聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書19章37節〜48節
新共同訳新約聖書147ページ〜148ページです。
19:37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
19:38 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」
19:39 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。
19:40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」
19:41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、
19:42 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
19:43 やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、
19:44 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
19:45 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、
19:46 彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
19:47 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、
19:48 どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。
「平和への道」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
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おはようございます。
8月も最後の週を迎えました。
暑い日が続いていますが、皆さん、お元気でしょうか。
今週から、学校も始まるということですが、我が家では、マイコプラズマが流行っておりまして、息子たちは、もう少し、夏休みが続くかなと思います。
子どもたちの中には、学校が始まるということで、不安を覚えている子もいるかもしれません。
祈りに覚えたいと思います。
さて、今日の聖書の箇所には、大きく分けて、3つのお話が記されています。
一つは、先週に引き続き、イエス様がエルサレムに入っていかれる場面。
もう一つは、そのエルサレムの都を見つめながら、イエス様が涙を流される場面。
そして、最後に、そのエルサレムの神殿から、商売人を追い出すという場面と、この3つの場面が、今日の箇所には、記されているわけですが、特に今日は、二つ目の場面。
イエス様が、涙を流された場面を中心に、読んでいきたいと思います。
イエス様が、涙を流された。
涙にも色々あります。
悲しみの涙もあれば、嬉し涙もあります。
感動した時にも涙が出ますけれども、イエス様が流された涙は、どんな涙だったでしょうか。
読んでみますと、それは、エルサレムに対する嘆きの涙だったようです。
19:41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、
19:42 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
19:43 やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、
19:44 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」
「やがて時が来る」と言われています。
滅びの時です。
「敵が周りに堡塁を築き、四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまう。」
これは、紀元後70年、ローマ軍によって、エルサレムが滅ぼされる時のことを語っているのだと言われています。
イエス様の目には、この滅びの未来が、はっきりと見えていたのです。
だから、涙を流されたのです。
神の都、エルサレムが滅びる。
イエス様の涙は、そのことに対する嘆きの涙です。
問題は、なぜ、神の都エルサレムが滅びるのか、ということですけれども、それについてイエス様は、「神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」とおっしゃっています。
ローマの力によって、滅ぼされるとは言われません。
滅んだ原因は、エルサレムの民にあった。
彼らが、神の訪れてくださる時をわきまえなかったから。
つまり、神を迎え入れようとしなかった。
神を拒んだと言ってもいいかもしれません。
だから、エルサレムは滅ぶのだと、言われています。
同時に、イエス様は、42節で、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。」とも言われています。
「もしこの日に、平和への道をわきまえていたなら……、
もしも、わきまえていたならば……、滅びを免れることができたかもしれない。」
「しかし今は、それがお前には見えない。」と言われるわけです。
「お前には見えない」。とても重たい言葉です。
エルサレムの民に見えなかった「平和への道」。
あるいは、彼らが拒んだ「神の訪れ」とは、具体的に、何を指しているのでしょうか。
それは、前後の話の中に、示されています。
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まず、前の場面からみていきたいと思いますが、そこには、イエス様がエルサレムに入っていく場面が記されています。
この場面で、弟子たちは、声高らかに神を賛美し始めたと記されています。
弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」そう言って、神を賛美し始めた。
すると、ファルサイ派の人々が、イエス様に「先生、お弟子たちを叱ってください」と言いました。
賛美する弟子たちを叱ってくれということは、つまり、賛美をやめさせろということです。
なぜ、彼らは、そんなことを言ったのでしょうか。
それは、おそらく、ローマの目を恐れたからでしょう。
当時、エルサレムを含むユダヤの地は、ローマに支配されていました。
ローマ皇帝という絶対的支配者によって、統治されていました。
そんな場所で、弟子たちは、「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。」と賛美したのです。
これは、賛美であると同時に、弟子たちの信仰告白でもあります。
イエスこそ我が主、我が王である。
そうやって、声高らかに、叫んだのです。
ローマ皇帝に対する反逆と取られても、おかしくありません。
だから、ファリサイ派の人々は、弟子たちの賛美を止めようとしたのでしょう。
見方によれば、イエス様を守るためだったと、取ることもできるかもしれません。
でも、イエス様は言うのです。
「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」。
賛美の声は、止められないということです。
この言葉を聞いて、ファリサイ派の人々は、どう思ったでしょうか。
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場面変わって、今日の箇所の後半には、イエス様が、エルサレム神殿から商売人を追い出す様子が記されています。
当時、神殿には、礼拝で献げるための犠牲の動物を売る商売人や両替人がいました。
両替人というのは、神殿内で通用するお金に両替することを仕事にしていた人たちです。
当時、一般的に使われていたのは、ローマのお金でした。
しかし、そこには、ローマ皇帝の顔が刻まれていましたので、神様に献げるにはふさわしくないということで、ユダヤの貨幣に交換しなければいけなかったのです。
両替人は、そこで、手数料を取って、儲けていたと言われています。
犠牲の動物を売る人たちもそうです。
神様に献げる動物も、何でもいいわけではありませんでした。
主に、羊や牛、鳩などが献げられていたそうですが、そういった動物を携えて、エルサレムにやってくるということが困難な人たちもいました。
特に、遠い異国の地から旅をしてくる巡礼者たちにとっては、難しいことでした。
商売人たちは、そういった人々に、犠牲の動物を売っていたわけです。
一見、ありがたいことのようにも思いますが、これが、イエス様から見れば、強盗と同じに見えた。
神殿の外で買えば、安く手に入れられるようなものを、礼拝用の動物ということで、法外な値段で売っていたのかもしれません。
そのように、商売人たちは、礼拝を献げる人々の信仰心を利用して、儲けていたのです。
さらに、その利益は、神殿を取り仕切る人々の懐にも入っていました。
もちろん彼らは、神殿の中で、商売している人々がいたことを知っていました。
でも、咎めることはありませんでした。
なぜなら、その商売によって、神殿が、神殿を取り仕切る人々の懐が、潤っていたからです。
当時の神殿は、そうやって回っていたのです。
イエス様は、そんな神殿を、「強盗の巣」と呼びました。
「祈りの家」と呼ばれるべき神殿を、「強盗の巣」にしていると言って、厳しく批判しました。
これは、商売人たちだけでない、当時の神殿体制そのものに対する批判です。
これに対して、祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエス様を殺そうと動き始めます。
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弟子たちの賛美を止めようとしたファリサイ派の人々、あるいは、イエス様を殺そうとした祭司長たちにとって、イエス様は、平和の主どころか、平和を乱す不敬な輩にしか見えなかったでしょう。
彼らは、必死になって、イエス様のことを止めようとしました。
それは、彼らの平和を守るためでした。
賛美の声を黙らせることによって、成り立つ平和。
礼拝に来る人々から利益を貪ることによって、成り立つ平和。
それは、平和でも何でもありません。
誰かの犠牲の上に成り立つ平和は、平和ではありません。
でも、彼らは、その平和を、必死に守ろうとしました。
これこそがまさに、イエス様が言われた「お前には見えない」ということの現実だったのだと思います。
彼らには、見えていないのです。
自分たちが守ろうとしているものが何なのか。
何が、平和への道であるか。
イエス様こそ、神の訪れであり、イエス様こそ、平和への道である。
そのことが、彼らには見えないのです。
イエス様は、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と言われました。
剣は、葛藤と言い換えることもできるでしょう。
時にイエス様は、私たちの中に、葛藤をもたらします。
それは、見せかけの平和を打ち破り、真の平和をつくり出すために必要なものです。
この葛藤を通らずして、平和に至ることはできないのです。
ファリサイ派の人々や、祭司長たちは、その葛藤を拒みました。
そして、現状にとどまろうとしました。
荒れ野を旅したイスラエルの民もそうでした。
彼らもまた、過酷な旅路の中で、時々に与えられるオアシスにとどまろうとしました。
そこが、目的地ではないことをわかっていながらも、神の招きを拒み、現状にとどまろうとしました。
私たちは、どうでしょうか。
私たちの中にも、現状にとどまりたいという想いがあるのではないでしょうか。
臭いものには蓋をして、都合の悪いものは見て見ぬふりをして、そうやって、波風を立てず、平静を保とうとする。
イエス様は、そんな私たちのところにやってきます。
そして、臭いものを封じる蓋を開き、都合の悪いところをあらわにし、波風を立てられるのです。
そうやって、現状にとどまろうとしている私たちを、再び、荒れ野の道へと、招くのです。
無茶苦茶、迷惑なお方です。
でも、そこに平和への道がある。
そうやって、イエス様は、私たちを、平和への道へと導かれるのだと、聖書は教えています。
イエス様を迎え入れるということは、私たちにとって、都合の良いことばかりではありません。
イエス様の言動は、私たちの生き方やあり方を、根底から揺さぶり、鋭く問いかけます。
イエス様を迎え入れるということは、そのような揺さぶりや問いかけをも、受け入れるということです。
それは、私たちにとって、決して、楽なことではないでしょう。
でも、そうやって、イエス様を受け入れ、イエス様の導きを信じて歩む時、私たちは、平和への道を歩むことができるのです。
イエス様に揺さぶられ、イエス様に問いかけられながら、平和への道を歩みましょう。
お祈りします。