2024年7月28日主日礼拝メッセージ「大切なわたし」

聖書をお読みいたします。

聖書箇所は、ルカによる福音書19章1節〜10節

新共同訳新約聖書146ページです。

19:1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。

19:2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。

19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。

19:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。

19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」

19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

19:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」

19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」

19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。

19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

「大切なわたし」と題して、村田悦牧師に、メッセージをしていただきます。

・子どもメッセージ

みなさん、おはようございます。

今日は、ようこそ、大分教会に来てくれました。

最初に子どもたちに向けて、聖書のお話をしたいと思いますが、今日のお話は、ザアカイさんっていう人のお話です。

わたしは、このお話が、とっても大好きです。

まずは、このお話を、紙芝居で読んでみたいと思います。

1

あるところにザアカイさんっていう人がいました。

ザアカイさんは、お金を集める仕事をしていました。

人を騙したり、貧しい人たちからも、厳しく取り立てていたので、ザアカイさんは、みんなから嫌われていました。

2

ある日、そんなザアカイさんの村に、イエス様がやってきました。

イエス様が来たということで、村は大騒ぎ。

ザアカイさんも、一目見たいと、やってきました。

でも、ザアカイさんは、背が低かったので全然見えません。

みんなから嫌われていたので、譲ってくれる人もいません。

でもザアカイさんは諦めません。どうにかしてイエス様を見たいと思いました。

そこでザアカイさん考えました。

「そうだ木に登ろう!」

3

ザアカイさんは、木に登りました。

すると、遠くにイエス様の姿が見えます。

「あ!イエス様だ!

やっぱりオーラがあるな。

すごい人なんだろうな。

嫌われ者の僕なんかとは、全然違う。

みんながあんなに喜んでる。

僕も、あんな風になれたらなー。」

そんな風に眺めていると・・・。

4

なんと、そのイエス様が、ザアカイさんの登っている木の下に来たのです。

そして、ザアカイさんのことを呼びました。

「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひ、あなたの家に泊まりたい。」

5

ザアカイさんは、びっくり!

「嫌われ者の僕なんかのところに、イエス様は泊まりたいって言ってくれた。」

ザアカイさんにとっては、初めての経験でした。

ザアカイさんは、大急ぎで降りてきて、

6

早速イエス様を、自分の家に案内しました。

そして、一緒に、一夜を過ごしました。

7

ザアカイさんは、嬉しくなって言いました。

「もう、悪いことはしません。

財産の半分は、貧しい人のために使います。

みんなから騙し取ったお金も4倍にして返します。」

ザアカイさんは、もう悪いことをしなくなりました。

嫌われ者のザアカイさんの家に、イエス様がやってきたっていうお話でした。

たった1日、泊まりに来ただけでしたけれども、ザアカイさんにとっては、それで十分でした。

「誰かが一緒にいてくれる。

嫌われ者の僕の家にも、来てくれる人がいる。

必要としてくれる人がいる。」それが、何よりも嬉しかったんだと思います。

「あなたは、大切。

どんなに嫌われても、あなたは大切。」

イエス様は、私たち一人一人にも、そう言ってくださっています。

イエス様の姿は、見えないけれど、「あなたは大切だ」って、そう言ってくれている人がいる。

そのことを、今日は、覚えておいてほしいと思います。

一言、お祈りいたします。

・ザアカイ=義しい人

聖書には、いろんな人が出てきますが、その人となりを知るために有効なのは、名前を知ることだと言われます。

「名は体を表す」なんて言われますけれども、聖書においてはまさにそうで、名前において、その人の性格や人柄が語られていると言われます。

そこで、今日の主人公であるザアカイですけれども、ザアカイという名前には、どんな意味があると思われるでしょうか。

先ほどの紙芝居から想像すると、どんな意味の名前だと思いますか。

この最初の絵から見ますと、いかにも悪い人に見えます。

「悪党」とか、「卑怯者」とか、そんな意味を想像される方もいらっしゃるかもしれませんが、実は、そうではありません。

このザアカイという名前には、「純粋な人」とか「義しい人」という意味があるそうです。

さっきの話からすると、まるで正反対の感じがしますけれども、ザアカイという名前は、「純粋な人」とか「義しい人」という意味なんだそうです。

その意味からしますと、ザアカイは、純粋で、正義感の強い人物だったということになりますが、しかし、ザアカイに対する周囲の評価は、まるで違いました。

それは、彼がしていた仕事のせいでもありました。

・徴税人

彼は、徴税人という仕事をしていました。

徴税人というのは、税金を集める人のことです。

聖書の舞台であるユダヤは、当時、ローマ帝国によって、支配されていました。

徴税の仕事は、そのローマからの請負仕事でした。

ザアカイは、自分達を支配しているローマのために、同胞のユダヤ人から、税金を取り立てていたのです。

ユダヤ人でありながら、ユダヤの民を苦しめるローマの手先として、働いていた。

そりゃ、嫌われるのも当然でしょう。

さらに、徴税人たちは、徴税額を偽って、私腹を肥やすのが常であったと言われています。

大国ローマを後ろ盾にして、好き放題、取り立てることができたわけです。

そうやって、徴税人たちは、金儲けをしていました。

ですから、わをかけて、みんなから嫌われていたわけです。

ユダヤ社会の中では、犯罪者と、同等の扱いを受けていました。

ザアカイもそうです。

今日の箇所でも、彼は、「罪深い男」と呼ばれています。

・なぜそんな仕事を?

でも、なんでザアカイは、そんな嫌われるような仕事をしていたのでしょうか。

当然、仕事を選べるならば、徴税人なんて、ならなかったと思います。

そこには、何か、事情があったんじゃないでしょうか。

詳しいことは何も書いていませんが、例えば、仕事を覚えることが遅かったのかもしれません。

あるいは、力がなかったのかもしれない。

人付き合いがうまくできないということもあったかもしれません。

聖書には、「背が低かった」と書いています。

もしかしたら、生まれつき何らかの障がいや、病気をもっていたのかもしれません。

ともかく、まともな仕事につけなくて、しょうがなく、徴税人になったのだと思います。

でも、なってみると、それだけで、周りの人たちから、冷たい目で見られるようになった。

仲間たちも、次第に、離れていってしまった。

しかし、生きていくためには、仕事をするしかありません。

ザアカイは、一生懸命仕事をしました。

ついには、徴税人の頭にまで出世しました。

でも、もちろん、誰も褒めてくれません。

むしろ、頑張れば頑張るほど、嫌われていく。

「どうせ嫌われるなら…」って、自暴自棄になることもあったでしょう。

どうせ嫌われるなら、その分得してやろう。

どうせ嫌われるなら、金持ちになってやろう。

そうやって彼は、辛い気持ちや、寂しい気持ちを、お金を稼ぐことでまぎらわしていったのです。

とにかく金だ。金でみんなを見返してやる。幸せになってやる。

そういう思いで、彼は、必死に、お金を集めるようになっていったのです。

そうやって彼は、徴税人の頭になり、お金持ちになっていきましたが、しかし、ザアカイは、そんな自分のことを、どう思っていたんでしょうか。

徴税人の頭で、お金持ちであるという現状に、満足していたでしょうか。

もし、ザアカイが、その名の通り、純粋で、義しいことを好む人だったなら、むしろ、罪悪感でいっぱいだったんじゃないでしょうか。

人を騙したり、仲間を裏切ったりする度に、自分自身も傷つき、痛んでいった。

「なんで、こんなことしているんだろう。

どこで、間違ってしまったんだろう。

こんなはずじゃなかったのに。」

ザアカイは、心の中で、そう思いながら、仕事をしてたんじゃないでしょうか。

本当は、友達も欲しかった。

みんなから、慕われるような人になりたかった。

でも、そうなれない。

そんな中で、ザアカイは、自分自身が、どんどん嫌いになっていった。

なりたい自分になれない。

仕事をすればするほど、理想の自分からかけ離れていく。

そんな中で、周りの人たちだけじゃなく、ザアカイ自身、自分のことが嫌になっていった。

自分を否定するような気持ちばかりが、膨らんでいった。

そんなことがあったのではないでしょうか。

・大切なわたし

イエス様は、そんなザアカイのもとに、来られました。

そして、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われました。

イエス様は、ザアカイのことを、「徴税人」とか「罪深い男」ではなく、「ザアカイ」と呼びました。

そして、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われた。

ザアカイは、かつて、「あなたの家に泊まりたい」なんて、言われたことがあったでしょうか。

少なくとも、徴税人になってからは、なかったと思います。

ザアカイの家に来る人なんて、同じ徴税人か、金目当ての人ぐらいしかいなかったでしょう。

そんなザアカイにとって、イエス様との出会いが、いかに特別なことであったことか。

ザアカイは、イエス様との出会いを通して、人が変わったようになりました。

「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。

また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」

まあ、本当に、そういうふうにしたのかということは、わかりませんけれども、でも、ザアカイが、このように言ったということが、とても大事であると思います。

これは、彼の決別の言葉です。

これまでの歩みに対する、彼の決別宣言です。

自分は変わる。変わりたい。

そう言わしめるほど、ザアカイにとって、イエス様との出会いは、衝撃的なものだったということです。

イエス様がしたことといえば、突然押しかけて、泊まっていっただけです。

冷静に考えれば迷惑な人かもしれません。

でも、この時のザアカイには、それが必要だったのです。

孤独を感じ、寂しさを感じ、自暴自棄になっていた彼にとって、誰かが必要としてくれる。

誰かがそばにいてくれる。

そんな当たり前のことが、彼にとっては、当たり前ではなかったのです。

この出会いの中で、ザアカイは、何より、自分自身を取り戻していったのだと思います。

自分を大切にすること、自分の気持ちを大切にすることを、取り戻していった。

その第一歩が、財産の半分を貧しい人々に施すことであり、騙しとったものを四倍にして返すことだったのです。

それは、誰かのためであると同時に、彼自身のためでもあったのだと思います。

徴税人をすることで、痛めつけてきた自分自身、捨ててきた自分自身を、取り戻すことであった。

自分なんて価値がない。

自分は負け組、落ちこぼれ。

徴税人にしかなれない、愚か者だ。

そうやって、自分で自分を貶めてきた。

でも、イエス様と出会って、もう一度やり直そうと思ったわけです。

自分は、価値ある人間だ。

大切な人間なんだ。

愚か者なんかじゃない。

純粋で、正義感の強いザアカイだって、自分自身が回復されていった。

これが、イエス様の語る、救いなのだと思います。

みなさんは、どうでしょうか。

自分はダメだって思っている人は、いないでしょうか。

自分のことが嫌いで嫌いでたまらないって、そう思っている人はいないでしょうか。

以前、小学生を対象にした教会のキャンプに参加した時に、アンケートで同じ質問が出されたことがありました。

私はグループリーダーで、自分のグループの子どもたちが答えた結果を見て、びっくりしました。

私のグループの子どもたちが全員、「自分のことが嫌い」っていう欄にチェックを入れていたんです。

なんで、こんなことになるんだろうって、思いました。

でも、そう思いながら、実は、私も、同じ欄にチェックを入れていたんです。

振り返ると、昔から、そういう傾向が強かったと思います。

よく自己嫌悪に陥っていました。

調べてみますと、理想が高い人ほど、自己嫌悪に陥りやすいそうです。

こうなりたいのに、なれない。

こうしたいのに、できない。

しなきゃいけない仕事があるのに、携帯ゲームをして現実逃避してしまったり、

ダイエットするって決めたのに、一週間も続かなかったり、

特に私の場合は、昔から本番に弱くて、大事なところで決められないってことがありました。

小学校の時には、学年集会でスピーチをする前日に、熱を出して出られなかったことがありました。

中学の時には、部活最後の大会の直前で、足首の靭帯を切ってしまって、出られませんでした。

高校時代も、学園祭の出し物の準備中に、足を骨折してしまって、本番出られませんでした。

そんな話は、あげたらキリがないほど、たくさんあります。

その度に、やっぱり自分はダメなんだって、自己嫌悪に陥って、

そして、それが続くと、どうせ自分はダメなんだって、自分を卑下するようになってしまう。

どうせ自分なんて、どうせ私なんて、そんな言葉ばかりが、内側から湧いてくるようになってしまう。

未だに、そういうことがあります。

でも、そんな自分を、受け止めてくれている人がいる。

そんな自分を、大切だって、言ってくれている人がいる。

少なくとも、イエス様は、自分のことを、大切に思ってくれている。

どんなに弱くても、どんなに欠けがあっても、

「それでいいじゃない。

そのまんまでいけばいい。

あなたは世界に1人だけ。

たった1人の大切な存在だ」って、そう言ってくださっている。

その声に、励まされながら、今日も、ここに立つことができています。

「それでいい、そのまんまでいい」って、言ってくださる方がいる。

どんなに弱さや欠けがあっても、「あなたは大切だ」って言ってくださっている方がいる。

そのことを、覚えたいと思います。

「自分なんて」って言葉が湧いてきたら、「それでもイエス様は、わたしのことを大切だって言ってくださっている。」

そう言って、イエス様の言葉で上書きしながら、生きていきたいと思います。

そうやって生きていく時に、自分のことを大事に、そして、他者をも大事に、生きていくことが、できるようになっていくのではないでしょうか。

お祈りします。

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