聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書19章28節〜38節
新共同訳新約聖書147ページ〜148ページです。
19:28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。
19:29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、
19:30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。
19:31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
19:32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。
19:33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。
19:34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。
19:35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。
19:36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
19:37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
19:38 「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」
「子ろばのように」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
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私たちは、礼拝の中で、ルカによる福音書を続けて読んでおります。
中でも、9章からは、イエス様が、エルサレムを目指して歩まれる、その旅路を続けて読んできましたが、今日の箇所には、その旅路の終わりの様子が記されています。
目指していたエルサレムに、いよいよ入っていく。
今日の箇所は、その様子を、記しています。
どんな気持ちで、イエス様は、エルサレムに入って行かれたのでしょうか。
巡礼者のように、やっとエルサレムに着いたという喜びや達成感が、あったでしょうか。
状況から考えると、そんな気持ちにはなれなかったと思います。
きっと、並々ならぬ覚悟を持って、エルサレムに入っていかれたのだと思います。
なぜなら、イエス様は、エルサレムにおいて苦しみを受け、死に至るということを、予感しておられたからです。
一番近いところでは、18章31節~33節で、そのことが語られています。
18章31節~33節
18:31 イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。
18:32 人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。
18:33 彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」
「人の子」というのは、イエス様ご自身のことです。
イエス様は、エルサレムにおいて、異邦人に引き渡されること。
侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられ、鞭打って殺されることを、予感しておられました。
でも、だからと言って、死に向かって歩んでおられたわけではありません。
「人の子は三日目に復活する」とあるように、苦難の先にある栄光に向かって、歩んでおられたのです。
28節には、「先に立って進み」と記されています。
イエス様は、すべての者に先立って、苦難の道を歩まれるお方です。
今も、私たちに先立って、苦難の道を歩んでおられます。
先週、私は、家族で、妻の両親がおります佐賀に行ってきました。
妻と息子たちは、そのまま佐賀に残りまして、今日は、妻の父が牧師をしております佐賀教会で、礼拝を献げております。
私は、ひと足先に、大分に帰ってきたのですが、帰り道、1人、車を運転して、帰ってきました。
夜道の運転で、局所的にですが、大雨にも降られまして、視界も悪く、少し不安になりました。
そんな時にありがたかったのが、前を走る車がいたということです。
そんな車のように、苦しい時、辛い時、私たちの歩みの先には、いつも、イエス様がいてくださいます。
視界不良の私たちの歩みを、先導してくださいます。
そして、苦難は苦難で終わらない。
いつか必ず、神が、その苦労に報いてくださる日が来る。
苦難の道は、同時に、栄光の道であるということを、イエス様は、先立って、示しておられます。
そして、私の後に続くようにと、招いておられるのです。
苦難の道は、イエス様の道です。
苦しいことや辛いことがあった時には、ここを通って、イエス様は、歩んで行かれたのだ。
この道の先に、栄光が待っているのだと、信じて、歩む者でありたいと思います。
イエス様は、そのように歩むようにと、わたしたちを招いています。
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ただ一方で、イエス様のように、その道を、歩み通せるのかと、不安になることもあるかもしれません。
イエス様だからこそ、その道を歩み通すことができたのではないか。
そう思う方もいらっしゃるかもしれません。
イエス様は、私たちに、どのように従うことを、求めておられるのでしょうか。
そのことを考える時に、イエス様が、子ろばを用いられたということに、非常に大事なポイントがあるように思います。
イエス様は、子ろばに乗って、エルサレムに入っていかれました。
なぜ、子ろばだったのでしょうか。
それは、預言者が語った言葉を実現させるためでした。
今日の礼拝の最初に読んでいただきました、ゼカリヤ書9章9節には、次のように記されています。
「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。」
イエス様は、この言葉を成就するために、子ろばに乗って行かれたのです。
「見よ、あなたの王が来る」とあるように、イエス様は、王として、エルサレムに入っていかれましたが、そのいでたちは、この世の王たちとは違いました。
子ろばに乗って、入城する王がどこにいるでしょうか。
当時、ユダヤを支配していたのは、ローマ皇帝でしたけれども、ローマ皇帝が、子ろばに乗っていく姿など、想像できるでしょうか。
乗るならやはり馬であったと思います。
馬は、体も大きく、早く走ることができます。
社会性のある動物だそうで、飼育しやすく、また、乗り手に優しい動物だそうです。
乗ったことがある方もいらっしゃるかもしれません。
当時は、主に、軍馬として、戦いの道具とされていました。
それに比べて、ろばは、体も小さく、足も遅く、力も弱いそうです。
馬が力の象徴とされている一方で、ろばは、愚鈍さの象徴であったと、書かれているものもありました。
それは、ろばが、頑固で気分次第で動かなくなる融通の利かない所があるからだそうです。
西洋では、昔から、「騎士は馬に騎乗し、農民は牛馬を育て、ろばは貧農が育てていた」と言われています。
33節をみてみますと、「ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。」と記されています。
「持ち主たち」ですから、複数で、このろばを飼っていたということがわかります。
そういう意味では、ろばは、貧しさを象徴する動物でもあったわけです。
そんなろば。
しかも、子どもで、まだ誰も乗ったことのない子ろばであったと言います。
さぞ、乗りこなすのが大変だっただろうと思いますけれども、なぜ、あえて、そのような子ろばでなければならなかったのでしょうか。
それは、預言の続きに語られています。
ゼカリヤ書9章10節に次のように記されています。
「わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。」
イエス様は、エルサレムから戦車、軍馬を絶つため、力を絶つために入城されたのです。
だから、子ろばだったということです。
早く走ることもできない。
力もない。
気分次第で、融通も効かない。
戦場では役に立たない。
そんな子ろばこそ、平和を実現する王に相応しい。
そのようにして、子ろばは、イエス様に用いられていったのです。
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私たち日本バプテスト連盟には、平和に関する信仰的宣言「平和宣言」というのがあります。
平和宣言は、十戒を基礎に作られていますが、その第5戒で、次のように告白しています。
第五戒「あなたの父と母を敬え」
主イエスによって解放され生かされた私たちは、年老いて弱さの中におかれたものたちを尊ぶ。戦争の時代、生きる価値がないとされたものたちは殺される。私たちは彼らと共に生きることによって、戦争の価値観を拒否する。教会は戦争の役に立たない群れとして生きる。
戦場では、強いこと、早いこと、指示通りに動くこと、そして、1人でも多くの敵を倒すことに、価値が置かれます。
そして、戦争の役に立たない者、足手まといになる者たちは、排除されていきます。
かつてナチスドイツは、障がい者や病人を「生きる価値のない生命」として抹殺していきました。
日本でも、障がい者や病人は、「徴兵不適格者」と呼ばれ、差別を受けたり、馬鹿にされたり、恥だと言われて家にも居場所がないこともよくあったそうです。
「徴兵不適格者」が多く出ると、国から罰せられるというひどい噂も流され、山奥や寺に「監禁」され、その存在を隠蔽された人たちもいたと言われています。
戦時中の価値観の中で、弱い人たちは、生きる価値のない人たちだと言われ、傷つけられ、殺されていきました。
この戦争の価値観を拒否する。
弱いこと、遅いこと、融通の効かないこと、そして、敵を倒せないことに、価値を置く。大事にする。
教会は、戦争の役に立たない群れとして生きる。
それは、今日の箇所を通していうならば、子ろばとして生きるということではないでしょうか。
子ろばのままで良いのです。
早く走れる馬を羨む必要はありません。
自らの貧しさや弱さを嘆く必要もない。
むしろ、子ろばのようになっていく。
早く走ることもできない。
力もない。
気分次第で、融通も効かない。
戦場では役に立たない。
そんな子ろばのように生きる人々を、イエス様は、選ばれるのです。
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イエス様の選び、それはすなわち神様の選びということですけれども、それは、大変ユニークなものです。
なぜ、この人を選ばれるのかと思うような人たちが、選び立てられていきます。
弟子たちもそうですし、使徒パウロなどは、その象徴のような人だと思います。
キリスト者を迫害していたパウロが、キリストを宣べ伝える者として、用いられていきました。
ふさわしくないと思える者たちが、神のご用のために用いられていく話が、聖書にはたくさん記されています。
ある者たちは、そのことに戸惑い、神の招きを断ろうとしました。
預言者イザヤは、自分の唇は汚れていると言いました。
預言者エレミヤは、自分はまだ若すぎると言いました。
あのモーセも、「私は何者でしょう。どうして私なのですか」と言って、その召しを断ろうとしました。
でも、そのような人々を、神様は、ご自分のご用のために、選び、立てられていったのです。
「なぜ、子ろばをほどくのか」その問いに対して、イエス様は「主がお入り用なのです」と答えなさいと言われました。
召される理由、それは、能力でも、才能でも、地位でもない。
イエス様が必要としておられる。
そのことだけで十分なのです。
イエス様は、子ろばのような私たちを、教会を、必要としておられます。
その召しに、応えていきたいと思います。
自分の力で頑張らねばと、力む必要はありません。
むしろ、手綱を握ってくださるイエス様に委ねて、歩んでいけば良いのです。
早く走る必要も、力強くなる必要もない。
ありのまま、そのままで、イエス様の招きに応えていきましょう。
イエス様が、私たちを、必要な場所へと、導いてくださいます。
お祈りいたします。