ぶでしょうか。
私は、必ずと言って良いほど、インターネットの情報を見て、お店を選びます。
スマホで検索すると、それぞれのお店の評価がのっていまして、その星の数を見ながら、お店を選んでいます。
旅行で泊まるホテルなんかもそうです。
いつも、ネットで検索して、予算内で、できる限り、評価の高いホテルを選んでいます。
そういうことを考えると、自分がいかに、ネットの情報を権威として、生きているかということがわかります。
服を選ぶ時は、どうでしょうか。
自分で選んで買っているでしょうか。
私は、妻に聞くことが多いです。
色とか、サイズ感とかですね、これが良いなと思って選んだものも、買う前に、妻に聞いてから買っているように思います。
仕事の仕方もそうかもしれません。
どんなに自分が思っていても、周囲の目を気にして、決断したり、できなかったりする。
ポジティブに言えば、教会の総意とか、合意を大事にしているというふうにも言えますが、悪く言えば決断力がない。
主体性がない。そんな自分がいるなと思わされます。
ですから、祭司長たちの気持ちが、よくわかります。
私も、人からの評価とか、周囲の目を気にしながら生きているなと思わされます。
これは、決して、悪いことばかりではないと思います。
和を尊ぶ。調和、協調性を大事にする。
それは決して、悪いことばかりではないと思いますが、しかし、そこには、危うさがあります。
多数が、誤った道に進んでいこうとする時、それに抗うことができないという危うさです。
多数が、いつも善とは、限りません。
それはまさに、イエス様の十字架が、物語っています。
イエス様を十字架につけたのは、民衆たちでした。
「十字架につけろ」という、民衆たちの叫びによって、イエス様は、十字架につけられていきました。
これは、今も、そうです。
多数者、マジョリティ、力を持つ者、決定権を持つ者が、少数者、弱き者たちを虐げている。
そういう現実は、私たちの生きる世界の、そこかしこで、起こっています。
今も、イエス様は、そういう人々と共に、十字架に架けられながら歩んでおられる。
このことから、私たちは、学ばなければなりません。
私たちがよって立つべき場所は、どこなのか。
誰の権威、誰の力によって生きいくべきなのか。
イエス様は、この世のあらゆる権威にも勝る、大いなるもの。
神の権威、神の力によって、生きるようにと、招いています。
周囲の目を気にして生きるよりも、神の目を気にして生きる。
周りの人がどう見ているかということよりも、神が、どう見ておられるのか。
神の御心がどこにあるかということを考えて、生きていく。
周囲に流されて生きていくのではなく、神の声に聞き、その導きに従って生きていく。
その時、私たちは、様々な囚われから解放され、本当に大切なものに基づいて、決断したり、行動したりすることができるのです。
私たちは、この後、主の祈りを祈ります。
その祈りの最後には、「国も力も栄えもとこしえにあなたのものだから」という言葉があります。
「力はとこしえに神のもの。」
この言葉を、心を込めて、祈りたいと思います。
そして、その祈りに、生きていきたいと思います。
お祈りします。