聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ペトロの手紙一4章10節〜11節
新共同訳新約聖書433ページです。
4:10 あなたがたはそれぞれ、賜物(カリスマ)を授かっているのですから、神のさまざまな恵み(カリス)の善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
4:11 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・ キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。
「善い管理者となるために」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日は、1冊の絵本を読みたいと思います。
1,「かみさまからのおくりもの」っていう絵本です。
前にも1度、読んだことがあるので、覚えている人もいるかもしれませんが、今日の聖書のメッセージにぴったりな絵本ですので、もう一度、読んでみたいと思います。
「かみさまからのおくりもの」。
2,赤ちゃんが生まれる時、神様は、一人ひとりの赤ちゃんに、贈り物を下さいます。
3,神様からの贈り物は、天使が運んでくるのです。
4,ほぎゃあ、ほぎゃあ、ほぎゃあ、ほぎゃあ。
5,五人の赤ちゃんが生まれました。
6,「ほっぺの赤いお赤ちゃんには、この贈り物がいい。届けておくれ。」
「はい、かしこまりました。」
7,天使は、赤ちゃんに、贈り物を届けに行きました。
8,天使が運んできた贈り物は、「よく笑う」でした。
9,赤ちゃんはよく笑う明るい子供になりました。
10,「大きい赤ちゃんには、この贈り物がいい。届けておくれ。」
「はい、かしこまりました。」
11,天使は、赤ちゃんに、贈り物を届けに行きました。
12,天使が運んできた贈り物は、「力持ち」でした。
13,赤ちゃんは力持ちの元気な子供になりました。
14,「泣いている赤ちゃんには、この贈り物がいい。届けておくれ。」
「はい、かしこまりました。」
15,天使は、赤ちゃんに、贈り物を届けに行きました。
16,天使が運んできた贈り物は、「歌が好き」でした。
17,赤ちゃんは歌の好きな、声のきれいな子供になりました。
18,「よく動く赤ちゃんには、この贈り物がいい。届けておくれ。」
「はい、かしこまりました。」
19,天使は、赤ちゃんに、贈り物を届けに行きました。
20,天使が運んできた贈り物は「よく食べる」でした。
21,赤ちゃんはよく食べる丈夫な子供になりました。
22,「すやすや寝ている赤ちゃんには、この贈り物がいい。届けておくれ。」
「はい、かしこまりました。」
23,天使は、赤ちゃんに、贈り物を届けに行きました。
24,天使が運んできた贈り物は「優しい」でした。
25,赤ちゃんは心の優しい子供になりました。
26,「神様、素敵な贈り物をありがとう。」
神様は、生まれてくる赤ちゃん、一人一人に、素敵な贈り物を与えてくださっているっていう絵本でした。
この絵本にあるとおり、聖書は、私たち一人ひとりに、神様が、素敵な贈り物をくださっているっていうことが書いてあります。
私たち一人ひとりに、素敵な贈り物をくださっている。
みんな同じじゃありません。
一人一人、それぞれ違う贈り物をくださっているんだって書いてあります。
絵本では、「よく笑う」とか、「優しい」とかっていう贈り物が出てきましたけれども、みんなは、どんな贈り物をもらっているでしょうか。
みんなは、神様から、どんな贈り物をもらっているって、思うでしょうか。
「誰とでもすぐに仲良くなれる」とか、「早く走れる」とか、「苦手なことにも頑張ってチャレンジする」とか、そんな贈り物もあるかもしれません。
どうでしょうか。
中には、「わからない」っていう人もいるかもしれません。
神様から、どんな贈り物を与えられているのか、わからないっていう人。
確かに神様からの贈り物って、自分ではなかなか気づけないことが多いかもしれません。
でも、焦る必要はありません。
必ず、与えられています。
神様は、全ての人に、素敵な贈り物をくださっています。
今わからないって思う人は、ぜひ探してみてください。
私には、どんな贈り物があるかなって、ぜひ探してみてください。
それでもわからない人は、ぜひ、周りの人に、聞いてみてください。
きっと、みんなの素敵なところ、教えてくれると思います。
そして、みんなも、誰かの素敵なところ見つけたら、教えてあげてください。
そうやって、お互いに、教え合えたら、素敵じゃないかなって思います。
神様からの贈り物をしっかり受け取って、「神様ありがとう」って思って生きられたら、きっと神様、とっても嬉しいと思います。
そんなふうにできたらいいですね。
お祈りしましょう。
・
今日の箇所には、「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっている」と記されています。
「賜物」という言葉は、ギリシャ語で「カリスマ」という言葉です。
「カリスマ」といえば、随分前ですけれども、「カリスマ美容師」とか「カリスマモデル」などと言われて、流行語になった言葉です。
そこでは、人を惹きつける特別な魅力や能力を表す言葉として、その道のトップにのみ用いられる言葉でしたが、聖書は、そうは語っていません。
「カリスマ」とは、神様から恵みとして与えられる「賜物」のことで、それは、「すでに」「それぞれ」に与えられていると言われています。
つまり、全ての人が、すでに何らかの「カリスマ」を持っているということです。
決して一様ではない。
それぞれに、異なった「カリスマ」が与えられていると、語られています。
それぞれに異なっているということですから、これは、比べられるものではありません。
同じように「優しい」っていうカリスマが与えられているとしても、私の優しさと、他の人の優しさは違うってことです。
ですから、比べる必要はありませんし、比べることはできません。
自分にはどんな良いところがあるだろうって考える時、私たちは、すぐに、誰かと比べて、秀でているところを探そうとします。
人よりも優れているところを探そうとします。
でも、人それぞれ違うので、比べることなんてできません。
たとえば、果物の甘さだってそうですよね。
バナナにはバナナの甘さがありますし、桃には桃の甘さがあります。
それぞれに、それぞれの良さ、それぞれにしか出せない味があります。
その味こそが、神様からの賜物なんだと思います。
私には私の良さがある。
私なりの「優しさ」が、私なりの「強さ」がある。
神様からの賜物というのは、そういうものなのだということです。
・
今日の箇所には、その「カリスマ」、神様からの「賜物」の「善い管理者」になりなさいと、記されています。
「善い管理者」になる。
ここで問われているのは、与えられている賜物を、どう用いるかということです。
素敵な賜物を与えられていたとしても、それをどう使うか。
使い方次第で、善いようにも用いることができますし、逆に悪用してしまうこともあるということです。
聖書は、「善い管理者」になるようにと、招いています。
どうしたら、「善い管理者」になることができるのでしょうか。
大事なのは、与えてくださっている神様の想いに沿って「賜物」を用いることです。
神様は、ただ漠然と、賜物を与えてくださっているわけではありません。
そこには、目的があり、願いがあるのです。
その願いとは、「互いに仕え合うこと」です。
「互いに、支え合うこと」です。
つまり、他者のために、用いていくということです。
そのために、「賜物」を用いていく人が、賜物の「善い管理者」であると、聖書は語っています。
逆にいうと、自分のため、自己満足のために、賜物が与えられているのではないということです。
もちろん、人を傷つけるためでもありません。
今世界では、与えられている力を用いて、互いに傷つけ合い、奪い合っている現実がありますが、それは決して、神の御心ではない。
むしろ、神の賜物の誤った使い方をしている。
神の賜物の誤用であり、悪用であると言っていいでしょう。
大事なのは、賜物を用いて、人と人とが支え合い、つながり合うことです。
そのために神様は、一人一人に、賜物を与えてくださっているのだということです。
今日は、教会創立記念礼拝ですけれども、教会はまさに、一人一人が、神様から与えられている賜物を生かして、互いに仕え合い、支え合う共同体だと思います。
使徒パウロは、教会のことを、キリストの体と言い、そこに集う一人一人のことを、その部分だと言っています。
これは、非常に大事な言葉だと思います。
体にとって、つながり合うこと、連携し合うことは、とても重要です。
もし、体の各部分が、自分のことだけを考えて、バラバラに動いたりしたら、体はバラバラになり、壊れてしまいます。
右手は、右に行こうとし、左手は、左に行こうとしたとしたら、体は引き裂かれてしまいます。
教会も、同じだということです。
そこに集う一人一人が、賜物を生かして、つながり合い、支え合うことによって、教会は、教会になっていくことができるということです。
・
そのように、賜物とは、人と人とがつながり合い、支え合うために、与えられているのだということを、心に留めたいと思います。
賜物というと、特別な力、秀でた能力のように考えられがちですが、そうではありません。
賜物とは、人と人とがつながり合い、支え合うために、与えられている力です。
そう考えると、「病い」や「弱さ」のような、私たちにとって負と思えることも、賜物だと言えるのではないでしょうか。
これもパウロの言葉ですが、パウロは、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮するために、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのだと言っています。
弱さが人と人とを繋ぐ接着剤になる。
弱っている人を励ますのは、やはり弱っている人なのだと思います。
同じように弱さを抱え、歩む仲間がいると、本当に励まされます。
先週は、木・金・土と静岡県にありますYMCA東山荘で、全国ユースキャンプがありました。
全国の諸教会・伝道所から48名の中高生が集まり2泊3日の修養会がもたれました。
私は、グループリーダーとして、奉仕をさせていただいてきましたけれども、そこには、多くの牧師仲間も、奉仕者として参加しておりました。
そんな時に、話題に上がるのは、やっぱり、日曜日のメッセージの準備が、できているかということでした。
中には、「もう準備ができている」という人もいました。
私にとって、その言葉は、何の励ましにもなりませんでしたけれども、中には、同じように、できてないって言う人がいて、そう言う人がいますと、自分は1人じゃないと思って、励まされますし、勇気が湧いてきます。
昨晩も、今、あの人も、追い詰められているんだと思って、励まされながら、このメッセージの準備をすることができました。
老いていく悲しみや不安、病気の痛み苦しみ、その中を歩んでいく時に、自分は1人じゃない。
痛みや悲しみを共有できる仲間がいるということは、とても大事なことだと思います。
そのように弱さは、用い方によって、人を支えたり、励ましたりする力になるのです。
弱さや病い、老いも、捉え方や用い方によって、賜物となることができる。
繰り返しますが、大事なのは、賜物が、人よりも秀でた能力のことではなく、人と人とがつながり合い、支え合うために、与えられている力のことだということです。
そのような力を、みんなが、与えられている。
そのことを覚えていたいと思います。
そして、同時に、それを生かすことができる環境を整えていきたいと思います。
全ての人に、賜物が与えられていると言われている以上、賜物がわからないとか、発揮できないというのは、その人が気づいていないか、環境が悪いか、どちらかであると思います。
どんなに素晴らしい賜物を持っていても、たとえそれを自覚していたとしても、それを発揮できる環境がなければ、宝の持ち腐れになってしまいます。
一人一人が、神から与えられている賜物を感謝し、生き生きと発揮できる教会や社会を、いかにつくっていけるか。
これは、教会や社会に与えられている大きな課題です。
皆さんは、「窓際のトットちゃん」という本をご存知でしょうか。
黒柳徹子さんの幼い頃の話を本にしたものですが、ご存知、黒柳徹子さんは、日本史上最初のテレビ出演者の1人であり、今も、テレビに出続けておられて、「徹子の部屋」という番組では、同一司会者によるトーク番組の最多放送世界記録保持者でもあるという、本当にすごい方ですけれども、
窓際のトットちゃんには、小学校1年生の時に、学校を退学させられるという、出来事が、書かれています。
天真爛漫というか、落ち着きがなく、授業の妨げになるということで、いつも廊下に立たされて、最終的には、やめてくださいと言われたということが書かれています。
でも、そんな徹子さんも、トモエ学園と出会って、校長の小林宗作(そうさく)先生と出会って、人生が変えられました。
小林先生は、「どんな子供も、素晴らしい才能を持っている」という信念を持った音楽教師であったそうです。
まさに今日の箇所と共鳴する考え方ですけれども、その信念の中で、徹子さんにも、いつも、「君は、本当は、良い子なんだよ」と言い続けておられた。
「その言葉にどれだけ支えられたか。
その言葉のおかげで、今の自分がある」と、徹子さんは、おっしゃっています。
もし、小林先生に出会っていなかったら、「悪い子」というレッテルを貼られ、コンプレックスにとらわれ、どうして良いかわからないまま、大人になっていた、と本の中にも書いてあります。
その文章を読みながら、本当に、環境って大事だなと思わされました。
環境次第で、人は、どんなふうにでも輝くことができる、そう教えられます。
教会も、みんなが輝く環境になれたら良いなと思います。
教会や社会という組織を維持するために、人がいるのではありません。
人が、与えられた賜物生かし合い、支え合って生きていくために、教会や社会は、あるのだと思います。
教会のための人間形成ではなく、人のための教会形成をしていけたらと、心からそう願うものです。
一人一人が、神から与えられている賜物を感謝し、生き生きと発揮できる教会や社会を、つくっていきましょう。
お祈りします。