2024年9月8日主日礼拝メッセージ「捨てられた石が」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書20章9節〜19節

新共同訳新約聖書149ページです。

20:9 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。

20:10 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。

20:11 そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。

20:12 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。

20:13 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』

20:14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』

20:15 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。

20:16 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。

20:17 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』

20:18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

20:19 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

「捨てられた石が」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

今日の聖書の箇所には、『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった』って書いてあります。

これは、今日の箇所を読む上で、とても大事な箇所です。

今日は、この言葉に込められたメッセージを、一緒に、考えてみたいと思います。

まず、前半、「家を建てる者の捨てた石」について考えてみたいと思います。

イエス様の時代、家は、石で、つくられていたそうです。

石で作られた家。

どんな家だろうと思って、探しましたが、あんまり良い写真がありませんでした。

それで、AIに作ってもらったら、こんな画像が出てきました。

どこまであっているかは、わかりません。

おそらく、屋根は、三角じゃなくて、平が多かっただろうって言われています。

でも、石で家を作ると、大体、こんな感じになるってことです。

イエス様が生きられた地域は、石とか岩がたくさんありました。

それを砕いたり、削ったりして、いろんなものが作られていました。

石臼とか、石垣とか、家もその一つでした。

家を作る時に、大事なのはなんでしょうか。

デザインとか、機能性も大事だけど、一番はやっぱり、頑丈であることだと思います。

台風が来たら、すぐに倒れてしまうような家だったら、安心して暮らせません。

だから、やっぱり家は、頑丈じゃなきゃいけないんですが、

石で頑丈な家を作ろうと思ったら、気をつけなきゃいけないことがあります。

なんでしょう。

それは、なるべく、隙間を作らないってことです。

隙間があると、雨とか風も入ってきちゃうし、そこから、壊れていってしまいます。

丈夫な家を作るためには、隙間がないように、石を、ピッタリと組み合わせることが大事なわけです。

そこで重要になってくるのが、石の形です。

自然の石は、大きさも形も、みんな違います。

それを、削ったりしながら、隙間なく組み立てていく作業は、とても大変だっただろうなって思います。

たとえば、石の形が、こんな石(四角)だったらどうでしょうか。隙間なく組み立てていくことも、楽そうですよね。こんな石(長方形)も、組み立てやすそうです。

でも、・・・こんな石(三角)だったり、こんな石(丸)だったら、どうでしょう。

中には、こんな石(ボール)もあったかもしれません。

どうでしょう。組み立てられますか?難しいですよね。

きっと、こんな石は、良い石だ、役に立つって言われたと思いますが、こんなだったり、こんな形の石は、使えないって言われて、捨てられただろうと思います。

「家を建てる者の捨てた石」っていうのは、まさに、こういう石のことです。

丸かったり、尖っていたり、変わった形をしていて、使いずらい。

周りの石とうまく組み合わなくて、都合が悪い。

それで、捨てられてしまう石。

そんな石が、「隅の親石となった」って書いてあります。

「隅の親石」って何か。調べてみると、こんな石が出てきました。

文字通り、建物の隅にあって、建物全体を支える石のことだそうです。

これが崩れると、建物全部が崩れてしまうほど、大事な石。なくてはならない石。それが、隅の親石だそうです。

使いずらい、役に立たない、そう言って捨てられた石を拾い上げて、隅の親石とされる。

そして、その隅の親石を土台にして、新たな家を建てられる。

神様が、そうされるんだって、この箇所は、語っているんです。

使いずらい、役に立たない、そう言って捨てられた石を土台にして、建物を建てられる。

それが神様なんだ。

このことを思う時に、綺麗な石になろうとしなくて良いって、言われているように、感じました。

周りに合わせて、綺麗な石になろうとしなくて良い。

丸かったり、三角だったりしたって良いじゃない。

あなたの形のまま、あなたらしく生きていっていいんだって、神様は、そう言ってくださっているんだと思います。

「周りと違うことを、恐るな。あなたは、あなたのままで素晴らしい。」

同じように、「他の人も、他の人のままで素晴らしい。」

そうやって、お互いに、相手のことを素晴らしいって、受け止め合いながら生きていきなさいって、言われているのだと思います。

今日は、このメッセージを、心に覚えたいと思います。お祈りします。

エルサレムに入られたイエス様は、神殿で、民衆たちを教えていました。

先週から、その教えを続けて読んでいます。

今日は二つ目の教えです。

そこには、恐ろしいたとえ話が語られています。

どんな話かというと、あるぶどう園の話です。

あるぶどう園の主人が、そこを農夫たちに貸して旅に出ました。

収穫の時になったので、収穫を納めさせるために、主人は、僕を農夫たちのところへ送りました。

しかし、農夫たちは、彼を袋叩きにして、何も持たせず、追い返してしまいました。

そこでまた主人は、他の僕を送りました。

しかし、彼も、袋叩きにされ、侮辱されて(これはレイプを表すと言われます)、追い返されてしまいました。

それでも主人は、もう一人、僕を送ります。

でも彼も、傷を負わされ、外に投げ捨てられてしまいました。

そこで主人は、最終手段として、自分の愛する息子を送ることにしました。

息子なら、そんなことはされないだろうと思ったようです。

しかし、農夫たちは、「跡取りを殺せば、相続財産は我々のものだ」と言って、この息子をも殺してしまいました。

これは、人間と神様との、壮大な物語について語った、たとえ話です。

神様は、天地創造の物語の中で、万物の最後に、人間を造られました。

そして、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と言われました。

ここで言われる「支配せよ」というのは、「管理しなさい」とか、「守りなさい」という意味であって、決して、好き勝手にしていいということではありません。

神様は、良き管理人として、人間を、万物の最後につくられたのです。

ぶどう園の農夫というのは、この人間のことを指しています。

そして、ぶどう園の主人というのは、神様のことを指しています。

ぶどう園の主人は、すべてを整えた後、農夫たちに、これを貸して旅に出かけました。

貸したのであって、あげたのではありません。

依然として、このぶどう園は、主人のものです。

同様に、この世界も、万物の創造者である神様のものです。

私たち、人間のものではありません。

人間の都合で、人間の好きなようにしていいわけではありません。

私たちが任されているのは、管理することであり、守ることです。

神様が創造された世界を、そのまま守ること。神様が良いと言われたその状態に保つこと。

それが、人間に託された働きでした。

しかし、現実はどうでしょうか。

人間は、自分のものであるかの如く奪い合い、自分たちの都合に合わせて、世界の形を、変えてしまっております。

これは、現在進行形で、起きていることです。

今日のたとえ話では、農夫たちが、ぶどう園をどうしたかについては、一切語られていません。

でも、彼らも、そうだったかもしれません。

ぶどう園を貸し与えられたのに、もしかしたら、彼らは、畑にしてしまっていたのかもしれない。

牧場にしてしまっていたのかもしれない。

もしかしたら、そこに、自分たちの家を建ててしまっていたのかもしれない。

主人が期待していた収穫なんて、全くない。

そんなもの、取ることができないような状況だったのかもしれません。

だから、僕たちを袋叩きにし、追い返すようなことをしたのではないでしょうか。

主人が期待していた収穫など、そこにはなかった。

あったのは、都合の良いように改良し、植えたり、建てたりしたものばかりだった。

あるいは、それによって、枯らしてしまったり、荒れ果ててしまった土地があったのかもしれません。

そんな状況の中に、僕たちが来たので、彼らは焦って、皆殺しにしてしまった。

現実の世界から、このたとえ話を読むときに、そんな物語が見えてくるように思います。

神様は、人間に、万物を管理するという使命を与えられた。

しかし、この世界をご覧になって、今、神様は、どう思っておられるのでしょうか。

パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、「被造物は、虚無に服している。人間と同じようにうめき、産みの苦しみを味わっている」と語っています。

つくられた時には「極めて良かった」はずのこの世界が、うめきの中にある。

そうならば、これは、管理者として、その使命を果たしてきたとは、言えないでしょう。

私たちは、まずこのことを、受け止めなければならないのだと思います。

神様が託してくださっている、大事なこの世界を、私たちはしっかり管理することができない。

守ることもできない。そんな存在であるということです。

それだけではありません。

人間は、そこに遣わされた神様からの僕を、殺してしまいました。

この僕というのは、旧約聖書に登場する預言者たちのことでしょう。

神様は、旧約聖書の時代、何度も預言者を立て、人類、とりわけ、イスラエルの民のもとに派遣し、導こうとされました。

しかし、イスラエルの民は、その預言者の言葉を無視し、不平不満をぶつけました。

そのようにして、人間は、せっかく神様が送ってくださった預言者を拒んだのです。

エレミヤ7章25節~26節には、「お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。それでも、わたしに聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪い者となった」と記されています。

「うなじを固くする」というのは、言うことを聞かない牛や馬の様子から来ている言葉です。

うなじというのは、首のことです。

首を固くして、手綱を引く主人のいうことを、聞かない、拒否するということです。

そうやって人間は、神様の導きを拒んできたのです。

それでも神様は、そんな人間たちのところに、最後に、愛する息子を送りました。

この息子こそ、イエス・キリストです。

13節に、『わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう』と語られています。

神様は、そんな想いで、イエス・キリストを、この世界に送ってくださったのです。

繰り返される裏切りと、反逆。

送った僕は、ことごとく殺されてしまった。

そんな世界に、神様は、ご自分の愛する息子を送られたのです。

なぜでしょうか。

なぜそんなことをなさったのでしょうか。

それは、収穫を得たかったからではありません。

神様が、この世界を、そこに生きる人々を、愛しておられたからです。

信じておられたからです。

希望を捨てないで、おられたからです。

『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』。

そういう思いで、神様は、イエス・キリストを送り出すのです。

しかし、ご存知の通り、人間は、そんなイエス様を、十字架につけて、殺してしまいます。

農夫たちは、言います。

『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』

この言葉に沿っていうならば、彼らは、知っています。

主人から送られてきたその人が、跡取りであるということ。

主人の愛する息子であるということを、彼らは、知っていた。

にもかかわらず、あえて、殺してしまおうと言うのです。

それは、神様から与えられたこの世界を、自分たちのものにするためでした。

彼らが、この世界の主人となるため。

神様じゃない。人間が、この世界の主人となるために、人間は、主人の愛する息子を、殺してしまうのです。

とてもひどい話です。

民衆たちが言うように、「あってはならない」話です。

でも、ここで、イエス様は言われるのです。

「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」。

十字架ということを念頭に考えるならば、家というのは神殿のことで、

「家を建てる者」正確に言えば、「家を建てる者たち」、複数形になっていますから、「家を建てる者たち」ということになりますが、

彼らは、律法学者や祭司長たちのこと指しています。

彼らによって、イエス様は「捨てられる」。

使えない。役に立たない。いびつな形の石として、イエス様は、捨てられていくのです。

イエス様は、彼らの都合に合わせて、形を変えようとはなさいませんでした。

律法学者や祭司長たちから見れば、どうにも使いずらい石だったでしょう。

空気も読まないし、言うことも聞かない。全く手に負えない。

だから、彼らは、捨てたのです。

でも、その捨てられた石が、「隅の親石となる」と、イエス様は言われるのです。

子どもメッセージで言いました通り、「隅の親石」とは、建物が建つ上でなくてはならない重要な「基礎」「土台」のことです。

いらない、合わないと言って、捨てられたイエス様が、新たに建てられる神の家において、なくてはならない者とされていく。

これこそが、神の御業であると、教えられているのです。

神様は、祭司長や律法学者たちとは違います。

ご自分の都合に合わせて、力づくで、形を変えようとされるお方ではありません。

いびつで、使いずらい石を愛し、その形を大切にしながら、上手に組み合わされていく。

そうやって、家を組み立てられるお方なのです。

その神様によって、私たちは、受け止められています。

私たちこそ、いびつな石です。

とんがっていたり、丸かったり、小さかったり、大きかったり。

使いづらく、組み合わせにくい、それぞれ形の違う、いびつな石です。

でも神様は、そんな私たちを、愛しておられる。

変わった形のいびつな石である私たち一人一人を、個性的なその形を、愛しておられる。

だから、今度は、あなた方が、互いに受け入れ合いなさいと、招いておられるのです。

いびつで、なかなか噛み合わない他者を、受け入れる。受け入れ合う。

排除したり、無理くり形を変えようとしたりするのではなくて、受け入れ合う。

イエス様を土台にするとは、そういうことです。

「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」

俺に合わせろ!私に合わせろ!

自分の主張をぶつけ合い、相手の形を変えさせようとするのではなく、相手の形を、受け入れる。受け入れ合う。

神様が、いびつで、歪んだ私を、愛してくださっているように、私も、いびつで、歪んだ他者を、愛する。

イエス様を土台にするとは、そういうことです。

そうやって神様は、あたらしい世界、神の世界、神の国を、つくろうとなさっているのです。

周りに合わせて、綺麗な石になろうとする必要はありません。

とんがったままでいい。丸いままでいい。

そんないびつな私たちを、神様は、愛してくださっています。

だから、私たちも、いびつで、個性的な他者を愛する者、受け入れる者となっていきましょう。

自分の思いばかりを主張するのではなく、相手の形、相手の想いを聞き、受け入れ合う者となっていく。

そうやって、イエス様がされたように、互いに受け入れあっていく時、そこに、神の国は広がっていくのです。

お祈りいたします。

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