聖書をお読みいたします。
聖書箇所は、ルカによる福音書18章18節〜27節
新共同訳新約聖書144ページ〜145ページです。
18:18 ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。
18:19 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。
18:20 『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
18:21 すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
18:22 これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、 天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
18:23 しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
18:24 イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。
18:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
18:26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、
18:27 イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。
「人間にはできないことも、神にはできる」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。
・子どもメッセージ
今日のテーマは、「まかせる」です。
「まかせる」っていうことを、今日は、一緒に考えてみたいと思いますが、ただ、話を聞くだけじゃわからないと思って、今日は、あらかじめ、ある実験をしてきました。
「まかせる」っていうことを、身をもって知るための実験です。
初くんに協力をしてもらって、動画を撮ってきましたので、まずはその様子を見てみましょう。
(動画を流す)
手を組んで、目をつむって、後ろにいる私にまかせて倒れるっていう実験でしたけれども、やってみてどうでしたか?・・・怖かった。
なんで怖かったですか?・・・ちゃんと受け止めてくれるかわからないから。怪我をするかもしれないから。
そうですよね。
もしかしたら、手を引っ込めるかもしれない。
ちゃんと受け止めてくれないかもしれない。
受け止めてくれたとしても、痛いかもしれない。
そうなふうに思ったら、怖くて、まかせられないですよね。
そうなんです。
まかせるためには、「絶対に受け止めてくれる」っていう信頼がないといけない。
この人だったら大丈夫っていう、信頼がないといけないんですね。
初くんは、私のことを、信頼することができなかった。
だから、怖くて、任せられなかったっていうことですが、じゃあ、初くん、もし、倒れる先にいたのが、私じゃなくて、ふかふかのベッドだったら、どうだったでしょう。
倒れても全然痛くないし、怪我をすることもない。
なんなら、柔らかくて、すごくきもちいい。
初くんの好きなビーズのクッションがありますよね。
あれみたいに、柔らかいビーズで、ちゃんと受け止めてくれる。
そんなベッドがあったとしたら、どうでしょう。
安心して倒れられるよね。
何も怖くないどころか、むしろ、飛び込みたいって思うかもしれない。
私たちの人生にも、そんなふかふかのベッドがあったら、生きやすくなるんじゃないかなって思うんです。
ふかふかのベッドっていうのは、つまり、安心して身を任せられるもののことです。
人生は、何が起こるかわかりません。
今日元気でも、明日も同じように元気とは限らない。
病気になるかもしれないし、事故にあうかもしれない。地震が起こるかもしれない。
このわからないっていうのは、とても怖いことです。
この不安を、完璧に消すことは多分無理だと思いますし、消さない方が良いかもしれません。
消しちゃうと、私たちは、備えることもしなくなっちゃう。
備えはした方がいいです。
避難訓練もした方がいいですし、病気にあわないように、健康に気をつけることも大事です。
いざという時のために、できるなら貯金しておくことも必要だと思います。
でも、どんなにお金があっても、どんなに避難訓練をしていても、役に立たないこともあります。
それは、死ぬことです。
どんなにお金があっても、どんなに信頼できる友達がいても、死ぬ時に、身を任せることはできません。
教会では時々、お葬式がありますけれども、
どんなにお金持ちでも、どんなに愛する家族がいたとしても、やっぱり死ぬのは怖いって言います。
でも、一つ違うなって思うのは、神様を信じている人。
神様を信じている人は、死んでいく時、やっぱり違うなって思います。
全く怖くないってことはないと思いますが、それでも、神様が受け止めてくれる。
そう思うだけで、楽になるんじゃないでしょうか。
イエス様は、私たちに、神様にまかせなさいって呼びかけています。
どんなことがあっても、たとえ私たちが死んでしまったとしても、神様が、私たちを受け止めてくださる。
この神様を信じて、生きていきなさいって呼びかけています。
お金やものでは解決できない問題が、必ず私たちには、起こります。
その時に、私たちには、信頼できるお方がいるということ。
まかせられるお方がいるということ。
そのことを思い出せるように、今日のメッセージを心に留めておきましょう。
お祈りします。
・できないことにとらわれている私たち
皆さんは、「ニーバーの祈り」と呼ばれる、祈りの言葉をご存知でしょうか。
礼拝の中でも、紹介したことがあるお祈りですけれども、週報の巻頭言に、その言葉を載せさせていただきましたので、週報をお持ちの方は、ご覧ください。
こんなお祈りです。
「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。」
これは、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーの祈りとして有名な祈りです。
この祈りには、人間の力の限界が示されています。
私たちの力で、変えることができることもあるけれども、中には、どんなに私たちが力を尽くしても、できないこともある。
たとえば、過去のこと、起こってしまったことを、無かったことにはできません。
あの時こうしておけばよかったと悔やんでも、そのこと自体を変えることはできません。
そんなふうに、私たちには、どんなに力を尽くしても、変えられないことがあります。
そんなことは、誰もが知っていることかもしれません。
でも、どうでしょうか。
できないことにとらわれて、悩んだり、苦しんだりしていることがないでしょうか。
そんなの悩んだってしょうがないのに、それでも悩まずにはいられないことが、皆さんには、ないでしょうか。
私は時々、寝る時に考えだしてしまって、寝つきにくくなるということがあります。
たとえば、子どもメッセージで、葬儀の話をしましたけれども、あの人は大丈夫だろうか、この人は大丈夫だろうかって、考え出すときりがなくなります。
夜電話がかかってくると、ドキッとして、電話に出るのが怖くなった時期もありました。
24時間、365日、盆も正月も、そういう緊張感は常にあります。
亡くなったって連絡が来たら、自然とスイッチが入って、夜中だろうがなんだろうが、出かけていくんですけど、電話を取るまでは、いつもどこかで緊張している自分がいます。
そんなの、緊張したってどうしようもないんですが、それでも、考えてしまうことがあります。
あとは、漠然と将来のこととか、考えても答えの出ないことで、ぐるぐる頭が回って、眠れなくなるようなこと、きっと皆さんもあると思います。
今日の箇所に登場する、金持ちの議員もそうでした。
・金持ちの議員の悩み、永遠の命を得るにはどうしたらいいか。
議員はイエス様に、「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるか」と尋ねています。
永遠の命って、皆さんも、聞いたことがあると思います。
聖書の中では、大変大事な言葉で、切れることのない神様との関係をあらわします。
そして、そこに真の平安があり、救いがあると聖書は語っています。
でも、実はこの永遠の命、旧約聖書には、ほとんど書いていないんです。
唯一、ダニエル書の12章に出てくるだけなんですが、そこには、「この世の終わりに、ある者は永遠の生命に入り/ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」と記されています。
この言葉に、議員は、ずっと悩んでいたんだと思います。
終わりの日に、自分は、どうなるんだろうか。
永遠の命をいただくことができるんだろうか。
ずっと、思い悩んでいた。
それでイエス様のところに来たんです。
ある意味この問いは、死に対する不安と同じことだと思います。
どんなにお金があっても、どんなに地位や名誉を持っていても、満たすことができない。
この議員は、神様の教えも、忠実に守ってきました。
それでも、確信を得られない。
それで、どうしたらいいかわからず、イエス様に聞きに来たのです。
・イエス様の回答
そんな議員に対するイエス様の答えはこうでした。
22節「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、 天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
「持っているものを売り払って、貧しい人に分けてやりなさい。
そして、私に従いなさい。」ってイエス様は言われました。
これは、単に、財産を手放せ、良いことを行えということではありません。
手放して従いなさいということですから、つまりこれは、任せなさい。
信じて、私に任せないってことだと思います。
イエス様が言われた、議員に欠けていることっていうのは、この信じるってことだったのだと思うのです。
たった一つ、彼に欠けていたこと、それは、信じてまかせるということだった。
これを聞いて、議員は非常に悲しみました。
それは、この議員が大変な金持ちだったからだと、語られています。
彼は、手放せなかったんです。
手放したらどうなるのか、怖くて、不安で、手放すことができなかった。
これは、私もよくわかります。
私にも、手放せないものが、たくさんあります。
たとえば、スマホですね。
どこに行くにも、スマホがないと落ち着きません。
離れられないものの一つです。
それから、本もそうです。
これは、義理の父の話ですけれども、今年の4月から佐賀教会の牧師に就任しまして、先日、その引っ越しの手伝いに行ったんですけど、事前に本が、段ボールで80箱あるって聞いておりまして、嘘だろと思っていたら、本当でした。
その大量の本の一部を、本棚に入れるのを手伝ったんですけれども、口には出しませんけれども、心の中では、「捨てろよ」と思っておりました。
でも、捨てたいと思っても、なかなか捨てられない。
手放せない。そういうもの、きっと、皆さんにもあると思います。
そこにはやはり、ものに依存してしまっている私たちがいるんだと思います。
お金持ちの議員も、お金を持っているからこそ、手放せなかった。
イエス様を信頼するよりも、お金を失う不安の方が勝ってしまったわけです。
・
そんな議員を見て、イエス様は、「金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言いました。
神の国に入る、これも、永遠の命と同じく、救いを意味する言葉です。
つまり、金持ちが救われるよりも、らくだが針の穴を通る、
そんなの無理なんですが、その方がまだ易しい。
それくらい、不可能なことだということです。
それを聞いた人々が、「では、誰が救われるのか」と言った通り、本当に救いのない言葉です。
でも、イエス様は、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われました。
ここに救いがあると思います。
やっぱり、私たちを救うことができるのは、神様だけなんだということです。
死んだらどうなるのかという問いもそうですし、終わりの日に救われるにはどうしたらいいのかという問いも、神様にまかせる以外にできることはないということです。
元気なうち、お金やものに頼れるうちは、なかなかまかせられない私たちですが、やがて、それらのものが、頼りにならない日がやってきます。
なんの役にも立たない日がやってくる。
その時に、まかせるべきところに、まかせられるかどうか。信仰が、問われるのです。
イエス様は、まかせる先はあると、教えてくださっています。
「人間にはできないことも、神にはできる」
神様が、ちゃんと私たちを、受け止めてくださる。
だから、安心して、まかせなさいと、言ってくださっています。
この救いの言葉を、心に留めたいと思います。
そして、同時に、その日に向けて、まかせる訓練をするというのも大事なことかもしれません。
手放すというのは、その一つです。
これがないとダメ。
そう思っているものを少しずつでもいいので、手放していく。
神様にお任せしますと言いながら、手放していく。
そうすることで、モノや金に依存している生き方から解放されて、神様にまかせる信仰が整えられていきます。
献金するというのも、その一つだと思います。
献げることによって、私たちは、お金に頼る生き方から、神様にまかせる生き方へと、解放されていくのです。
物事によっては、手放したくなくても、手放さなきゃいけないということも起こるかもしれません。
頼りにしていた人との別れを経験しなきゃいけないということもあるかもしれません。
事故や病気で、これまでの自分、あるいは自分の生活を、手放さなきゃいけないということもあるかもしれません。
そういう出来事を、神様にまかせるチャンスとして、受け止めていくということもできるかもしれません。
お金やモノで不安を満たすのではなく、神様を信じることで、満たされていく人生へ。
人間にはできないが、神にはできる。
そうやって信頼して生きる人生へと、イエス様は招いています。
この招きに、応えていきましょう。
一週間の歩みの中で、何か一つでもいい。
神様におまかせしますと言いながら、手放してみましょう。
手放すことは、私たちを解放し、信じることへと導いていきます。
神様に任せて、手放していきましょう。
お祈りします。