本日は、機材不良のため、礼拝メッセージの録画ができませんでした。申し訳ありません。メッセージ原稿をご覧ください。
聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、マタイによる福音書10章29節〜31節。
新共同訳新約聖書18ページです。
10:29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
10:30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。 10:31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
「誰を恐れるのか」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日は、平和祈念礼拝です。
平和な世界になるようと祈り願いながら、平和について一緒に考えたいと思います。
そのために今日は、ある絵本を読みたいと思います。
1、「すずめとからしだね」っていう絵本です。
作者は、よしたかみこさんです。
知らない人も多いかもしれませんが、実は、この教会にも繋がりの深い方です。
みこさんのおつれあいは、よしたかくにひこ先生って言って、この大分教会で育って、牧師になった先生です。
お隣の臼杵教会の牧師をしていた先生でもあります。
そんなよしたか先生のお連れ合いのみこさんが、絵本を作って、教会に届けてくれました。
今日は、その絵本を、読みながら、平和について考えたいと思います。
「すずめとからしだね」
2、そこに、たおれているのは、すずめのチュンですね。
「はい、チュンです。
足を怪我して、飛べないんです・・・。」
心配しないでいいですよ。
すぐに行きますからね。
「どなたが私をここに運んでくれたのでしょうか。
お豆や、パンくずが、たくさん落ちています。
おいしいチュン、チュン。
湧き水も美味しい、チュン、チュン。」
3、チュン!元気になりましたね。
「ありがとうございます。
おかげで元気になりました。
あなたは、どなたですか・・・」
4、「わたしはからしだねです。
あまりに小さくて、風に吹き飛ばされ、ここに落ちたようです。
私は大きくなれるでしょうか。」
からしだね!あなたは本当に小さいですね。
でも心配はいりません。
そのうち大きくなります。
「本当に、あなたが言われた通り、からしだねの私が、木になりました」
からしだね、ずいぶん大きくなりましたね。
もうすぐ葉が茂りますよ。
5、虹が出たよ。平和の虹だ。
「虹の橋を渡って、からしだねさんのところに行こう。」
「からしだねさん、こんにちは。
今日は、友達を連れてきましたよ。
平和の虹の橋を渡って。」
6、からしだね、ずいぶん葉が茂り、枝には小鳥たちが楽しそう。
チュンも友達を連れて、遊びに来ました。
「ようこそ、平和の親善大使」
「チュン、チュン」
チュン、元気がないね。疲れたんだね。
もう十分に生きたからね。
羽を休めなさい。時が来たら、迎えに行きますよ。
私の父の家には、住むところがたくさんあります。
「あ、その声、今気がつきました。
イエス様の声だったのですね。
これからは、すべて、イエス様にお任せします。
チュン、チュン」
7、からしだね、あちこちの枝がおれ、痛いだろう。
たくさんの小鳥たちの止まり木になり、お友達もたくさんつくりましたからね。
チュンもとても感謝していました。
いずれ枝は枯れて、土にかえります。
でもまた、新しい芽を出し、生まれ変わるでしょう。
「この頃、枝がぽきぽき折れて、・・・でも土にかえり、また種が生えて、生まれ変わるって・・・聖書の復活のお話と同じようですね。
ハレルヤ・・・、天地の創り主なる神をたたえます。ハレルヤ」
「すずめとからし種」っていう絵本でした。
すずめも、からし種も、小さい命をあらわしています。
からし種は、本当に、目に見えないほど小さいですし、すずめは、どこでもいる鳥で、価値がないと言われていました。
そんな小さな命であるすずめとからし種ですが、神様にとっては、大切な命。
かけがえのない命なんだって、教えられています。
私たち一人一人もそうです。
生きているもので、価値のないものなんてありません。
どんな命も、大切な命。かけがえのない命。
だから、大事にしないといけないってことです。
どんなに虫が嫌いでも、大事にしないといけない。
私は、虫が苦手です。
ダンゴムシも、蜘蛛も、ゴキブリも、好きじゃありません。
でも、好きじゃないからと言って、殺していいかというと、そうではない。
神様にとっては、虫たちも、大切な命です。
好きとか嫌いとか、役に立つとか立たないとか、一切関係なく、命は、大切。
そのことを忘れずに、どんな命も、大切にできる人になっていきましょう。
お祈りします。
・
「すずめとからしだね」という絵本を読みましたけれども、絵本の後書きに、この絵本がどうやってできたのか書いてありますので、ちょっと読んでみたいと思います。
あとがき、吉高美籠。
ある夜、私は夢を見たのです。
小さな「すずめ」が地面に倒れている夢でした。
そのすぐ横に「からし種の木」が生えていて、その木陰で小鳥たちがさえずっています。
私は急に目が覚めました。
まるで絵本の1ページをめくっているようで、思わず夫にその光景を伝え、「夢の続きの2ページ目の絵本を描きたい」と話しました。
夫は、突拍子もない私の話を聞いて、「夢の続きを描きたい?どんな物語?からし種の木ねえ。
パレスチナで栽培されている木で日本では見ないねえ。
聖書の中には、ことわざやたとえ話として記事があるがね。
それにしても、今のパレスチナは悲惨すぎる。
空爆で子どもたちの多くが殺され、瓦礫の中から悲鳴が絶えない。
とうてい絵本などのメルヘン的な世界とは程遠い状態だ。
どういう続きを描きたいのかな?何かストーリーにイメージやヒントがあるのかい?」と聞き返してきました。
私に特別なイメージはなかったのです。
ただただ、「すずめ」や「からしだね」、それらの存在はとても小さいということだけ。
でもそれが何より大切なことだと、その時、無性に感じたのでした。
「神は、一羽の小さなすずめさえ捨て置かれない方なのだ。
まして世界中の人たちが『子どもたちをころさないで!』とこんなにも祈っているではないか。
この祈りが『からし種一粒ほどの信仰』に届かないものであるはずはない。」と。
そういえば、日本には「ごく少量」を表す表現に、「すずめの涙」とか「ひとしずくの涙」という言い方があります。
でも、そのささやかな「ひとしずくの涙」も、まごころや愛がなければ、容易に流せはしないのです。
小さなものにひそむ真実を感じます。
そして、小さいものと小さいもの、「一粒の信仰」と「真実の愛」が一つに結び合わされたら、平和への道ができる。
そう、希望に虹がかかるのではないだろうか。
「そうだ、背景には、虹を入れたい。」私は、そう感じたのでした。
平和ということを考える時、何かこう、大きなことをしないといけないと思ってしまう私たちがいないでしょうか。
戦争を止めるとか、貧困をなくすとか、差別をなくすとか、どれも、不可能と思えるような大きな課題です。
でも、みこさんの絵本を読むときに、平和をつくり出すために大事なのは、むしろ、小さいことなんだと教えられます。
小さい命を大事にする。小さい命を尊ぶ。
それが、平和をつくり出していくことなのかなと、そう思わされます。
思えば、戦争の犠牲者というのは、人間だけではありません。
草木や、虫たち、動物たちも、犠牲者です。
それらの生き物は、訓練の段階で、犠牲になっています。
そのことを、私たちは、どれだけの重みを持って、受け止めているでしょうか。
・
今日の箇所の書き出しには、次のようにあります。
「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」
そういえば、最近、あまり雀を見る機会が少なくなったような気もしますが、イエス様の時代、パレスチナにおいて、雀は、ごくありふれた鳥でした。
「とまったすずめの重さで木の枝がおれることもあった」というくらい、たくさん雀がいたそうです。
特に、当時、雀は、食料として売られていました。
ある注解書によると、「最も馴染みの品であり、ずば抜けて最安価の鳥、庶民の焼き肉用鶏肉」であったと記されていました。
最も安価で、日常的に食べられていた雀。
そんな雀の命に対して、人々は、どれだけの想いを向けていたのでしょうか。
イエス様は、そんな一羽の雀でさえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」と仰っています。
「あなたがたの父」というのは、神様のことです。
「神様のお許しがなければ、地に落ちることはない。」
岩波訳聖書は、「神様なしで、地に落ちることはない。」と訳しています。
これは、神様の伴いなしで、死ぬことはないということです。
誰にも関心を向けられずに、一生を終える雀とも、神様は、共におられる。
そして、31節、「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
こんな小さな雀でさえ、神の伴いなしに、地上に落ちることはない。
まして、あなた方は、なおさらではないかと、イエス様は仰っているわけです。
・
これは、励ましの言葉です。
弟子たちを遣わされる時に、イエス様が言われた、励ましの言葉です。
イエス様は、弟子たちを派遣される時に、彼らを待ち受けている苦難を予告されました。
16節から始まる言葉ですけれども、そこには、「私はあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と記されています。
狼の群れに羊を送り込むようなものだ。
送り出される弟子たちは、たまったもんじゃなかったと思います。
「えー。それじゃあ、食べられちゃうってことですか。
そんなの、嫌です。行けません、イエス様」、恐怖で、心がいっぱいになったと思います。
そんな弟子たちに向けて、イエス様は、神様が共におられる。
だから、恐れずに行きなさいと言われたのです。
・
「恐れるな」、これは、今日の箇所の大事なテーマです。
今日は29節から呼んでいますけれども、26節から読みますと、そこにも「恐れてはならない」と記されています。
「恐れてはならない」で始まり、「恐れるな」で終わっています。
注目すべきは、その間に挟まれるようにして、「恐れなさい」ということが書いてあることです。
こういうのを、サンドウィッチ構造というそうです。
サンドウィッチのようにですね、「恐れるな」という言葉に挟まれて、「恐れなさい」ということが書いてある。
28節「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
イエス様は、単に「恐れるな」ということを言いたいのではない。
恐れてはならないものと、恐れるべきものを、区別しなさいと仰っているのです。
この区別は、私たちにとって、とても重要なものです。
なぜならそれは、私たちの生き方に関わることだからです。
恐れという感情は、私たちの行動や選択に大きな影響を与えます。
今、長男は夏休みで、家にずっといるんですが、学校からたくさん宿題が出されていまして、それをしないといけないんですが、光さんがいくら「宿題しなさい」と言っても、なかなかやろうとしないそうです。
ところが、私が言うと、宿題をし始める。
これは、誰を恐れ、誰を恐れていないかということの、分かりやすい例かもしれません。
そんなふうに、誰を恐れるかということで、私たちの生き方は、大きく変わっていきます。
エジプトから解放されたイスラエルの民は、約束の地カナンに入る時、カナンの土地に住む人々を恐れて、引き返そうとしました。
カナンの地に住むようになってからも、諸外国が攻めてくるのを恐れ、神の言葉を聞かずに、王政を始めました。
そんなふうに、旧約の民は、いつも目に見える力を恐れました。
そして、その結果、神の道から外れ、失敗するということを繰り返しています。
聖書は、そのようなイスラエルの民の歴史を通して、見える力を恐れるのではなく、見えない神を恐れなさい。
見えない神を、信頼しなさいと、教えています。
この教えを、今日改めて、心に覚えたいと思います。
・
今年も、8月6日、広島原爆の日に、広島市長による平和宣言が読まれましたけれども、その冒頭で、次のような問いかけがありました。
「皆さん、自国の安全保障のためには核戦力の強化が必要だという考え方をどう思われますか。
また、他国より優位に立ち続けるために繰り広げられている軍備拡大競争についてどう思いますか。
ロシアによるウクライナ侵攻の長期化やイスラエル・パレスチナ情勢の悪化により、罪もない多くの人々の命や日常生活が奪われています。
こうした世界情勢は、国家間の疑心暗鬼をますます深め、世論において、国際問題を解決するためには拒否すべき武力に頼らざるを得ないという考えが強まっていないでしょうか。
こうした状況の中で市民社会の安全・安心を保つことができますか。
不可能ではないでしょうか。」
この問いかけに対して、私たちは、どう応えるでしょうか。
私たちは、誰を恐れ、どのように行動するのでしょうか。
お祈りいたします。